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【02】仁科優也――現在
正門の横に、背の高い影。白い制服を着た優也が、あたしに気づいて顔を上げた。
「おいおい、この暑いのに走るなよ」
そう言われたって、急には止まれない。
優也が言い終わるころには、あたしはもう目の前にいた。
「おまたせ!」
呼吸を整えながら、見慣れた顔を見上げる。
「全然。待ってないよ」
嘘つき。結構長く待ってたくせに。
けだるげな優也の顔を、よくよく眺める。
おかしいな。汗ひとつ見当たらない。
正門の周りには木陰もないし、照り返しだけでも相当暑い。
なのに、なんてことないって涼しげな顔。
優也はいつもそうだ。
いつだって、どんなときだって、汗だくになったりしない。泥や汗に塗れた優也を、想像することだってできない。きっと今までの人生、焦って狼狽えたことなんて、一度もないんだろうな。そのくらい、いつも涼しい顔をしている。
しかも、女のあたしよりずっと綺麗。
肌なんか、透明度が高くて真っ白だし、サラサラの黒髪から覗く瞳は、吸い込まれそうに深い。そのうえ、スラリとした長身にモデル並みのイケメンだから、隣を歩いてると、女子の視線が痛いったらない。
それにしても。UV対策をしているわけでもないのに、どうしてこうも美肌をキープできるんだろう。羨ましいのを通り越して、その秘密が知りたい。
「なんだよ、繭。ジロジロ見て」
凝視していたら、真顔で。
「……あ、見惚れてる?」
「ちっ、ちがいます!」
図星を指され、思わずどもってしまった。
それを見逃す優也じゃない。
「当たり、か」
満足そうな、ドヤ顔。
うう。悔しい。言い返せない。猛烈に悔しい。
「なぁ、繭?」
優也はひとしきりニヤニヤした後、突然あたしに顔を寄せて、そっと耳元で囁いた。
「いくらでも見惚れていいぞ。美形は、そんなの慣れてるんだ」
「はぁ?」
あんまりの言葉に、思わず笑ってしまった。
その勢いを借りて、照れ隠しにまくし立てる。
「なによ、それ! 自過剰! 優也のナルシスト!」
「いえいえ、事実ですから」
「性格悪い」
「自覚してます」
「明日から、もう迎えに来なくていいよーだ!」
冗談に混ぜて、言った。
こうすれば、きっと大丈夫。
優也も流れで、頷くはず。
けれど。
「それはダメだ」
真剣な声音で、キッパリと言い切られてしまった。
一瞬の沈黙。
気まずさを誤魔化そうと、あたしは日傘を傾ける。
紫外線を遮断する黒い布が、今は優也の視線も遮ってくれている。
「だってさ、毎日送り迎えっておかしくない? ……彼氏でもないのに」
クルクルと日傘を回しながら、歩く。
すぐ背後、寄り添うように、優也がついてくるのがわかる。
「ストーカー、怖いんだろ。変な意地張るな」
最後の言葉、聞こえてなかったのかな。
あたしは大きく息を吸ってから、今度はハッキリと言った。
「優也が彼氏だって、間違われても困るから」
「俺は困らない」
しれっと放たれた言葉に、心臓がばくん、と鳴った。
「困らないの?」
「困らない」
「ふ、ふぅん」
動揺を悟られまいと、自然と足早になった。
困らないの? どうして?
まぁ、彼女なんて作ろうと思えばいくらでも作れそうな優也だからな。
だから、困らないんだろうけど。
けれど。
でも。
だけど。
それ以上の想像もちらり。
相手があたしだから、困らない?
そんな風に考えてしまって、慌てて否定。
いけない、いけない。そんなわけ、ない。
優也は、同情してるだけ。可哀想な身の上に、同情してるだけ。
あたしに、負い目があるだけなんだから。
……だから。
変な期待はしないでおこう。
吹っ切るために、わざと茶化すように、言った。
「優也はさ、心配性だよね! だから、過保護って言われるんだよ」
「誰が言った?」
「蘭。キング・オブ・過保護だって」
「……言わせとけ」
きまりわるそうな、ぶっきらぼうな口調が、なんかかわいい。
あたしは途端にご機嫌になって、優也の隣を踊るように歩き続けた。
夏の太陽は、容赦ない。
優也とこうして歩く時間は大好きだけど、今日みたいな日には、流石にちょっと憂鬱にもなる。
学校から家までは、徒歩で四十分。雨や雪だと、一時間以上かかる。他のみんなみたいに、バスを使えばもっと早いけど、使おうと思わない。というか、あたしには最初から、その選択肢はなかった。
乗り物は、苦手なのだ。
理由は簡単。大抵の運転手は男性だから。
あたしは、優也以外の男性が、とにかく苦手だった。
「せめて自転車だったらなぁ」
思わず呟いたら、すかさず突っ込まれた。
「あれ? 繭、乗れるようになったのか?」
「乗れないけど! でも練習すれば……」
「やめとけ。そのころには卒業してる」
「え~、酷い! 優也の意地悪!」
腹が立ったあたしは、優也を置いて駆け出した。
少し走って、追ってくる気配がないことに気づく。
振り向くと、
「セミ、煩いな」
鬱陶しそうな響きの声。
優也は立ち止まり、天を睨んでいた。
突き刺すような、鋭い視線。
まるで、そこに鬼でもいるみたい。
つられて同じように天を見上げてみた。けれど、そこには青い夏空が広がるだけで、鬼も悪魔も見当たらない。
あたしは黙って日傘を閉じた。
蝉の声が、幾重にも響いてきて、耳が痛い。
時々、優也は、知らない人みたいな厳しい顔になる。
別人かと思うほどに、鋭い顔つき。
そんな優也を見るたびに、あたしの知ってる優也が消えてしまうようで、どこか遠くへ行ってしまったようで、あたしは凄く不安になるのだ。
優也。優也、お願い。そんな顔しないで。知らない人にならないで。あたしの知ってる優也でいて。いつも優しい優也でいて。
優也のシャツの裾を、ぎゅっと掴んだ。
硬直したあたしに気づいた優也が、まるで心を読んだみたいに優しい顔で声をかけてくれる。
「どうした、繭?」
それは、いつもの優也の顔だった。
あたしは内心でホッとして、でもそれを知られたくなくて、曖昧に笑った。
「ん~? なんでもない」
「そうか? 何かあったら、すぐに言えよ。遠慮すんな」
「うん」
あたしは素直に頷いて、そうしてさりげなく、優也の手を握った。
「彼氏と間違えられたら困るんじゃないのか?」
「困らないんでしょ?」
わざと強気に言ってみたけど、優也は何も言わなかった。
あたしたちはそのまま、そっと指先だけを繋いで、しばらく無言で歩いた。
真夏の太陽。熱気と湿気。揺れる陽炎。蝉の合唱。道路に伸びる黒い影、ふたつ。
まるで、あの日の高原みたい。
あたしは、ぼんやりと思い出していた。
優也と初めて出逢った、あの日のことを。
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