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第4章
じんわりとした温もりを手のひらに感じると、徐々に意識が覚醒していく。
「ん」
目を開けると、見知らぬ天井が広がっている。手のひらで感じていた暖かさは雨戸の隙間から漏れた陽光が手のひらに当たっていたようだ。その余韻に浸るように指を閉じたり、開いたりする。
指の動きを繰り返していると、寝起きでぼうっとしていた頭がだんだんとしゃっきりしてきた。
昨晩のことを思い出した春国はがばりと身体を布団から起こした。
「おはよう、春ちゃん」
上から優しい声色が降ってきて、今度はそちらの方へ顔を向ける。
有雪が春国に緩く笑いかけていた。
「あ、お、おはよう、ございます……」
「発情は良くなった? 呂律はもう直ったね、昨日の呂律が回ってない春ちゃんも可愛かったけれど、寝起きの春ちゃんも可愛いね」
春国の目線に合わせて、有雪がしゃがみこむ。顔を覗かれ、春国は顔を背けた。赤くなってしまう顔を見られないためだ。
子供の頃、しかも有雪との別れの際の夢を見ていたため、可愛いだのと褒められると不用意にドキドキしてしまう。
それに有雪は魅力的に成長していた。どこか少年だった頃の面影を残しながらも、大人の男の雰囲気を纏わせていて、それにも胸を高鳴らせてしまう。
「うん、今は可愛いっていうよりも綺麗か」
しかしドキドキしている場合ではない。
「あっくん、その、貴方は有雪さん、ですよね?」
「今更?」
怪訝そうに眉を顰められた。
「君は春ちゃん、吉良春国でしょ? そんなのすぐにわかったよ。それとも春ちゃんは俺と別れてから、俺のこと忘れちゃったの?」
「いいえ、いいえっ、忘れたことなんかありませんっ」
忘れたことはない。落としていなければ、今も袖の中に思い出が入っている。
「そう、良かった、俺もだよ。また会えて嬉しい」
長い前髪が左右に割り開かれ、白い額があらわになる。そしてそこへ、ごく自然に口付けられた。
何をされたのかわからず、動作が一瞬遅れる。
口付けられた。額に。
酷く動揺し、どうしたらいいかわからなくなった春国は有雪の身体を突き飛ばそうと、手を前に出した。
「っ」
「あ、ごめんなさっ」
慌てて前に出した手は有雪の顔に当たってしまった。有雪の顔が不機嫌そうに顰められる。
その表情を見て、春国は顔を青ざめさせた。有雪は追われ、しかもいきなり発情期になってしまった春国を匿い、薬まで与えてくれた。命の恩人にも等しい人物に対して、額に口付けられた程度で突き飛ばすなんて、いくらなんでも乱暴すぎる。
「わっ、あ、あのっ、私、汗臭いからっ、そのっ」
口から出てきた言葉はあまりにも言い訳じみていた。
これ以上はもう何も言わない方が良いのかもしれない。咄嗟の判断により、春国は自分の口を抑えた。
その時、自分の手の違和感に気がつく。
逃げていた時、指先や手のひらなどをたくさん傷つけてしまっていた。今、それらの傷口に清潔な包帯が巻かれ、また浅い傷には消毒液が振られたような跡もある。
指先、手首、腕と順に身体を追っていく。布団をめくり、足を確認すると、清潔に拭かれ、割れていた爪には綿紗が当てられていた。
有雪が手当てをしてくれたのだろう。
また一つ抑えきれそうにない思いが大きくなっていくのを春国は自覚した。
「春ちゃん、傷だらけだったよ、手も足も。まだ春は来ないのに裸足で薄着だった。服はビリビリに破れてるし、何があったの?」
春国は婚姻の儀を拒否し、藤白神社を抜け出してきた。
馬鹿正直にそれを言ったところで、有雪は信じてくれるだろうか。神子候補が神社を抜け出してきた、ということで、信心深い人なら通報するかもしれない。
春国は何も言わず、探るように有雪をじっと見つめる。有雪は心配そうな目線を春国に向けていた。
後ろめたいが本当のことを言うわけにもいかない。有雪を神社や春国の問題に巻き込むのも良くない。
ここは嘘を言って、春国の実家に案内してもらい、早めにここから出ていくのが得策だろう。
「えとその、私、有雪さんと最後に別れた時、遠い所へ行くからもう会えないって言いましたよね? あれは隣国へ引っ越すっていう意味だったんです」
「ん? 春ちゃんだけ? ご両親やお兄さんは春ちゃんがいなくなった後も屋敷に住んでたよ?」
「あ、ぅ、よ、養子、そう養子に出されたんです」
「うん? うん」
いきなり何の話を始めたんだ? とでも言いたげな顔だ。同じ状況なら春国も同様のことを考えただろう。春国も今、嘘を考えながら話している。
「遠い親戚に引き取られ、そこで暮らしてたのですが、その……最近、人買い、にさらわれてしまって」
「それで?」
「隙を見て逃げ出してきたら、有雪さんのおうちに迷い込んでしまったんですよ」
我ながら無理のある嘘だと思った。有雪の納得してなさそうな視線も痛い。春国はいたたまれなくなり、目を伏せた。
「だったら、その隣国の親戚の家に連絡を入れた方が良いんじゃないか?」
「あ、し、しないで、その、私のことを人買いに売ったのがその親戚なので……」
「……ふうん、わかった」
無茶苦茶な嘘を言っていることはわかっている。だが、本当のことを言うと、神社に通報されるかもしれないし、春国は今、神社にも帰ることができない。
「えと、なので実家に帰ろうと思いまして、有雪さんは私の実家がどこにあるかわかりますか? 随分、ここへ来ていないから様変わりをしてしまってわからなくなってしまいました」
ほとんど毎日のように春国の家へ有雪は来ていたし、春国がいなくなってから例え長い間来ていなかったとしても、だいたいの場所くらいは覚えているだろう。
しかしその安直な期待はすぐに裏切られた。
「いや知らない、春ちゃんのご両親が流行病で亡くなられてから、しばらく春ちゃんのお兄さんが一人で住んでいたけれど、どこかへ引っ越してしまったから」
「えっ」
兄である高国が引っ越したのは初めて知った。
「お、お兄様がどこへ行ったか、ご存知ですか?」
「……知らない」
希望が崩れていった。春国は兄を頼ることを目的に山を必死に降りてきたのだ。その兄の行方がわからないのならば、八方塞がりである。
「ど、ど、どうしま、しょう」
「ここにいれば良いじゃん」
「はっ?」
事もなげ、何でもないないことのように有雪は言ってのけたが、春国にその選択肢はない。
二度と会えないと思っていたのに再会でき、優しくしてもらい、離れたくない気持ちはあるが、それ以上に有雪を巻き込みたくなかった。
もし春国がここにいることがバレて、神官たちが押し掛けてきたら、有雪に迷惑がかかるだろう。
神子候補を匿い、神社にも通報しなかったとして、罪を被せられるかもしれない。
「ダメです、迷惑がかかっ」
「俺、実はさ、花屋をやってるんだよ、安藤花卉店っていう屋号だ」
春国の言葉を遮り、有雪がすっくと立ち上がる。そして壁にかけてあった防水加工のしてある赤い前掛けを手にとり、腰に巻いた。
『安藤花卉店』
赤い布地に白色の刺繍により、そう書いてある。
「上流の家にも卸しているし、街の花屋みたいな事もしてるから、もしかしたらお客さんの中に春ちゃんのお兄さんのことを知っている人とかいるかもしれない」
「でも、そこまで甘えるわけにはいきませんよっ」
「なんで? どうせ今、ここを出て行っても行くあてがなくて、すぐに人買いに捕まると思うぜ」
「そのお店に人買いが来たらどうするんですか……」
「隠れていれば良い、帽子かなんか被って、ゆったりした服でも着れば耳としっぽはごまかせるだろ」
「ううん、有雪さんは尊種でしょう? 私は奉種ですし、また発情期になったら……」
私が発情期になったら、貴方は私を襲うでしょう? とは流石に言いにくかった。
「大丈夫だよ、昨晩も結構平気だったから。薬飲んだら治ったし。もしかしたら、俺たちはあんまり発情期に影響されないのかもな」
それはそれでショックだ。あんなに可愛いだの、綺麗だの言っておいて、有雪は春国に魅力を感じていないということなのだろうか。
いや、そもそもここでショックを受けるのはおかしいのかもしれない。現状だけを考えると、発情期に翻弄されない尊種と奉種という関係は歓迎するべきだろう。
有雪は、春国にとって初恋だ。神子になるので、諦めたとはいえ、貰った花を押し花にしてお守り代わりに持ち歩き、それを眺めて、有雪のことを思い出し、会いたいと何度も思った。
目の前の有雪を見ていると、懐かしむ程度だった好意がまた芽吹いてくるのを感じる。
発情に左右されないと言われてしまったものの、春国は有雪が好きなのだ。
「いや、えっと……」
しかし有雪の発言を聞いて、断る理由も歯切れが悪くなってしまう。
「大丈夫だって、春ちゃんは俺といるのが嫌なのか? それなら諦めるけれど」
「嫌じゃないですっ」
嘘でも一緒にいるのは嫌、なんて言うことはできなかった。
「なら決まり、今日はもう良いから寝てな。俺は店の準備をしてくるから。朝食は机の上に置いてあるから好きな時に食べろよ」
「あ、ちょっと」
有雪は春国の言葉を最後まで聞かず、そのまま部屋から出て行ってしまった。
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