第2章

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第2章

神社は山深い場所に建てられている。  春国は体力に自信がない。山を走り回った経験もなく、どこをどう行けば麓の町へ出られるのかわからなかったからひたすら山を降りて行った。  着ていた衣装は枝や木に引っかかり、破けたり、汚れたりしていたが、それに構う余裕もない。よく見ると、手先や腕にも細かい傷がたくさんついていた。いつも美しく整えられている尾はみるも無惨に汚れている。  特に酷かったのは足だった。雪が積もっているので、足を取られ、何度も転ぶ。冷たさで真っ赤になり、またどこかで切ったのか、左足の白いふくらはぎに赤い線が走っていた。爪は割れかけ、土や泥が皮膚との隙間に入り込んでいた。  生きてきた中でこんな怪我をしたのは初めてだ。神社では怪我をすることなどはなるべく避けられて育てられる。身体を美しく、清潔に保つためである。  しかし春国は何の考えもなく、山を降り、町へ行こうとしていたわけではない。町には七歳の頃まで住んでいた屋敷があり、そこには今、五歳年上の兄の高国が住んでいると聞いている。両親は数年前に流行病で他界していた。伝染病で亡くなったとかで、死に目に会うことは叶わなかった。  春国は今、たった一人の肉親である兄を頼りにしようとして山を降りている。特別仲が良かっただとか、そういう記憶は無いが、助けてくれる人に心当たりがない。  初恋の少年のことが頭によぎるが、下の名前しか知らない。まず会えないと思った方が良いだろう。それに春国のことを覚えているかもわからない。  追っ手に怯えながら必死に雪や木々をかき分け、ボロボロになりながらも歩みを止めずにいると、ようやく山道を抜け、開けた道に転がり出てきた。  山を降りられたことに少しホッとする。  思ったより辺りが明るいので、上を見上げると、今夜は満月であると知る。しかし、しばらくすると厚い灰色の雲が流れてきて、月を隠してしまい、辺りはまた暗くなった。  誰もいない田畑が薄闇の中に広がっていた。ぽつぽつとまばらに建物が建てられているが、どうやら納屋や農作業小屋のようで人気はない。  重たい身体を引きずり、怪我をした足を庇いながら歩いていくと、町についた。訪れるのは実に十三年ぶりだ。   町の様子を見て、春国はまた泣きそうになる。 「どうしましょう、分からない」  遠ざかっていた十三年の間に町は様変わりしており、春国が知っている場所とは全く違ってしまっていた。  十三年前は平屋建ての背の低い木製の建物が所狭しと並んでいたが、今は赤茶けた石造りの建物が増えている。  また常夜灯だろうか、等間隔に灯りがつけられ、道を照らしており、完全な闇ではなかった。  そして残念なことに春国の見覚えのあるものはほぼ無くなっていた。まるで外国に来たようだと、春国は唇をかむ。これでは実家もわからない。  そもそも幼少期の曖昧な記憶でしか町を知らない。実家の場所などもうろ覚えである。 「どこだっ」  しんとした空気の中に追っ手の声が突然響いた。わからない、どうしよう、と思考を停止しかけた春国は顔を青ざめさせながらも、視界に入った民家の裏口の戸をとっさに引いた。  施錠がされていなかったのか、戸は簡単に開く。僥倖とばかりに敷地内へと入り込み、その場に蹲った。 「うう、気分が悪い、熱い……」  婚姻の儀は春国の発情期に合わせて行われている。  今夜は発情期が始まる予定日で、山から降りてくる途中から身体の様子はおかしかったが、どうやら本格的に始まってしまったようだ。  絶望的な気持ちになる。発情期の身体を引きずりながら、追手から逃げ、兄の屋敷を探すなんておそらく無理だ。  これからどうしようか、考えようとするも、思考がぼやけてくる。  後孔がじくじくとした嫌なうずきを訴え始めてきた。腹が切なく、寒さから来るものではない震えが身体を走る。  薬もない。身体を休める場所もない。  このままでは追ってきた神官たちに見つかってしまうだろう。 「だ、誰か、助けて……」  不安と惨めさで涙が溢れ、ぐすり、と鼻を鳴らした時だった。  ぐいと左手首を掴まれる。そのまま上に挙げられ、身体を起こされた。驚きで息が止まる。 「あっ」  身体ががちがちに強張った。恐怖のせいであげた短い悲鳴も小さく口の中で消えてしまった。  左手首は力強く掴まれている。痛みは感じないが、振り解けそうにもない。  そのまま壁に身体が押しつけられた。  「おい狐耳、俺の家へ勝手に入ったな」  声が出ない。この男はこの家の家主なのだろうか。怒ったような口調ではないが、どこか揶揄っているようだ。  説明しなければ、と思うが、うまく口が回らない。  男からは春国の顔が見えているようだが、春国の方からは見えない。暗い色の着物を着ていること、声の感じからしてまだ若そうだ、ということしかわからなかった。 「奉種の狐耳か、しかも発情期ってことは男でも漁りに来たのか?」 「違いますっ」 「俺が相手してやろうか?」 「なっ、や、やめてくださいっ」  なんて下品な言い草なのだろう。   男の言葉に俯いていた春国は思わず顔をあげる。ちょうど風が吹き、雲が飛ばされ、満月がまた辺りを照らした。  明るい満月の下、男の顔が詳らかになった。  他人に愛嬌を与える垂れ気味の黒い瞳には見覚えがあった。また右目の目元にぽつんと置かれた泣きぼくろ、緩くうねっている黒髪、皮肉的に笑う口元の形。 (あっくんっ)  春国は驚きで目を見開く。この男性が誰なのか、瞬時にわかった。  目の前の男性は春国の初恋、幼い頃に別れたきり、会えていなかった有雪という少年が成長した姿に他ならなかった。  もう二度と会えないと思っていた。こんな状況だが、驚きと共に嬉しさがこみ上げ、身体が熱くなってくる。  有雪は春国が覚えている少年期の面影を残しながらも、大人の男に成長していた。端正な顔立ちに思わず見惚れてしまい、春国の手首を掴む大きな手にドキドキしてしまう。 (絶対あっくんだ、どうしよう、すごくかっこよくなってる)  先ほどの下品だと思った言葉は少し気にかかるが、それ以上の好意が心を覆い尽くしていく。 「あ」  狂おしいほどの発情がぶわと迫り上がってきた。  春国は掴まれていない方の手で口元を押さえた。自分でもわかるほど、濃い発情の香ばしい香りが漂い始めている。 「お前」 「ぎゃっ」  だんっ、と壁に身体を更に押しつけられ、春国には逃げ場がなくなる。 「怪我してるな、服も破けてるし、どこかから逃げてきたのか?」  まさにその通りなのだが、それを肯定やもしくは否定するだけの余裕は今の春国にはなく、こくこくと頭を縦に振るぐらいしかできない。 「た、助けて……」  絞り出したか細い声で助けを求める。ただもう身体の熱をどうにかして欲しいのか、追手から匿ってくれ、という意味で助けて欲しい、と言っているのか、もう春国自身にも判断がつかない。  それに春国の発情に当てられていると言うことは有雪は尊種ということだろう。貴種は発情期の影響を受けないからだ。 「はっ、こりゃ試されてんのかね?」 「ひっ、嫌、だ」  首筋に唇を這わされ、軽く吸いつかれた。  そこで春国は我に返った。うなじに近いそこを舌が這い、本能的な恐怖を覚える。春国は力いっぱい有雪の胸を押したがびくともしない。  「あ、やめてください、お願いですからっ」  それに春国にとって、発情期に尊種が近くにいるのは初めての経験だった。 「抱きたい、めちゃくちゃにしたい」 「痛っ、耳噛まないでぇ、尻尾も、んっ、ほんとにだめ」  つんと尖った狐耳に軽く歯を立てられ、鈍く走った痛みに怯えた。尾も絶妙な力加減で緩く触れられ、背中がぞくぞくとしてきた。 「だめなのか? 本当に」  余裕なく、どこか媚びるような口調で直接耳に吹き込まれる。その刺激に腰が抜けそうになり、春国は有雪の胸にしがみつきながらも、顔を必死で横に振った。  襲われ、必死に逃げてきたことが頭に過ぎる。それは性行為に対して、嫌悪感を催させる程度には影響を与えていた。発情期の狂おしい情欲よりも、今はその恐怖感が打ち勝ったのだ。 「なら仕方ない」  有雪は名残惜しそうに春国の首元で息を吸った。しばらくして、有雪は顔を上げ、ふたりは向かい合い、目線を合わせる。  春国は泣きそうな目で有雪の黒い瞳を見つめた。 「仕方ない、おいで春ちゃん、美しい君のことだから、ろくでもない連中に狙われているんだろ」  名前を呼ばれ、春国は心臓が跳ね上がった。『春ちゃん』というのは幼い有雪が呼んでいた愛称だ。まさかバレているとは思わなかったので、必要以上に反応してしまう。  名前を呼ばれ、動揺していると、ふわりと腰を抱かれ、身体が宙に浮く。有雪が春国を抱き上げたのだ。  顔が近くなる。気恥ずかしくなった春国は有雪の胸へと顔を埋めたが、思い切り有雪の香りを吸い込んでしまい、余計に身体がくたりとして力が抜けてしまう。頭もだんだんぼうっとしてきた。 「春ちゃん? 俺の家に入るよ、薬あげるから」 「あ、ありがとうごじゃいま、しゅ……あっくん……」  呂律が回らなくなってきた。春国の発情期のときの特徴であった。熱に浮かされながらも、自分がかなり酷い状態であることを今更自覚した。  中に入り、敷いてあった布団の上に下ろされた。その布団は普段、有雪が使っているのだろう。有雪の香りに包まれ、春国は恍惚とした気分になる。 「ほら春ちゃん、薬を飲んで、俺はもう飲んだから」  台所から戻ってきた有雪に何か渡された。  尾を足の間に挟み、身体を丸めようとしたところ、肩を掴まれ、起こされたので、むずがるように唸るが、ほら、ともう一度強い口調で言われ、春国は身体を起こす。  手のひらに小さく白い丸薬が三粒のせられる。それを口に含み、渡された湯飲みに入った白湯で一気に飲み干す。 「あっくん、ありがと、ごじゃ、ざ……ま、しゅ」   言葉を噛んでしまい少し恥ずかしい。 「発情期になると呂律が回らなくなるの? 可愛いね」  ふわりと頰に手を差し入れられ、嬉しくて春国は目を細めた。足の傷が痛むが、身体の疲れと発情期の眠気が重なり、目蓋がだんだん落ちていく。  あっくん、そこにいてください。  この言葉が口から出たのかを確認することなく、春国は眠ってしまった。
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