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第1章
足の裏の感覚など、とうに無くなっている。
「どうしてでしょう、何故なのでしょう」
息切れをしていながらも、つい口から泣き言がこぼれる。奥歯を食いしめ、涙が出ることだけは阻止しようとしたが、小さい涙の粒が目尻に溢れてきたので、土や泥で汚れてしまっている袖でそれを拭った。
吉良春国は先ほど、十三年間、育てられてきた藤白神社から脇目もふらず、逃げ出してきた。
あと一ヶ月で、一年のうち三ヶ月しかない貴重な春が訪れる。とは言え、今はまだまだ雪がちらつく寒い季節だ。しかも真夜中で、その時間帯は一日の内で一番冷え込む時間帯。風も吹き始め、神事の際に着る白色の神子装束だけでは薄着すぎて、寒さを凌げない。
これから春国は『婚姻の儀』に臨み、それを終え、翌朝には晴れて神子となる予定であった。藤白国のため、民のために神に祈りを捧げる日々を送るはずであったのだ。
藤白国には『狐の嫁入り』という昔話のような、神話のような、お話が伝わっている。
曰くその昔、いつの時代かもわからないような古代の時分、北の方から怪物が現れて、短い春の季節を奪い、一年中冬にして、国を雪と氷の中に閉じ込めてしまった。春が来ず、よって作物は育たたないので、食うものもなくなり、また寒さで動物は死に絶え、人々が困り果てた時、狐の耳と尾を持つ大層美しい奉種の青年がどこからともなく現れた。
国を救いたいのなら、怪物に自分を捧げると良い。
青年はそう言い、大量の良質な酒を土産にし、綺麗な花嫁衣装を纏い、怪物の元へと輿入れをしたのだと言う。
そして初夜の際、酒を飲み、酔っぱらって寝てしまった怪物の首を切り落とし、怪物を倒したが、その際に青年も道連れにされてしまった。
怪物が倒されたことにより、長い冬が終わり、短い春を取り戻した藤白国の民は国のために死んだ青年を哀れんで、『藤白神社』を作り、その神社に青年を祀り、またその怪物が二度と悪さをしないように同じところへ封印した。
それが『狐の嫁入り』と呼ばれる神話で、藤白国の民は遍くこのお話を知っており、信仰している。
そして藤白神社では神話に則り、狐の耳と尾を持つ、所謂狐獣人の青年を『神子』として選び、神事や儀式を行わせることになっている。
ちなみに藤白国では男女の性の他、尊種、貴種、奉種という性が存在している。
尊種とは所謂孕ませることのできる種だ。雄々しい見た目や雰囲気で、他者を隷属させることに長けており、奉種の発情を感知すると、それに合わせて発情してしまうという長所だか、短所だかよくわからない性質を持つ希少種である。
貴種とは三つの中では一番人数が多く、発情期などは特にない。
奉種とは、尊種とは反対で男女共に孕むことのできる種だ。個人差はあるものの、二、三ヶ月に一度数日ほど発情期が訪れ、その間は情欲に身体も心も支配されてしまう、という性質がある。またその発情は不特定多数の尊種の発情を誘発させてしまう。
春国も六歳の頃に奉種とわかり、見出され、七歳で神社に引き取られてから二十歳で成人するまでの間、神子候補として養育されてきた。
前代の神子が、春国が成人するのを待って引退し、様々な準備を重ねて、今夜ようやっと最後の神事である『婚姻の儀』を行う予定であった。これが終わると晴れて、正式な神子となれるのだ。
だが、それを行わず、春国は逃げ出した。
『婚姻の儀』は神子候補の者が、怪物が根城にしていたという洞窟の中で刃物を一振りだけ持ち、一晩を過ごす、と春国は事前に説明を受けていた。なので神域として普段は禁足地となっている場所へ向かい、刃物を一振りだけ持ち、洞窟で静かに夜が明けるのを待つ。
しかしそこで春国は尊種の男たちに襲われた。危うく貞操を奪われるところだったのだ。
顔を白い布で隠し、春国と似たような白い神事用の衣装を身に纏った男たちは最初何も言葉を発さなかった。それもまた不気味で、春国は暴れ、大声で叫ぶ。
その暴れ方が尋常ではないように感じたのか、男の一人が渋々と言った形で口を開き、春国に尋ねた。
「婚姻の儀とは、神域である洞窟に一晩中篭り、選ばれた尊種の神官たちと性行為をし、快楽に溺れないことを証明すること、聞いていないのか?」
初耳だった。
「聞いて、いませんっ、離してくださいっ」
震えながら声を出すが、神官たちは怪訝そうな声で話し合っている。
「教えないこともあるらしい」
「怖気付いた神子候補が逃げ出してしまったりするからだそうだ」
「だが聞いていないからと言って中断することはできない」
「神事を完遂させなければ、後でとやかく言われるのは我々だからな」
その言葉に春国は顔を青ざめさせる。
このままいれば春国は男たちに犯されてしまう。もちろん、春国に性行為の経験はない。初めてを知らない男たちに無理やり奪われるなんて、そんなことを考えただけで鳥肌が立つ。
春国は神子になる教育を受けるため、人生の大半を神社で過ごしていた。藤白国では「狐の嫁入り神話」が広く信仰され、神子は民に尊ばれ、愛しまれる存在なのだと、春国は教えられてきたのだ。
それが、こんな淫らで暴力的な儀式を行う淫祠邪教の類だとは思わなかった。
しかもこんな風に乱暴に扱われるなんて想像もしたことがなかったため、そこに対してもショックを感じている。どうしたら良いのかわからず、頭が真っ白になりかけたが、春国は大きな声を出した。渾身の力を振り絞り、足に力を入れる。かかとが一人の神官の顎に当たり、悲鳴と鈍い音がした。
それが隙となり、拘束の力が緩む。その機を逃さず、身体を無茶苦茶に動かし、何とか抜け出した。
上着だけはひっつかんだ。下衣は帯が取れかかっていたが、気にせず、そのまま走り出す。
「待てっ、逃げるなっ」
追いかけられているのに、逃げるな、と言って立ち止まる者がどこにいるというのだろう。
春国は振り返らず、全速力で山を降り始めた。
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