序 散華

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序 散華

――天平勝宝元年(西暦749年) 十二月   北風に乗って寧楽(なら)の都に散華が舞った。  豊前国、宇佐八幡宮の女禰宜(めねぎ)大神杜女(おおがのもりめ)は、八幡(やはたの)(かみ)御験(みしるし)を抱き、帝と同じ色の紫の輿に乗り東大寺の転害門(てがいもん)をくぐった。  栄華の極みと誰もが羨む中、杜女はこの場から逃げ出してしまいたい心境を、誰にも悟られぬように、『凛とした宇佐八幡宮女禰宜尼(めねぎに)大神杜女』を演じていた。彼女にとってのこの大仏の完成は、とても恐ろしくて堪らないものだった。  鎮護国家の風潮に取り入り、畏れ多くも、祀る神をも利用してまで得ようとしている富と権力。一族の欲に塗れた偽善と欺瞞の集大成とも言えるこの一大事業。その一族の一員であるが故とはいえ、当然のように高貴な輿に担がれ、あたかも神か帝の如く座している自らが杜女は嫌で嫌で堪らなかった。  逗留している屋敷から東大寺までの道中、杜女は気が触れたように叫び出して、輿から飛び降りてしまいたい衝動に幾度も駆られた。そのたび自らの手を袖の内で強く握りしめては、出発前に触れた温もりに縋る思いで瞼を閉じた。 ◇◆◇  この輿に乗る直前、あまりに高貴な輿を目の前にして、事の重大さを改めて実感した杜女は足がすくんだ。それはほんの一瞬の事だったが、その機微を見逃さず杜女の目の前に大きな手が差し伸べられた。杜女がそっと冷え切った手を伸ばすと、その大きな手がしっかりと頼もしく白い手を包み込んだ。その手はとても温かく、杜女の頬にもほのかな温もりを与えた。 「大仏建立は陛下の願い。国家安寧の祈りを貴女が支えているのです。どうか臆することなく、堂々とこの輿にお乗りください」  その声は耳に心地よい低音で、杜女にだけ聴こえるように静かに囁かれると心の底に渦巻く得体の知れない鈍色の不安がスゥと引いて行った。杜女は何も言わずその手を強く握り返し応えた。  大きな手の男は少し色素の薄い茶色の瞳を細めて、杜女を輿へと導きゆっくり座らせ名残惜しげにその手を解いた。ふいに男は杜女の紅いメノウの簪に驚いたように目を見開き口元を緩めると、もう一度耳元で甘露のように囁いた。 「この大役を果たされるまでの我慢です」
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