【紗良】

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「あの日、僕らは同じ場所にいたんだ」  諦めたように、信さんは力なく話し始めた。 「ちょうどその頃、妹が生まれたばっかりで。皆新しい命に夢中で。寂しさを紛らわす為に、川辺でスケッチをしていたんだ。まだ夜が明けて間もない時で。書いてるうちに、橋の上から人の声が聞こえた。確かに覚えてる。男の人と女の人が、“もう会うのはやめましょう”って、そう話していた。“マリさんが大事だから”って、二人とも、そう言ってた」 「母さん……」  瞭の涙声が耳に伝わる。共鳴するように再び涙が溢れ、記憶を呼び覚ました。  そうだ。母も呼んでいた。凛として美しいその人の名前を。  “マリさん”と、大切な友を呼ぶように。 「だから、心中したわけじゃないんだよ。僕があんなことをしなければ……」    信さんの顔が歪んだ。苦しみもがくその姿はいたたまれず、見ていられなかった。 「……突然風が吹いて、筆が川に落ちたんだ。父さんが僕だけに買ってくれた、大切なものだった。だから……拾いたくて、……川に入って」  まさか、二人は____ 「思ったより深くて、すぐに足をとられて溺れてしまった。もがきながら聞こえたんだ。さっきまで側で話してた人達の声が。今助けるからって……。気づいた時には病院だった。川に倒れてた木の幹に引っかかって、助かったらしい。きっと二人が、そこまで押し上げてくれたんだと思う」  瞭と私は、すがるようにお互いの手を握った。  言葉は何も出なかった。  ただ、二人の真っ直ぐな心にひれ伏した。  それなのに私は、母のことを一度でも酷い人間だと思ってしまったんだ。 ____許してくれますか?  心の中の、神様(お母さん)に問いかける。  彼女が優しく微笑みかけてくれたような気がして、瞭の手をぎゅっと握りながらひたすら泣いていた。  
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