18. 闇の中

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18. 闇の中

 踏み込んだ先は真の闇だった。樹の洞であれば、すぐに突き当たるはずなのに、恐る恐る進んでも壁らしき感触はない。やがて後ろの光も遠くなり、まったく視覚が役に立たなくなったところで、ユーリは見ることを諦め、かと言って何が起きるでもない状態にいつまでも緊張してもいられず、ひたすら歩みを進めた。竜は長旅にはならないと言っていた。であればどういう仕組みなのかはわからないが、そう時間はかからず目的地に着けるのだろう。本人が思っている以上に、彼女の血筋は楽観的であるようだった。  そうしてどれほど歩いたのか、時間の感覚がわからない中、気がつくと先に光が見えた。出口にたどり着き、そこに広がる光景を見て、ユーリは思わず絶句した。  そこはかつて精霊が共に住まうほど美しい自然や街があったとは到底信じられないほどに荒れ果てていた。灰色の土と岩ばかりが広がっており、わずかに残る泉は一目で飲めぬとわかるほどに淀んでいた。夜ではなさそうだが、あたりは暗く寒々しい。 「さて……どうしたものかな」  目的地に着いたようだが、手がかりがない。途方に暮れかけたとき、腰の剣が鞘の隙間からわずかに光を放っているのに気づいた。抜き放つと、真っ直ぐに天に向かって一筋の光を放った。それはまるで光の柱のようだったが、とてつもなく嫌な予感がした。 「ご先祖様のように勇敢になりたいとは言ったが……」  その光に引きつけられるかのように、あたりに闇の気配が満ちる。かつて見たそれと同様に空が錆びたように赤く染まっていく。轟々と風が唸り始め、やがて沸き上がった闇の中から一人の人影が現れる。その姿を見て、ユーリは再び絶句した。  長い薄茶の髪に、深い緑の瞳。背の高いその姿は見慣れたもので、だが、その眼差しに浮かぶ光は明らかに異質だった。 「アレクシス……様?」 「待っていたよ、ユーリ」  にこり、と微笑むその表情は確かに記憶にあるものと同じなのに、背筋が粟立つのを感じた。思わず後ずさると、目の前の青年は意外そうに首を傾げる。 「どうしたんだい?」 「……どうしてここに……あなたは一体……?」 「私は私だよ。ただ、ずっとあなたを愛し、求めてやまない、ね」  そう言いながらこちらに手を差し出し、一歩踏み出してくる。同時にその全身から染み出すように闇の気配が溢れ出た。とっさに剣を構える。アレクシスはぴたりと歩みを止め、こちらをじっと見つめる。 「私に剣を向けるのかい?」  切なげな眼差しは幾度も向けられてきたそれで、ユーリはずきりと心が痛むのを感じた。彼の想いは知っていた。けれど、だからと言ってはいそうですかと受け容れられるようなことでもなかった。 「私は……あなたの想いがどれほど深いか、今は知っている。けれど、私にはやるべきことも、そして、私自身の望みもあるんだ」  毅然と背筋を伸ばし、そう告げる。それは、アレクシス本人にも何度も告げてきたことだった。彼の想いを知って、その想いが真剣だとわかるからこそ何度拒否しても、彼は諦めようとはしなかった。 「その望みを果たしたいなら、私を斬って進むんだね」  微笑んでそう告げるアレクシスの静かな眼差しは、彼女のよく知ったものだった。だが、だからこそ、怒りがふつふつと沸いてくる。何がそこまで彼を追い詰めたのかは知らない。けれど、彼は己の背負うものの重さを知っているはずだった。その重荷から逃れたいと心の底では思っていてさえも、それを乗り越えるだけの強さを持っている。 「……許さない」  剣を振りかぶって踏み込んだが、あっさりと抜身で受け止められる。間近に交錯する眼差しに、一瞬アレクシスが怯むのが見えた。その隙をついて足を払う。地面に倒れたその頭のすぐ脇に、膝をついて両手で剣を逆手に持ち、突き立てた。 「あなたにそんなことを言わせる存在を、私は絶対に許さない」  険しい眼差しで真っ直ぐにそう告げた彼女に、アレクシスの気配が変わる。同時に闇がさらに溢れ出してくる。 「逃げるんだ、ユーリ! これ以上は、抑えきれない……!」  その言葉に弾かれたように身を起こしたが、間に合わず闇は彼女を捕らえようとする。瞬間、光が弾けた。 「ジュリアーナ、走って!」 「リィン……?!」 「振り向かないで、とにかく急いで!この先に全ての元凶がある。運命を切り開いて!アレクシスも……あなたの大切なものは全部私が守るから」  幼さの残る少年は、だが、これ以上なく真剣な眼差しでそう告げる。迷っている暇はなかった。背を押されるままに、ユーリは走り出した。  幾らも走らないうちに、「それ」は目の前に現れた。灰色の大地に、目を疑うばかりの深い闇。そこに浮かぶ、何か大きなモノ。揺らめく闇の中から徐々に形を顕にしたそれを目にした瞬間、ぞわりと先ほどアレクシスと対峙した時とは比較にならぬほどの悪寒を感じ、背筋が粟立った。暗い眼窩には闇しかないように見えるのに、それは確かな意志をもってこちらを見つめている。無意識に震える拳をぎゅっと握り締め、蠢く闇に向かって問いかける。 「それで、あなたは私に何を望む?」  答えは期待していなかったのだが、相手はぴたりと動きを止めた。ややして、低い声が響く。 『私を滅ぼしてくれ』 「……何?」 『愛し子よ。私の意識があるうちにここにたどり着いた勇敢なる娘。どうか、その剣で私を貫いてくれ』 「そうすれば、全ては終わるのですか?」 『わからぬ……だが、これ以上悪くなることもあるまい』  どこか皮肉げに言う声に、なぜか懐かしい想いがした。だが、同時にじわりと怒りが心の奥底から沸き上がってくる。 「あなたをこの剣で貫けば、全てが終わるというなら、なぜもっと早くにあなたはそう求めなかったんだ!どれほどの命があなたのために失われたと……!」  彼女の怒りに呼応するかのように、闇がその色を深くする。 『私が望まなかったとでも思うのか?愛しいあの人の子孫をこの手に喜んでかけたとでも?』 「結果は同じだろう!」  叫び返すと、闇はさらに膨れ上がる。怒りに任せてしくじったかと、後悔しても遅い。闇から吹く風は勢いを増し、少しでも気を抜けば吹き飛ばされそうだ。突然、地面がその形を歪めた。闇が彼女を包み込もうとする。 「な……っ!」  とっさに剣を振り、まとわりつく影を払う。わずかに闇は怯んだが、すぐにその触手を伸ばしてくる。触れる直前に剣で斬り払うが、切っ先を逃れた一本が頬を掠める。 「……っ!」  火傷のような痛みが走る。酸なのか、熱なのかもわからないが、痛みが逆に意識をはっきりさせる。こんなところで挫けている場合ではない。剣を構え、闇を見据える。 「こんな因縁は、ここで終わりにする」  そして、その闇に向かって走り出す。迫りくる黒い触手を斬り払い、ひたすらに闇の中心を目指す。頬に、腕に、脚に、いくつもの切り傷が走るが構ってなどいられない。あと一歩で届く、というところでぐにゃりと地面がまたその境界を曖昧にした。足を取られそうになりながらも、剣を支えに何とか踏み留まったが、膝をついてしまう。 「く……っ!」  体勢を立て直す間も無く、一際長い黒い触手が目の前に迫った。剣を構えるのも間に合わない。搦めとられる——そう思ったとき、目の前に人影が割って入った。  彼女に届く寸前だった触手を左腕で受け止める。肉を焼く嫌な音が響き、焦げたような匂いが立ち込める。呆気に取られている彼女の前でその人影は、右手に持った剣で触手を斬り捨て、腕に巻き付いたそれを強引に引き剥がす。そして振り返ると彼女の腕を取って立ち上がらせる。 「何であんたは先に行っちまうんだ!」  長い黒い髪が、強風に煽られている。その隙間から覗く灰色の眼はいつかと同じように、はっきりと怒りと、そして心の底から気遣う光を浮かべていた。 「……ジェイク!」  思わずその首に抱きつくと、きつく抱き返される。力強いその腕に、途方もない安堵を感じ、だがそれどころでないことを思い出す。襟首を掴み、その顔を懐かしむ間も無く真っ直ぐに見つめる。 「お願いだ」 「……何だ」 「道を開いて」 「ああ……⁈ あんたが行くのか⁈ 俺に任せて……」 「嫌だ」  はっきりと告げた彼女に、ジェイクは一瞬凶悪な眼差しになった。怒鳴られる、と思ったが、雷は落ちてこなかった。かわりにぐいと一度強く抱きしめられる。 「説教は後だ。他にもいろいろ覚悟しておけよ!」  そう言って、彼女を離すと剣を構えて走り出す。ユーリもその後に続く。闇はもう目の前に迫っている。 「勝算は?」 「わからない」  ただ、ジェイクが切り開いてくれた道に飛び込む——その瞬間、闇に包まれた。  闇は深く、だが、確かにすぐそこに小さな光が見えた。それはほとんど闇の中でごく淡く幻のような今にも闇に飲み込まれてしまいそうな微かなものだった。近づいて見ると、それが濁った結晶が放つものだと知れた。これが、竜が言っていた「核」なのだろう。これを破壊すれば全てが終わる。竜から託された剣を振りかぶったそのとき、目の前に淡く輝く影が立ちはだかった。 「……何っ⁈」 『待って』  それは人の形をしていた。闇の中で、淡く輝く光に包まれる長い黒髪に、ほとんど微かに青みがかかった黒い瞳。誰なのかは明らかだった。 「レヴァンティア……?」 『そうだ。身勝手な願いだとはわかっている。だが、どうか、彼を救って欲しい』  苦悩に満ちたその声と表情から、彼女がずっと長い間苦しんできたことは伝わってきた。だが、今この瞬間にも表ではジェイクが危機にさらされているかもしれない。亡霊の無念になど付き合ってはいられない。 「そこをどいてください。どいてくれないのであれば、あなたごと斬ります。彼への愛に目が眩んであれを放置してきたのであれば、あなたも同罪だ」  彼女の中に燻る怒りは、何百年もの間、過酷な運命を背負わされた娘たちへの追悼でもある。どれほどの命が、この闇のせいで失われたというのか。それに贄となった娘たちだけではない。彼女の故国では嵐によって途方もない数の民の命が失われたのだ。  剣を構えた彼女に、レヴァンティアは首を振る。 『わかっている。だが、彼を滅ぼしてしまえば、この地は永遠に不毛の大地のままとなってしまう。どうか、彼の浄化に力を貸して欲しい。元はと言えば私が彼と恋に落ちてしまったのが原因だ。だが、私たち一族の業のために、この地を永遠にこのままにはしておけない』  時間がないことをわかっているのからか、彼女は手短に語る。かつて、子孫たちを人質に取った魔法使いたちにより、セフィーリアスが永遠に使役される契約を交わしてしまったこと。だが、彼の強大な力はそれが故に魔法使いたちを滅ぼし、それだけでは済まず、彼が慈しんできた大地をも滅ぼしてしまった。彼を滅ぼせば、全てが失われてしまう。 『あなたにこんなことを背負わせるのは、本当に申し訳ないと思う。だが、運命に抗ってここへたどり着いたあなたにしか、きっとできない』 「何を、すればよいのですか?」 『あそこに彼の核が、命の結晶がある。今は淀み、濁ってしまっているが、あなたが触れてその力を注ぎ込めば、浄化できるはずだ』 「そうして、その後、どうなるのです?」  それだけでめでたしめでたし、となるようにはとても思えなかった。だからこそ、目の前の相手は深い苦悩の色を見せているのだろう。 『あなたの力は、ヴェトが認めるほどに強い。きっと穢れを祓えるだろう。だが、力を使い果たしたあと、どうなるかは……』  ——結局は贄となる運命からは逃れられないということか。 「けれど、うまくいけば私が最後の贄となる、そういうことですね?」  レヴァンティアは静かに頷いた。それ以外に彼女は選択肢を持たないのだろう。ユーリは闇の中で、淡く光る結晶を見つめる。かつての精霊王だったもの。目の前の女性を愛し、その愛ゆえに縛られて破壊をもたらしたもの。この地の民や子孫からすれば途方もなく迷惑な話だ。だが、愛するということを知ったユーリ自身、それを愚かな所業と切り捨てることはできなかった。  呼吸を整えるために、目を閉じる。浮かぶのは先ほど闇から自分を救い上げてくれたジェイクの姿だ。いずれにしても、このまま闇が広がれば彼の命さえも危うい。己の運命がその手にないことは十四歳で告げられてから、百も承知の上だった。それでも、今は自分の命を惜しんでしまいそうだ。 「先祖の不手際による大地の呪いなんて、私には関係ない」 『ジュリアーナ……』 「……なんて言うには、私はあまりに愛され過ぎているようだ」  父も、母も、兄たちも。そして民も精霊たちも皆、彼女を慈しんでくれた。ジェイクの元へたどり着けたのも精霊たちの加護があってこそだ。ここにいる精霊たちが直接は関わりのない者たちだとしても、彼女の中にはその愛が息づいており、すべては繋がっている。  淡い光に向けて歩みを進める。それは、今にも消えてしまいそうにかすかに明滅している。 『すまない……』  深く項垂れるレヴァンティアに、今度は笑って見せる。 「謝るくらいなら、彼の理性がなるべく早く戻るよう祈っていてくれ。できればあなたも彼を導いて欲しい」 『……無論だ』  勁い眼差しに、頷き返し。光に触れる。  瞬間、様々な映像が流れ込んでくる。捕われる人々。自らの力で傷つけられ、倒れていく人々。濁っていく水と大地。やがて意識は曖昧になる。自分の中にある、それまで自分が気づいてもいなかった大きな力が、指先から結晶へと流れ込んでいく。確実に流れ出していくそれは、彼女の命にも等しい。  彼女の中から何かが失われるのと同時に、濁っていた結晶は少しずつ透明度を増し、光を取り戻していく。だが、闇を全て払うのに、あとどれほどの力が必要なのだろうか。海に落ちたときのように、全身が冷えていく。流れ込んでくる悲惨な映像は彼女の意識をさらに侵し、彼女自身の形さえ曖昧にして闇へと溶かしてしまいそうになる。  そのとき、いつの間にか地面に取り落としていた剣が輝いた。浮き上がった剣を中心に、清浄な風が吹く。闇を切り裂いて声が響いた。 「ユーリ!」  力強い手がその剣を取り、彼女の腕を掴む。伝わる温もりで、意識が一気に浮上する。 「ジェイク!」  見れば、服はあちこち裂け、血が滲んでいる。頬にもさらに傷が増えていた。それでも、その灰色の眼は、ただひたすらに彼女を想う色を浮かべている。泣きたいほど、どうしようもなく愛しい。 「しっかりしろ、あと少しだ。さっさと片付けて、あとは……な?」  彼女の想いを読み取ったのか、彼女の腰を抱き寄せて、ジェイクはニヤリといつものように笑う。そんな場合ではないのに、腰にわさわと触れてくる手を叩いて結晶に目を向ければ、確かにそれは今や力強く輝いている。  ジェイクの存在と、剣から溢れ出す花の香りを含む風が、彼女の体を暖め、確たる力となる。 『ヴェト……』  呟く声に目を向ければ、レヴァンティアは驚いたように眼を瞠っている。 『……そなたは見守れと言った。だが、勇敢な若い恋人たちに免じて、これくらいの助力は許せ』  どこか面白がるような声が遠くから響く。  竜と精霊と人との間にどのような約束があったかは知らない。だが、今はその願いを自分の祈りに変えて——。 「セフィーリアス、あなたを愛する者たちの声が聞こえるなら、己を取り戻せ!!」  叫んだ彼女の声に応えるように結晶が一際強く輝き、彼女の意識は光に呑みこまれた。
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