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【10】潜む悪意――現在
警察署から徒歩で二十分くらい歩いたところに里川さんの住むアパートはあった。二階建ての木造アパートは見るからにボロボロで、今にも崩れそうだった。
生い茂った木が周りにびっしり植えられていて、住人は殆どいないという。
正直、住む気にはなれない場所だった。
「里川さんはどうしてここに?」
失礼かとは思ったが、そんな風に聞いてみた。
すると、里川さんは気を悪くする風もなく、
「人の気配が無い方が落ち着くし、家賃が驚くほど安いんだよ」
と、教えてくれた。
照れ笑いを浮かべられて、あたしまで、笑ってしまった。
この人といると、なんとなくほっこりしてしまう。
「それからね、よく野良猫が窓から入ってくるんだ。僕が帰ると、堂々と昼寝してることなんてしょっちゅうさ。それもこのアパートの魅力だよ」
里川さんは悪戯に言った。
「一応、ペットは禁止なんだけど、野良猫までは責任取れないからね。僕は、猫がとても好きなんだ」
あたしも猫は好きだ。気まぐれな性格なくせに意外と寂しがりやで、しなやかで美しい肢体を持っている。子猫なんか、思わず顔がふにゃーってなるくらい愛らしい。
「あたしも。あたしも、猫大好きです。飼えるなら飼いたいくらい」
「飼えないのかい? ああ、都会のマンションじゃね」
「そうなんです。このあたりなら、問題なさそうなのになぁ」
「じゃあ、引っ越してきちゃえば?」
「あはは、それもいいですね!」
そんな風に、二人で猫トークをしながら、ギシギシいう階段を登った。
里川さんの部屋はアパートの一番奥。
隣の部屋も、下の階も人が住んでいないという。
経営大丈夫なのかな? と気になって聞いてみたら、大地主さんの物件だから、建て壊しなどの心配は当分ないんだとか。
『しー』
里川さんが人差し指を立てて唇の前にもっていく。
『中で子猫が昼寝をしているかもしれないから、静かに入って』
鍵ががちゃりと開けられて、あたしは誘われるように中に入る。
中は昼間なのに真っ暗だった。
写真を現像する暗室のように。
猫がよく勝手に入ってくるという窓も、ぴっちり閉められていた。
不思議に思って首を傾げると、後ろから、突然口を塞がれた。
抵抗するまもなく床に転がされる。
あたしは背中を強く打って、小さく声を上げようとしたけど、その声すら大きな掌で覆われていて漏れ聞こえはしない。
バチン、明かりがつけられる。
その壁という壁を埋める写真に、あたしは恐れ、慄いた。
二つの瞳があちこちからこちらを見つめている。
無邪気な顔。
知りすぎた顔。
それは、『あたし』だった。
壁一面に、天井にも、大量に貼られた、あたしの写真。
笑っているものもあれば、膨れているのもある。
隠し撮りでどうしてこんなに目線を合わせることに成功したのか、写真は皆一斉にこちらを向いていた。
「すごいでしょ。カメラを繭ちゃんが見つめそうな場所に、セットしておいたんだよ。だから、この部屋ではどこにいても繭ちゃんと目が合う」
相変わらず穏やかな口調で里川が言った。
中にはあたしの顔と誰かの裸をコラージュした例の写真もあって、あたしは凍りついた。
「ねぇ、もう優也くんとは寝たの? 電車の中で頭を預けてたよね。あんな密接な距離、寝て無かったらありえないよね」
『売女』
吐き捨てるように、里川が言った。
「昔から知っていたけどね。君がお父さんに抱かれてるの、ずっと見てたよ。可哀想だと最初は思って、でも、見ていたらだんだん興奮してきて。気づいたら自慰なんかしてた。お父さんに抱かれていた十歳の君は酷く淫らで扇情的だった。あれを見てから、もうだめだ。ネットでどんなに幼女レイプの画像を見ても満たされない。本物の女の子ともしてみたけど、あの時程の興奮は得られないんだ。
君だけが。
繭ちゃんだけが特別なんだ。
だから、手紙を送ったんだよ。読んでくれたよね? 同封した写真も。あれからずっと、僕は君を見守ってきた。
いわば君のナイトだ。なのに、優也くんと、寝たんだろう?
そんなのひどい裏切りだと思わないか」
この人、何言ってるの? 裏切り?
言ってることがめちゃくちゃだ。誰がナイト?
やってたことはただのストーカー行為じゃない。
お父さんとのこと見てたんだ。
見てた、人がいたんだ。
優也のお父さんの他にも。
こんな屈辱、堪えられない。
いっそ今すぐ舌を噛み切って死んでやろうか。
でもそんなことをしたら、真実は闇の中。
優也を犯罪者の息子のまま、あたしは死ぬわけにはいかないんだ。
そうだ。
優也。
優也を、助けなきゃ。
でも、どうしたらいいの?
怖い。悔しい。怖い。怖い。怖い。怖い。
助けて優也!!!!!!
誰か!!!!!!
助けて。
もう嫌だよ。こんな屈辱。
もう、嫌だよ。淫らで扇情的!?
あたしが誘ったとでも言うの!?
十歳のあたしが。
あたしが悪いの?
ねぇ、神様。
あたしが悪い子だから、こんな目に合わせるんですか?
あたしが、お父さんと寝たから?
お父さんを……殺したから?
口にガムテープを貼られて、腕は縛られた。
破られたブラウス。
ブラジャーに手がかかり、あたしの全身に怖気が立った。
と、その時だった。
ばん、と何かがすごい勢いで扉を破って転がり込んだ。
鍵はかかっていたはずだけど、ボロいアパートの扉は脆かったようで。
現れたのは、息を切らせた優也だった。
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