【03】あの夏――過去

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【03】あの夏――過去

七年前の夏、あたしは十歳だった。 幼い頃から病弱だったあたしは、学校を休んでばかりで、毎日のほとんどを眠って過ごしていた。 父も母も、誰もいない家の中は深海みたいに静かで、いつまでだって眠っていられた。 母の顔は、写真でしか知らない。あたしを生んですぐに死んでしまったのだ。 写真の中でいつも微笑んでいる母は、透けるような白い肌をしたとても綺麗な人で、まるで天使みたいだと、幼心に憧れていた。自分とあまり似ていないことが、残念でならなかった。大きくなれば似てくるかもと、淡い期待を抱いていたけど、やっぱりあんまり似ていない。隔世遺伝という言葉を知ったときには、恨めしく思ったものだ。 父は、大きな会社の重役をしていた。仕事内容は、詳しく知らない。ただ『誰でも知ってる大きな会社の偉い人』だということだけは、なんとなく理解していた。実際に、かなりの権力を握る立場にいたのだと、後に父の妹である叔母から聞いた。 資産家でもあった父の建てた家は、簡素ではあったけれど、広くて大きかった。窓の少ないその家は、近所でも有名だったらしい。 周りの人からはいつも『立派なお父さんでいいわね』『繭ちゃんは幸せね』と言われた。 その度にあたしは、ニヘラと笑って誤魔化していた。言われていることが、よくわからなかった。 確かに、父は立派だったのだろう。妻に先立たれ、仕事に忙殺されながらも、幼い娘を育てていたのだ。いくら財産があったからといって、簡単にできることではないに違いない。 けれどあたしは、そんな父の顔をほとんど覚えていない。 その頃のあたしの世界は、とても狭かった。 仕事で不在ばかりの父、写真でしか知らない母。頼れる親戚も近くにはいない。学校に行かないから友達もいない。近所とのつきあいもない。 家、時々、学校と病院。 あたしの世界は、それだけで構成されていたのだ。 そこに新しい景色が増えたのは、確か小学校に入った頃だったと思う。 夏休み、泊りで出かけると言われ、ドキドキしながら父の車に乗った。初めての長距離ドライブだった。車酔いと格闘の末に着いた先は、高原の別荘地だった。 深い緑と、澄んだ水の匂いを覚えている。 山奥の簡素な別荘地は、険しい山道を抜けたところにあった。いろんな形や大きさのコテージが、ところどころに並んでいる。その一番奥、周囲の建物から隔離されたみたいな場所に、水色の屋根の家がポツンと建っていた。 木目の透けた壁は全体が白く塗られていて、発光しているようにも見えた。小さな窓枠も白く、石段の上の扉も白。そこには金色の小さなベルがついていて、まるで童話の世界みたいだった。 チリン、という音と共に中に入ると、あたしは思わず声をあげた。白を基調としたカントリー風のインテリアに圧倒された。まるで、お姫様のお城だと思った。 高い天井には大きな羽がついていて、ゆっくりと回っている。シャンデリアに反射した午後の陽射しが、床にキラキラ模様を描いている。玄関ホールの向こうに、二階へと繋がる螺旋階段があり、その隣には、おもちゃみたいにかわいいキッチンへの扉。窓にかけられたピンクのカーテンも、花模様が刻まれたダイニングテーブルも、何もかもが夢のようだった。シャワールームのバスタブは猫脚だし、テラスに抜ける大窓の横には暖炉まである。石造りの厳つい暖炉の上に猟銃が二梃飾ってあって、その一角だけが浮いて見えたけど、そんなのは些細なことだった。 あたしは、本当のお姫様になったみたいな気がして、ながいため息ばかりついていた。 そこが新しく買った別荘だと、これから毎年、夏休みはここで過ごすのだと聞いた途端、あたしは、興奮のあまり倒れこみ、そのまま高熱を出したそうだ。全く覚えてないけれど。 覚えていないのは、それだけじゃない。 あたしの記憶は、いつだって曖昧だ。 何を見て、何を聞いたのか、誰と話したのか、どうやって過ごしたのか、ぼんやりとしか思い出せない。 最近はそんなことなくなったけれど、あの頃は本当に酷かった。 沢山の薬を、飲んでいたからだと思う。 いや、実際にそうだった。あの頃は、山のような薬を飲むのが当たり前だった。それが何の薬なのか、どんな作用があるのか、考えることもなかった。自分ではない人に処方されたものだなんて知らなかったし、思いつきもしなかった。 ただ『薬のせいでぼんやりしちゃってつまらない』くらいにしか、思わなかったのだ。 あたしの記憶は大体において、そんな風にぼやけている。 けれど、ひとつだけ。 はっきりと覚えていることがある。 鮮明に思い出せる日々がある。 それが、優也と過ごした日々。 あたしたちの、大切な思い出だ。 それは、八月のはじめ、別荘に来てしばらくたった朝から始まった。父が急用で外出すると言いだしたのだ。なにやら緊急の仕事が入ったらしい。 慌てて支度を済ませた父は、テーブルの上にパンとカップラーメンとお菓子を山積みにして、一週間で帰るからと言い残し、出かけていった。 残されたあたしは、相変わらずぼんやりしながらも、ある決心をした。 やってみたいことがあった。 言いつけを、破ってみたかったのだ。 『絶対に外には出ない』 『薬はキチンと飲む』   その2つが、父からの命令だった。 それを、破ってみようと思った。 あたしは、まず薬を飲むのをやめてみた。 それで死んでしまったらどうしよう、と、ほんの少し不安になったけれど、大丈夫だった。それどころか、二日目には身体が軽くなり、頭もハッキリしてきて、かえって元気になったみたいだった。 そこで次に、外に出てみることにした。 鍵のありかは、知っていた。玄関ホールの鏡の横。手が届かなかったので、椅子を持ってきてその上に立ち、鍵を手にした。 靴を履いて、ゆっくりと扉を開ける。 あたしにとって外の世界は、得体の知れない恐ろしいものだった。けれど、どこかに憧れもあった。 初めて一人で触れる、外の世界。 あたしは、息を潜めて隙間から覗いてみた。 そこは、とても静かだった。眩しい光に溢れていて、少しも怖いところなど見当たらない。 どこからか、歌うような風の音が聞こえた。 誘われるように一歩を踏み出し、ふと思いついた。 せっかくだから、とっておきの服で出かけよう。 あたしは部屋に戻り、お気に入りのワンピースに着替えた。それからもう一度玄関に向かい、白いサンダルを履いて外に出た。 八月の高原は、夏といっても湿気が少なく、涼しくて快適だった。 別荘の石段を降り、道の真ん中を歩く。 太陽がギラギラと光っていて、あたしの影は真っ黒だ。 道端に、白い花が咲いていた。サンダルについているピンクの花と似ているけど、名前は知らない。 近くに小川が流れているのか、せせらぎの音が聞こえてくる。 あたしは、とても幸せな気分だった。こんな世界があるなんて、と感動した。あまりにもハッピーだったから、今ならスキップだってできそうと挑戦してみたけど、それは上手くいかなかった。 それでも、嬉しくて、楽しくて。 あたしは適当に鼻歌なんか歌いながら、ご機嫌で道を歩いて行った。 「あれ? 繭ちゃんかい?」 自転車に乗った人に、声をかけられた。 いつも見廻りに来てくれるお巡りさんだ。 目尻が下がった、穏やかそうな笑顔。 「珍しいね。一人かい? お父さんは?」 「お仕事でいないの。今日は探検なのよ」 冒険者を気取ってポーズまで作ったら、お巡りさんも自転車から降りて言った。 「じゃあ、勇者様ですね。探検、ご苦労様です」 お巡りさんは、村人がするみたいなポーズをした。それから、フニャっとした笑顔になって、あたしの頭を撫でてくれた。 「一人で寂しくないかい? 困ったことがあったら、言ってくれていいからね。見廻りの回数、増やそうか?」 「大丈夫! 慣れてるから!」 笑顔で答えてから、あたしは踊るように歩き出した。 「くれぐれもお気をつけて! 勇者様!」 村人になりきったお巡りさんの声が、背中越しに聞こえて、楽しくて仕方なかった。 なんて、楽しいんだろう。 外の世界は、ワクワクすることばっかりだ。 あたしの足は浮かれて、止まらなくなっていた。 どこまでも歩いて、歩いて、歩いた。 八月の別荘地だというのに、誰ともすれ違うことはなかった。 歩いて、歩いて、歩いて。 どれくらい歩いたのか、どうやって帰るのかもわからなくなった頃、ふと、あたしの耳に飛び込んできた音があった。 正確には、音、じゃない。 音楽ーー歌だ。 どこかで、誰かが、歌っている。 寂しそうな、けれどあたたかい、懐かしい歌声。 とぎれとぎれに聞こえるメロディに導かれるように、あたしは森の奥へと入って行った。
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