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終章
病室の窓から、風が入り込んでくる。
カーテンが、揺れている。
夏の終わりの風。
高原の、湿度の低い風。
まだ外は暑いけれど、風が少しだけひんやりして、秋の予感を運んでくる。
あたしは、優也のいる病室の前に立っていた。
右手には、古びた小さなラジカセがひとつ。
ここは、脚を撃ち抜かれた優也が、入院している病室だ。
マスコミ対策もあり、病院の奥まった棟に位置する個室に優也はいた。
仁科のご両親は、まだこちらに到着していない。
話すなら今しかない。
あたしには、告げなければいけないことがある。
「優也、起きてる? 入るよ」
そっと、声をかけて室内に入る。
「繭」
優也は起きていて、ベッドの上で本を読んでいた。
「待ってた。もう退屈でさ」
「傷、どう?」
「たいしたことないんだって。大袈裟だよな、みんな」
「銃で撃たれたのは、たいしたことなの」
あたしの意外と強い口調に押されたのは、優也は「へいへい」と呟いて黙った。
「ここ、座るね」
優也のベッドの隣、丸いスツールに腰を下ろし、ラジカセを置く。
「あれ、懐かしいもの持ってきたな」
「うん。車の中にあったのを思い出して」
「聴きたいな。繭、かけて」
「小さい音なら、平気だよね」
あたしは、カセットデッキの再生ボタンを押した。
ガチッという音がして、いつもの曲が流れ出す。
携帯プレイヤーでも、CDでもない、擦り切れたカセットテープから聞こえる、懐かしい音楽。
優しい子守唄のような歌。
あたし達は、そのまま黙ってHey Judeを聴いていた。
あたしはこの歌が大好きで。
優也と初めてあったこの高原で、この曲を同じように聴けることが嬉しかった。
目を閉じると――ううん、閉じなくても。
あのガラクタだらけの小屋の風景が目に浮かぶ。
外には相変わらず使われていないクレーンやらゴミのように木材やらが積まれていて。廃墟感を演出しているようで。そこが、普通の場所ではなくて特別な場所なのだと、主張しているよう。
全てから忘れられた場所。時の止まった場所。
埃が舞って、キラキラ光っていた、あの。
深呼吸。
大丈夫。あたしは、もう大丈夫。
言える。あたしは、言える。
心の中で呟いてから、大きく息を吸って。
「話が、あるの」
ぽつり、あたしが口を開いた。
それは雫がポタリと水面に落ちるような、そんな声だった。
「優也、もう、あたしはひとりで大丈夫。あなたを、解放してあげるね」
優也は黙っていた。
もしかしたら、あたしが別れをきりだすのを、わかっていたのかもしれない。
あたしは沈黙を了承と取って、続けた。
「ねぇ、優也。あたし達、他人に振り回されてただけだったね。悲しい七年だったね。だけどこれからは大丈夫。あたし達は別の場所で、それぞれ、幸せに暮らしていける」
『別の場所で』
その言葉を紡ぐ時、あたしの声は詰まりそうになる。
優也と離れ離れになる。
しかももう二度と会えないかもしれない。
ううん。多分会えない。
それがこんなに悲しいことなのだと、今更実感する。
泣きそうになる心を抑えて、あたしはそっと、立ち去ることにした。
これ以上ここにいたら、泣き出してしまう。
別れは嫌だと、優也が大好きだと、きっと泣き出してしまう。
その前に。
あたしは立ち去らなきゃ。
優也をあたしという呪縛から、七年前の事件から、解放するために。
あたしは静かに立ち上がった。
そうして優也に背を向ける。
これでいい。
あたしはもう、一人で生きていける。
窓の外から、ひぐらしの鳴き声が聞こえた。
それがあんまり綺麗で、あたしはまた泣きたくなった。
一歩、一歩と踏み出して、扉に手をかける。
さようなら、優也。
心の中で呟いた瞬間、思いがけない言葉が耳に飛び込んできた。
「繭は、それでいいのか」
ぽつり、絞り出すような声だった。
なにかを堪えるような。
「振り回されるだけの人生で、いいのか? 親父さんに振り回されて、里川に振り回されて、そうして俺のことで自分を責めて」
優也の声は、初めて聴く響きを纏っていた。
怒っている?
優也は、今、怒っているの?
「繭が、そうしたいのか?」
あたしが、そうしたい?
優也と離れたい?
そんなわけないじゃない。
でも、このままじゃダメだから。
優也の作った繭の中に、ずっといるわけにいかないから。
優也を、大好きな優也を、あたしから解放してあげなきゃ、ダメだから。
あたしは何も言えず立ちすくむ。
すると、優也は。
「なぁ、繭、悪いように考えるなよ。悲しい歌も、素敵な歌に変えておくれよ」
それは、Hey, Judeの歌詞。何度も聴いた、何度も繰り返した、あたしたちの曲。
「繭。今だから言うけどさ、『成海優也』の人生って、クソみたいにひでぇモンだったんだ。いいことなんてない。希望なんてない。俺は十歳のあのころまで、ずっとずっと、世界を憎んで生きてきた。そんな俺の世界を変えたのが……繭、お前なんだ」
あたし?
聞きたいけど、聞けない。
あたしは背を向けたまま、優也の言葉を待っていた。
「ラジカセであの曲を聞いて、意味なんかも一生懸命調べて。悲しい歌を素敵な歌に変えてみたいとあがいて、でも、全然素敵になんかならなくて。そんな時、繭と出逢った。繭は、俺のクソみたいな日常を、あっという間に変えちまった。悲しい歌を、素敵な歌に変えてくれたんだ。お前とすごしたほんの数日間が、『成海優也』の思い出の全てになった。それがあるから、俺はその後も生きていられた」
どうして?
どうして、今更そんなことをいうの?
あたしは、別れを告げているのに。
「繭に会いたい、それだけを頼りに、生きた。『仁科優也』になってからも、それなりのことはあった。だけど、支えは繭だったんだ。繭だけだったんだ。お前がいるから、生きていける。繭がいてくれるから、俺は立っていられる」
そんな風に、言ってくれるんだね。
あたしのせいで、散々な目に遭ってきたのに。
「解放してあげる? 誰がそれを望んだ? 少なくとも、それは俺じゃない」
優也を解放してあげなくちゃ、そう思っていた。
それだけを考えて、ここまで来た。
でも、優也はそれを望まないという。
そうして怒ってる。
勝手に決めて、勝手に去ろうとしているあたしに。
「あたしだって」
我慢していた声が、漏れてしまった。
「あたしだって……優也と別れたくなんかないよ」
「だったら、別れる必要ないだろう」
「でも優也は、あたしといたらダメだもの。ずっとあたしを優先して、自分を殺してしまうでしょう? そんなの、嫌だもの」
「俺には繭が大切なんだ。誰より、何より。だから、そうしたくてしてる。すべては俺が望んだことなんだ。繭……」
紡がれた言葉は、およそ優也らしくない声だった。
「俺を一人にしないでくれ……繭」
泣いている?
あの、優也が?
あたしは思わず、振り返ってしまった。
決して振り向かないと、決めていたのに。
優也は晩夏の陽射しを受けて、その白い肌に綺麗な雫を纏わせていた。
「優也……あたし……」
言葉が続かない。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
あたしが、間違っているの?
それぞれ事件に決着をつけて、優也と別れて、お互いの人生を、誰にも振り回されない人生を歩むのが正しいと、そうすべきだと思ったあたしが、間違っているの?
わからない。
わからないよ、優也。
「確かに、俺たちの人生、他人に振り回されてたよな」
優也が、さっきまでの涙はどうしたんだろうと思うような、キリリとした声音で告げた。
「だから、これからの人生は自分で歩むべきだと、俺も思う。そのうえで俺は、繭とともに生きていきたい」
なにそれ。
なんで、そんなこというの。
どうして、決心が鈍るようなことばかり。
「繭は? どうしたい? 七年前の事件も、俺のことも考えないで、言い訳は全て捨ててくれ。本音を聞かせてくれ。繭は、どうしたい?」
『繭は、どうしたい?』
優也の言葉が胸の奥の扉を叩いた。
「あたしは……」
その想いを口にしようとして、涙が溢れてきた。
幾重も幾重も、涙がポロポロと。
そうして嗚咽を漏らしながら、
「優也といたい」
『ごめんなさい』と付け足して。
あたしはわんわん泣き出した。
優也と離れるなんて絶対に嫌だ。
もう二度と迷惑かけないから、一緒にいてほしい。
優也に一緒にいてもらえる、甘えるだけじゃないあたしになる。
だから。
だから。
一緒にいてください。
共にこの先も、歩んでください。
できるなら一生。
例え叶わない望みでも、あたしは強く強く、そう願ってしまう。
優也が好きだ。誰より。何より。
「繭、俺も繭といたい」
言葉が沁みた。
痛いほどに。
「悲しい想い出は、全部ここに置いていこう。今までの十七年、取り返すつもりでこの後生きていこう。こんな経験をしたふたりだから。こんな出会いをしたふたりだから、きっとできる」
『幸せになろう』
あたしはその場に崩れ落ちた。
そうして泣いた。
今までの全てを洗い流すように。
「好きだ、繭」
小さく、本当に小さく。
自信家の優也には珍しく消え入りそうな声で言った。
その声はHey Judeのメロディーになんとか消されずにすむくらいの声で、あたしは笑ってしまった。
あたしも好きだよ。
ずっとずっと好きだったよ。
答えようとして、涙が溢れて答えられない。
すると優也が、そっとあたしを抱き寄せて。
突然音楽のボリュームが上がった。
そうしてそのまま、そっと唇を押し当てられて、抱きしめられた。
カーテンが、翻って、視界が白に染まる。
まるでふたり、繭の中にいるみたいに、思えた。
世界から隔離された、優しい優しい繭の中、何度も口付ける。
深い深い繭の中にいるのです。
夢見心地でうとうとと、ずっとそこにいるのです。
どんな痛みからも、哀しみからも守られて。
微睡みのような、微笑みのような、優しく淡い繭の中。
いつまでも二人。
包まれ、守られて。
神様、どうか赦してください。
あたしを、優也を、赦してください。
辛いことも、哀しいことも、どんなに苦しいことだって。
二人でともに、乗り越えていくから。
愛しく、優しい繭の中で。
夏の匂いの風。
繋いだ手の温もり。
微笑み合う二人。
優しい繭の中、いつまでも。
あの懐かしいメロディーが、響いていた。
――了――
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