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残念な黒猫の物語
「同窓会で憧れのあの子に再会か」
閉店からしばらく経った午後3時。こんな時間にこの店にいさせていいのはただ一人。
瘦身の色白で中性的な美人。男にしたら普通くらい、女にしたら背が高い、短髪のこいつの見掛けでは男女の区別がしづらい。
猫に例えるならば、すらりとした黒猫。懐かない猫のようだ。
「覚えているかもわかんないよ。覚えていたら、とんでもなく嫌な記憶とセットだから思い出したくないかもしれない」
すねた顔で蕎麦湯をすする。蕎麦屋が言うことではないが、蕎麦ばかり食べているからこの猫に肉が付かない。
猫は雑食のはずだが、この猫はベジタリアンらしい。
「でも、お前は忘れらないんだろ?」
「初恋じゃ軽すぎる。本当の私に気づかさせてくれた人なんだ」
子どもの頃に一緒に変質者に遭遇した女の子に抱き着かれて、猫は何かに目覚めたらしい。
『誰かに守られるのではなく、誰かを守りたい』と。
残念ながら猫はまったくもって運動ができない。走っても普通よりも遅いし、力もない。
リズム感もないし、体を使って何かを守ることに限界を感じて法学部に入ったという。
マジメか。
俺には理解できないが、こんな真っ直ぐな黒猫がかわいくて困っている。今も愁いをまとったその姿は俺の庇護欲を刺激する。
「もう一度、熱烈ハグか」
「そんな言い方するな!」
怒った顔もかわいくて、手を伸ばす。くいと顎を持ち上げてやれば、不信と不安の瞳で俺を見る。
「じゃあ、俺で我慢しろ」
猫もだいぶキスがうまくなってきた。最初の頃は過呼吸を起こして、俺は自分が犯罪者になったみたいで落ち込んだ。
猫は美人だ。幼い頃から男も女も寄ってきて、猫を貪ろうとした。未だに男も女も知らないままでいるのは猫曰く腐れ縁の幼馴染の男たちが守ってくれていたからだ。
その幼馴染に食われるんだろうと思っていたら、一人は猫の大事な初恋の彼女に片思い、もう一人は最近彼氏を連れてやってきた。
恋愛は自由だ。落ち着く奴と付き合えばいい。ただ、その彼氏もしっくりこないようで心配している。
「大輔さん、醤油の味がする」
「ああ、いいもんがあるよ」
ヘーゼルナッツの入ったチョコレート。これを一個丸ごと俺を見つめる猫の口の中に押し込んで、それから俺自身も味わってみる。二人の舌が絡まって、チョコレートが溶けていく。
チョコの甘さか猫の甘さか。声まで甘くとろけていく。
猫は俺といて、ここが自分の居場所だと思えてるんだろうか?
俺はこの臆病で強がりの黒猫をこの先も大事にしてやれるんだろうか。
猫、もとい葵は匂い立つような色気を放つ。葵の意志ではないが、こんな姿を見せてしまったら、またいろいろな奴が葵に近づいてくるだろう。葵の言う変態たち。
葵をこんなにして言うことでもないが、でもこれ以上こいつに手を出さない俺も変態に違いないな。
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