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静かなキッチンに二人並んで、私はひたすら茄子や人参などを切った。
信さんは、手際よく玉ねぎの微塵切りをしている。
「今日はハンバーグにしようと思って。あとは野菜のソテーと、今朝のビスクスープ」
嬉しそうに調理をする彼を見るのが好きだった。
彼の料理も、この大切に使っているキッチンも。
何もかもが、いつも私を癒してくれて。
いつからか、私の中で彼は母のような存在になっていたことに気づく。
歳も近く、それも男性なのに、そんなことを思うのは失礼だけど、それでもこの短い期間に彼から安らぎをたくさんもらったことは確かだった。
もしかしたらもう二度と味わえないかもしれないハンバーグの味を想像して、黙って苦笑した。
「……学校、大丈夫だった?」
突然響いた信さんの声に我に返る。
見上げると、彼はとても心配そうな瞳で私を見ていた。
「慧さんから聞いたよ。嫌がらせされてるんだって?」
最早そんな悩みも可愛らしく思えるほど、私の心は絶望にうちひしがれていた。
「大丈夫です!今日、仲直りできました。ごめん、って謝ってくれて……」
信さんの目が翳った。
「……謝れば、紗良ちゃんは許すの?」
嘆きのような弱々しい声にたじろぎながらも私は答えた。
「……許します。許してしまう。……気が弱いんです。意思も弱くて。謝られると、すぐに許してしまう」
『ごめんね、紗良』
許さないと、自分が辛いから。
「……弱くなんてないよ」
信さんは手を止めて言った。
「弱くなんてない。むしろ強いよ。人を許せるって、誰よりも強い人だと思う」
「信さん……」
びっくりしてしまった。
だって今にも彼は泣き出しそうにして笑っているから。
「紗良ちゃんみたいな人に、救われる人はたくさんいると思うよ」
「そんな……」
思ってもみなかった言葉と表情に、私はわかりやすく取り乱しながら野菜切りを再開させる。
救えるはずない。
だって私も、許しを請う側の人間だ。
『お前と、お前の母親の罰だ』
瞭の声と私を見つめる瞳を思い出し、胸が痛いくらいに締めつけられる。
「痛っ……」
漫然と包丁を使っていたせいで、左の人差し指を少し切ってしまった。
まな板にポタポタと落ちる血を呆然と見つめる。
「大丈夫!?紗良ちゃん!」
すぐさま彼は私の左手を握ると、人差し指を自身の口に含んだ。
何が起きたのかわからずに、頭を真っ白にさせて固まった。
「ごめん!昔、妹にしてた癖が出て!」
ハッとしたように信さんは慌てて私の手を離した。
「妹?」
「うん。歳の離れた妹がいるんだ。家出しちゃったから、もう会えないけど」
冗談なのか本気なのかわからないように笑って、キッチンに置いてあった救急箱を開け始めた。
「あれ?ごめん、絆創膏切らしてるみたい」
「だ、大丈夫です。すぐ止まりますから」
「だめだよ。俺の部屋にあるから一緒に来て。ついでに消毒もしよう」
信さんは強引に私の手を引き、料理を中断してリビングから出た。
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