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一人で歩く家から学校までの間、私は意味もなく何度も自身の唇に触れていた。
夕べ、あのまま部屋を飛び出してしまったから、どんな顔をして彼に接していいかわからない。
初めてだった。あんなに近くで、異性に触れることも、その行為に心臓が止まりそうになることも。
初めてだったのに。
彼にとってはこの上ない嫌がらせに過ぎないのだ。
金木犀の芳醇な匂いが胸を締めつける。
この薫り立つような悔しさや虚しさは一体なんなのか。
信さんは、今はもう完成しているであろう芳ばしい海老のスープを『償い』だと言った。
それが何を意味するのか理解できず、授業中もぼんやりと黒板を見つめるばかりだった。
隣の席の瞭は、いつも通り退屈そうに頬杖をついている。
恐る恐るチラリと確認した彼の横顔。唇の端に切り傷とうっすら痣が見えた。
もしかして慧さんに?
ふいに瞭がこちらを向いたので、すぐに視線を黒板に戻した。
心の中の神様に問いかける。
……私の罪は。罰は、償いは。
『逃げるなんて許さないよ』
慧さんの言葉を思い出し、背筋がすっと冷えていくのを感じた。
突然、とんとんと誰かが私の肩を叩いた。
びくっと身体を強張らせながら叩かれた右側を向くと、心配そうに私の顔を覗きこむ吉池さんの姿があった。
『大丈夫?』
そう一言書かれたノートを私に見せる彼女。
救われる思いで、「ありがとう!大丈夫!」と笑うと、まだ授業中の静まり返った教室に私の声はよく響いた。
「何が大丈夫なんですか?」という先生の厳しい声と、クラスメイト達の笑い声が私の顔を熱くさせる。
それでも初めて吉池さんと会話できたことが嬉しくて、私は彼女と目を見合わせて笑った。
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