大阪夏の陣

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 信繁はある意味不運の人だった。  乱世のために生まれたような男でありながら、実のところ采を振る機会は大阪の陣まで一度もなかった。だが信繁は、戦の才を証明せねば死にきれん、という思いがあったため、天下人たる家康を的にしたのだ。  この頃の家康は、豊臣家に難癖をつけては目の敵にし、陰湿に追い詰めていたため、大義を掲げるのは簡単だった。だが、並べたてた美辞麗句など全て虚偽にすぎない。  悪逆非道なる家康を成敗したかったのか。  違う。  恩義ある豊臣家に忠誠を誓いたかったのか。  違う。  命を賭して己の武士道を貫きたかったのか。  違う。  ただ戦いたかった。  才覚を証明したかっただけなのだ。  そして、皆をそのための駒にした。 「ふふ。父上に嗤われるな」 「昌幸様……ですか」 「ああ。父上は真の天才だった。不出来な息子だよ」 「何を……。昌幸様は信繁様を誇りに思っておられました」 「戯れ言はよい。証は何一つないのだ」  信繁の父、真田昌幸は表裏(ひょうり)比興(ひきょう)の者と呼ばれ、その鬼謀は天下に知れわたっていた。寡兵で徳川の大軍を二度も蹴散らし、翻弄した過去を持つ。家康は昌幸を心底恐れ、それと同時に真田の血をも恐れていた。    その昔、昌幸が死ぬ間際のことである。  家康ごときが天下人になったと嘆き、 「わしならもう一度家康を屈させることができる。その策は既にある」と言った。  信繁は涙ながらに、その役目を引き継ぎたいと言ったが、 「お前では無理だ。世間を認めさせるには経歴が必要だ。わしには実績があるが、お前にはない。無謀なことはやらぬことだぞ」  と言い放ち、息をひきとった。  信繁は父の死が悲しかったこと以上に、悔しくてもう一度泣いた。  父の薫陶(くんとう)をうけた自負はある。  兵法や統率術、忍びの使い方にいたるまで様々な訓練をし、父の戦場に付き従ったこともある。目をかけられていたことは間違いない。  しかし、甘いことを言うならば、そこに愛情はあったのだろうか。  むしろ、いつまでも拙劣な息子をどこかで嫌っていたのかもしれない。  父から認められたことはないのだ。ただの一度も。  最期まで父に誉められなかった──。  その一念が信繁の心に陰を落とした。  とはいえ、その心を外に向けたことはない。が、気付かぬうちに信繁の思想に磁場をはり、指針を狂わしてしまったのかもしれない。 「佐助。ついてきてくれたこと感謝する」 「わしは逃げませんぞ」 「佐助。頼む。生きて、語り手となってくれ。わしと共に戦った者たちがいかに勇敢だったか語り継いでいけ」 「一緒に……」 「死なせてくれ。わしはここを死に場所に選ぶ」  信繁が一度言い出したら梃子(てこ)でも動かないことは知っている。  佐助は、信繁を止められない自分が情けなくなった。涙を見られないよう背中を見せると声を張り上げた。 「かかか。わかりましたわ。しかし、信繁様。わしからも我が儘があります」 「なんだ」 「笑ってくれませぬか」 「ふふ。お前らしい頼みだな」 「あの世で逢いましょう。皆と共に待っていてくだされ」 「ああ」  佐助は信繁の顔を見なかった。そのままひょうと姿を消した。
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