父と子

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父と子

 信繁の死んだ翌日、大阪城は燃え、戦は終わった。真田軍は佐助ただ一人残して全滅した。  佐助は空虚の中にいた。  ーー約束を守れなかった。  という思いがある。  信繁の父昌幸から、佐助に言付けがあったのだ。 「死ぬ間際になってわかったことがある。信繁には将器があり、知謀もある。だが心優しい子なのだ。戦は似合わん。佐助。信繁を戦の道にいかせるな」  昌幸は愛情表現がどうにも苦手らしい。それを直接言えばいいものの、子を前にすると出来ないどころか、尖った口調になる。  佐助はその旨を承知したが、しばらくすると信繁の才に心酔した。約定を守れなかったどころか、一緒になって死地に赴いた。  無念なのは、信繁が最期まで父の愛を感じていなかったことだ。佐助にも多分に責任がある。  切腹に値する、と思ったが自決はしなかった。  信繁から「語り手になってくれ」という遺言を預かったからだ。    佐助は名を変え旅人になった。  得意の足で遺族のもとに行き、ひょうきんな口調で尾ひれをつけて活躍を語った。 「誇り高い最期でしたぞ」  最後は必ずこの言葉で締めくくった。  しかし、佐助はいつも思う。信繁は本当に誇り高く死ねたのだろうか、と。  すべての遺族を廻ったころ、佐助は何やら笑みを浮かべた。  その後どうなったかは知らない。  もう佐助の後影も残らないほどに、名を変え、変装し姿を変えていったからだ。  信繁の死後、五十七年がたったある日、難波戦記なる書物が発行された。  作者は万年頼方と二階堂行憲という。  この書物には真田幸村(⚫⚫)という人物が出てくるが、明らかに信繁のことだった。  難波戦記はまたたくまに衆望を集めた。  そして、世間では信繁という名が幸村へと塗り換えられた。  幸村──。  おそらく、昌幸から「幸」の字をとり、幸村と名乗らせたのだろう。  この名には、父と子を繋がせようという優しさが見える。  佐助のしたり顔が思い浮かんだのは何故だろうか。
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