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【04】出逢い――過去
道を少し外れただけで、森は深く、暗くなった。けれど、青い空と澄んだ空気はおんなじで、不思議と怖さは感じなかった。あたしはまっすぐ進んだ。哀調を帯びたその音楽が、次第に近くに聞こえてきた。茂る葉を払い、枝をかき分け、ただひたすらに進んでいくと、突然視界が開けた。
ポッカリと、そこだけ切り抜かれたように木が途切れ、異世界のような広場が現れた。
そこには、クレーンや古びた車、扇風機や見たこともない錆びた機械などのガラクタが、無造作に積み上げられている。その奥から、音楽は聞こえていた。
よく見ると、ゴミ山の中心に、崩れそうにボロボロな小屋があった。
間違いない。
あの音楽は、歌声は、ここから聞こえている。
あたしは身をかがめ、ガラクタのトンネルを抜けて、小屋に近づいた。
背伸びをして、窓から中を覗いてみる。
そこには、一人の男の子がいた。
背を丸めて、音楽に聴きいっている。
同じくらいの年頃の男の子がいることに興奮して、あたしはなにも考えずに扉を開いた。
男の子が、勢いよく振り向く。
あまりの驚きっぷりに、あたしは間違ったことをしたのかと、少し不安になった。
とても綺麗な子だった。
大きな瞳に真っ白な肌。サラサラの黒髪、赤い唇。
整い過ぎた顔は本当に綺麗で、女の子だったのかな、とも思った。でも、白いシャツに半ズボンを履いた姿は、やっぱり男の子に見えた。睨むようにあたしを見る瞳が鋭く光っていて、とっても大人びていた。
あたしは、思い切って尋ねてみた。
「貴方だぁれ?」
「……優也」
面倒臭そうに、相手は答えた。
優也。男の子の名前だ。
じゃあ、目の前にいるこの子は男の子か、そんなふうに納得して、優也という少年に近づいてみた。
あたしが近づいても、優也は一歩も動かない。
あたしたちの距離が、少しだけ縮まった。
ふと、優也の前に置かれている、四角い機械が目に止まった。
あの曲は、ここから流れている。
「それ、なぁに? ラジオ? なんでそこから音がするの? これなんて歌? 誰の? さっきからこれしかかからないけど、どうして? ずっと、これだけ聞いてるの? 優也はここで何してるの?」
まくし立てるように質問した。
目の前の男の子も、不思議な機械から聞こえる音楽も、気になって仕方なかった。
あたしの質問攻めが鬱陶しかったのか、優也は不機嫌そうに眉根を寄せた。
それから、プイと背を向けて元の位置に座ると、そのまま黙りこんでしまった。
ああ、やっちゃった。
あたしは、瞬時に反省した。
気になることがあると、すぐに突っ走ってしまうのは、いつもの癖だ。相手のことを考えなきゃと思うのだけど、いくら怒られても治せない。
やっぱり、あたしがバカだからなのかな、と、しょんぼり反省していると。
「ビートルズ」
気まずい沈黙の中、ポツリ、呟く声が聞こえた。
「びーとるず?」
思わず、そのまま聞き返す。
優也はこちらに向き直ると、ぶっきらぼうに教えてくれた。
「ビートルズの『Hey Jude』って曲だよ。知らないのか?」
「うん、知らない。初めて聴いた」
怒られるかと思ったけど、優也は興味なさげに『ふぅん』と呟いただけだった。
あたしは、優也の隣、四角い機械の前にしゃがみ込んだ。そうして、何度も繰り返される旋律に耳を傾けて、誰にともなく呟いた。
「ステキな曲だね。最初の、出だしが好き。子守唄みたいに優しい。なんか、不思議。安心する」
そのまましばらく、音楽を聴いていた。
隣で優也も聴いているのが、体温でわかった。
「オマエ、名前は。なんていうの」
何回めかの曲が始まった時、唐突に優也が言った。
あたしは、興味をもってもらえたことが嬉しくて、勢い込んで答えた。
「まゆ! 綾瀬繭っていうの!」
「ああ、あそこか。水色の屋根の」
優也の言葉に、あたしは驚いてきいた。
「うちのこと、知ってるの?」
「金持ちの綾瀬さん、だろ。オマエは、そこのお嬢様か」
「すごい! なんで? なんで知ってるの?」
「まぁ……一応、はな。管理人だから」
興奮気味なあたしの質問に、優也は照れたように答えた。
「かんりにん? 何の?」
「この別荘地の管理人してる」
「えっ?! 優也が?!」
「バカ。ちげぇよ。親が」
「あ、そっか」
よく考えればわかることなのに、思い込んでしまった。
でも、この大人びた少年なら、管理人くらいできそうだな、とも思っていた。
「会うの、初めてだよな。ほとんど外には出ないのか?」
優也が聞いいてきた。
話しかけてくれたことが嬉しくて、あたしは得意顔で答えた。
「いつもは、お父さんに禁止されてて、出られないの。本当は出たいんだけど。でもね、今、お父さん仕事でいないから、一人で留守番してるの。お外にも出放題なんだ」
あたしの言葉を聞き終わると、すごく真剣な顔で、優也が聞いた。
「怒られないか?」
「怒られるかも。でもいいの。出たかったから」
「勇気あるな、オマエ。怖くねぇのかよ」
感心したような優也の口調に、あたしはもっと得意になった。
「お父さんは怖くないよ。怖いのは、雷くらい。あとはあたし、何にも怖くないの」
優也は『すげぇな』と小さく呟くと、黙ってしまった。
あたしは、ちょっと大袈裟に言いすぎたかも、と反省して、慌てて付け足した。
「まぁ、怖くないのは、普段ずっと眠ってるからなんだけどね」
「眠ってる?」
「うん。病気だからね。お薬飲むと、ずっと眠っちゃう」
「……そっか」
優也は地面を見つめて、『大変なんだな』と呟いた。
あたしは『そうでもないよ』と答えて、スカートの裾を抱えた。
ビートルズのHey Judoが、あたしたちを優しく包んでくれる。
なんだか、お母さんの子守唄みたい。
男の人の声なのに、変なの。
それに、子守唄なんて聞いたことないのにな。
そんなことを考えていたら、不意に、優也が言った。
「俺は、悔しいけど親父が怖い」
「お父さん、怖い人なの?」
あたしの問いかけに、優也は目を逸らしたまま、吐き捨てるように答えた。
「頭がおかしい。お陰で母さんは逃げた。俺は母さんと一緒にいたんだけど、母さんに新しい男ができてさ、こいつが子供嫌いだとかで、俺のこと邪魔だって。そんで、母さんはそいつと逃げ出して、行方知れず。俺は、父さんのところに押し付けられたってわけ。そいつが、ここの管理人やってるんだけど、マジクズ」
忌々しそうに吐き捨てられた言葉は、音にも光にも溶けないまま、床で黒い渦を巻いていた。
「どんなクズなの?」
「酒飲んで暴力ふるって……ほら」
優也がシャツを捲って、お腹を見せてくれた。
「タバコの火、押し付けてくる」
そこには、見たこともない傷跡があった。
古くて硬くなったのもあれば、まだ新しい赤くジュクジュクしたのもあった。
とっても痛そうで、優也が可哀想で、あたしは泣きそうになった。
でも、あたしが泣いちゃダメだ、と思った。
だから、我慢して息を呑んでから、優也に言った。
「優也、お薬塗ろう。家にあるよ、救急箱」
手をひっぱったけれど、優也はかぶりを振った。
「いい。どうせ跡は残るし、今日だけのことじゃないから」
その言い方に、あたしは驚いた。
どうして、そのままでいいなんて思うの?
それと同時に、憧れを持った。
大人っぽくて、完全に諦めている、達観しているその姿が、なんだかとても美しく思えた。
「あたしの家に行こうよ。ここより涼しいし、誰もいないよ。お菓子もいっぱいあるよ」
あたしは諦めず、何度も優也の腕を引いた。
けれど、優也は頑なに拒み続け、最後にはこう言った。
「いい。もうすぐクズが帰ってくるし、それまでに管理人小屋に帰らないと、またタバコ押し付けられる」
「えっ? もう帰っちゃうの?」
まだ一緒にいられると、いたいと思っていたあたしは、不意打ちをくらって、また泣きそうになった。
すると、優也は悪戯な笑みを浮かべて、こう言ってくれたのだ。
「明日、繭ン家いく。カセット持って」
「ほんと!?」
「本当」
「嬉しい! 絶対だよ! 絶対来てね!」
飛び跳ねながら喜ぶあたしのことを、優也は呆れたような、でもどこか嬉しそうにも見える表情で見つめていた。
優也が四角い機械を抱えて外に出たので、慌てて後を追った。
ここは素敵な場所だけど、一人でいるには寂しいと思った。
外は暗くなりかけていて、森の様子も少し違って見えた。帰り道がわからなかったらどうしよう、と不安になっていたら、優也が近くまで送ると言ってくれた。
優也は、黒くて大きなオンボロ自転車で来ていたけれど、あたしが歩きだと知って、自転車を押しながら並んで歩いてくれた。
そうしてあたしたちは、途中まで一緒に帰った。
歩きながら、たくさん話をした。
「これ、なぁに?」
「ラジカセ。知らねぇの?」
「初めて見た。音楽が流れる機械なんだね」
「ラジオも聞ける。音は、この中のテープに入ってる」
「わ! 開いた!」
「これが、カセットテープ。ラジオとカセットだから、ラジカセ」
「すごい! グルグルしてる!カッコイイ!」
「そうか? 重いし、音悪いし、iPadとかのが全然いい」
「あ、それは知ってる! お父さんが持ってる。でも、あたしは優也のラジカセの方がいいなぁ」
「なんでだよ」
「なんか安心できる。それに、すごく素敵な音楽だったんだもん。神様が歌ってるのかと思った」
「それは、曲がいいからだろ」
「ビートルズの『Hey Judo』? 優也は、あの曲が大好きなんだね。ずっと、そればっかり聴いてた」
「それしか、カセット持ってない」
「他の曲は? ないの?」
「ビートルズの曲は沢山あるけど、俺が持ってるのはこれだけ、ってこと」
「そっか。このカセットテープには、他の曲は入ってないんだ。残念だね」
「誰かがダビングしたヤツだしな。仕方ない」
「じゃ、家に来たらCD探そう! もしかしたら、お父さんが持ってるかもしれない。ビートルズ」
「いいよ、そこまでしなくて。俺、コレが気に入ってるし」
優也の寂しそうな微笑みを見上げて、この大人びた可哀想な男の子と友達になれたことを、誇らしく思った。そのことが、とても嬉しかった。
別れ際、『絶対来てね』と念を押すと、優也は黙って頷いて、それから自転車に乗って走り去った。
細い背中は、あっという間に見えなくなってしまった。
あたしはいつまでも手を振って、明日のことを考えていた。
こんなに明日が楽しみだなんて、生まれて初めてのことだった。
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