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信繁は空で二回まわり、尻餅をついた。
舟の上である。
河に落ちていない。
「ぬしの六文はすでに預かっておる。ぬしの父が、ぬしと全く同じようなことを言っておった。珍しいからよう覚えておる」
奪衣婆の声が雷鳴のように聞こえた。
「では父は」
信繁も大音声で返す。
「地獄が相応しいらしい。嬉々として河に飛び込んだわ」
ーー馬鹿な。父上はわしの代わりに。
訳がわからぬ。
父は常に先を見通していた。わしがこうなることも予想していたのか。
しかし、父からは不出来な息子と嫌われていると思っていた。そうではなかったのか。父はわしのことをどう思っていたのだろう。親が子の幸せを願う自然な感情を父も持っていたのか。
いや……。わしはこの河を渡ってはいけないのだ。
「わしは悪人だ!」
信繁は叫んだ。
漆黒の河を見つめる。
この流れに飛び込みたいと思った。
地獄にいこうとする気持ちがある。
しかし、それ以上に止めがたい感情が溢れている。
父に会いたいと思った。
父と話したいと思った。
地獄へいけば会える。
「悪人ではござらんよ」
はっとして声の方に目を向ける。舟に同乗している足軽だった。顔は知っている。真田軍の者だ。信繁と共に命を賭けた者だ。
「あっしのような卑賤の者でも、信繁様のおかげで夢を見ることができましたぞ。つかの間の幸せでしたぞ」
足軽は信繁の顔を拝むように見ていた。神々しいものでも見るように。
もし河に飛び込めば、この者を傷つけてしまうだろう。
信繁の脳裡にふと佐助の顔が浮かんだ。「皆と待っておれ」と言っていた。
危うく約束を破るところだった。
ーーわしは愚かものだ。
地獄へいくのは自己満足でしかない。
もし罪を償うならば、この者たちと一緒にいることしか方法はないのではないか。自分のせいで死なせてしまった者と歩みつづけるしかないのではないか。
この河を渡れば、父とは金輪際会えないだろう。結局、相容ることはできなかったように思う。
が、後悔はしない。
信繁は対岸に揺れる火明かりを見た。
迎え入れてくれるかのように色が温かい。信繁も受け入れる準備ができた。
覚えず笑みが溢れた。
「かかか」
佐助の声が聞こえた気がした。
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