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【05】雷鳴――現在――??
優也は、帰りの車の中でもほとんど無言だった。
山道には慣れてきた、と行くときに言っていたから、運転に集中している、とはちょっと違う気がした。
何か、気になっているんだと思う。
けれどあたしは、それが何なのか、聞けないでいた。
うねる山道を抜け、別荘に戻るころには、雲行きがどんどん怪しくなってきた。
「嵐でも来そうだね」
車を降りて、ポツリポツリ降り始めた雨に、不安げな声をあげると、優也は短く頷いて、眉をひそめた。
嫌な予感は見事に的中して、七時を過ぎた頃、雷が鳴り始めた。
ゴロゴロ……
空が機嫌を損ねた声をあげる。
唸るような風が窓を叩く。
ピカリ。
筋状の光が走る。
あたしは夕飯のレトルトシチューを食べながら、カタカタと手が震えるのを感じていた。
「繭、食うの辛かったら、もういいぞ」
そんなあたしを案じて、優也が声をかけてくれる。
「うん」
頷いたあたしは、ふらふらと二階にあがった。自分が使った食器も片付けずに。
不安と恐怖が近付いていた。
モノノ怪の気配を感じた。
背筋を虫が這うような不快感があった。
ベッドに横たわって、ぼんやり窓の外を見た。
木が揺れている。雨がガラスを叩いている。
そんな景色を眺めていると、目の前にうっすらと影が見えた。
顔を真っ黒に塗りつぶされた影は、あたしの体に触れようとする。
それが嫌で、あたしは手で影を追い払おうとする。
けれどどんなに手をブンブンと振っても、掌は影を通り抜けるだけで、一向に影自体を遠ざけてはくれない。
真っ黒な顔がにゅっと一気にあたしの顔に近付いた。
あたしは恐怖に思わず声を上げた。
「ひっ」
来ないで。来ないで。来ないで。来ないで。
触らないで。お願いだから!
「どうした」
温もりを帯びた声が耳に届いた。
誰?
よく知っている声だ。
これはあの時風船をとろうと、木に登ってくれた男の子?
それとも海辺で遊んだ彼だろうか?
よく知っていて懐かしい。
大好きな誰かの声。
あたしは影に重なるようにして現れた『誰か』の首に腕を絡めた。
そうして口づけを待って、目を閉じた。
戸惑っている気配があって、もどかしくて自分から唇に吸い付いた。
その瞬間、ピカリ、と空が光って、部屋一面が明るくなった。
その光は全てを露わにした。
相手の顔は、子供の頃よく見せられた立派な大人の男のひとのもの。
『この人がお父さんよ』
脳裏で道子先生の声が響いた。
唇に当たる暖かい温もりが、急に生臭く感じられて、あたしは顔を背ける。
ピカ。
ド、ドーーーーーーーーン。
ああ、神様が怒っている。
恐怖に震えた。身を縮めた。
すると、男の腕があたしを捉えた。
『お父さん』
お父さんはあたしを強く抱きしめて。
力強く抱きしめて。
その時不意に、『男』の匂いがした。
『雄』の臭い。
発情した、雄の臭い。
あたしは全身の力を込めて、本当にどこにこんな力が眠っていたのかと驚くほど強い力で、男を突き飛ばした。
がたん、と大きな音を立てて、男は壁に背をぶつける。
ピカリ。
ああ、見たことがある。この光景。
あの時と同じ。
あの時あたしは、お父さんを突き飛ばしたんだ。
七年前、あの嵐の夜。
事件のあった夜。
けど、突き飛ばして、あたしは意識を失ったんじゃなかったっけ?
その後の景色も見えるってどういうこと?
ピカリ。
上から置時計が落ちてきて、突き飛ばされた男の頭を直撃した。
ピカリ。
気を失ってずるずると、床に転がる男。
時計?
ううん、違う。
あれは。
あの夜は。
そう、猟銃。
突き飛ばされて、暖炉に激突したお父さん。
そこに猟銃が落ちてきて、お父さんが床に転がった。
動かなくなったお父さん。
お父さんは死んだ。
死んだんだ。
あたしはそう理解した。
それと同時に、優也が飛び出してきたんだ。
優也はちらりとこちらを見遣った。
その瞳は強く、『大丈夫。安心しろ』そう言っていて、あたしはその瞳に全てを委ねて、そうして……本当に、気を失ったのだった。
ああ、思い出した。
全部思い出した。
あの時、お父さんを殺したのは、このあたしだ。
殺人犯は、優也のお父さんなんかじゃなくて、あたしだったんだ。
ピカリ。
ゴロゴロゴロ。
ピカリ。
ドーーーーーーーーーーン。
雷が、堕ちた。
眩い光は天を明るく、部屋を明るく照らして、床に転がった置時計と、その傍らに横たわる優也の白い顔をはっきりと浮かび上がらせていた。
あたしはその場に座り込んだまま動けず、両手で顔を覆って、天を仰いだ。
神様。
神様、ごめんなさい。
悪いのは、やっぱり、あたしだったの。
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