臆病なクマの物語

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臆病なクマの物語

「大輔さん、怖いんだ」  上気した頬、潤んだ瞳、放たれる色気とは真逆の甘くない、震えた声音。 「真由ちゃんだっけ? 拒絶するような子か? そりゃ、10年ぶりに再会してすぐに告られたら絶句すると思うけど」 「告らないよ」  またすねている。 「でも…」 「いつもの威勢の良さはどこ行った?」  鼻で笑ったら人殺しのようなことを言い出す。 「大輔さんといると私は弱くなる」  もう一度、唇を奪う。心ごと、体ごと奪うくらいの情熱を注ぎこむ。 「真由ちゃんに会ったら私はどうなるんだろう」 「…どうもならない」  額を合わせて、すぐ近くで見つめあう。猫の目は澄んでいてきれいだ。今は妖しい色気を放っているけれど。  一体何に怯えてるんだろう。俺のことを好きだと言って無理やりキスして過呼吸を起こした猫は実は真由ちゃんが本命で、自分の性的な立ち位置を見失うことが怖い…のか。  本質は女の子なのだと思う。俺の中ではかわいい葵だ。 「怖いなら、泊っていくか?」  きれいな顔でじっと見つめる。 「…今日はいい。でも、明日、迎えに来てほしい」 「店が終わったらな」 「それでいい。大輔さんを待っている」 「葵、どこでそんな殺し文句覚えてきた?」 「…この間読んだ判例」 「その判例はどんな裁判?」 「男女関係のもつれで殺人事件になった」 「…お前、完全犯罪の研究とかするなよ」  音を立てて額にキスして、もう一度ハグしてやった。  葵の成育歴は複雑だ。両親は同じ美容師で、共同経営者だった。  授かり婚で生まれた葵を両親ともに溺愛し、飾り立てることに熱心だったという。プロが本気でかわいくするんだ、素材もいいし、人目をひいたことだろう。  一方で共働きの両親の元、葵は子どもの頃から一人だった。葵の言うヘンタイに追いかけまわされて泣いて帰っても自宅に両親はいなかった。  小4の終わりに、葵たちは変質者を捕まえようとして騒ぎを起こした。その頃、葵の父親は店の女の子に手を出して、授かったことが発覚したばかりだった。  両親は離婚、葵は母親に引き取られた。  母親と暮らし始めた頃、葵は一人で父親の店に行き、長い髪をバッサリ切って、その髪を置いて父親と縁を切った。ただし、養育費だけはきっちりと要求して。  小5にして、葵は自力で生きていくことを考えていた。そんな葵を支えたのが幼馴染みの健人と拓海だ。  母親に恋人ができて、家に居づらくなった葵に付き合って夜のコンビニにいつまでもいた3人を心配した警察官が当時保護司をしていたうちの親父のところに連れてきた。  それが葵と俺の出会い。そして、俺たちを引き合わせた警察官は目の前でおろし蕎麦をすすっているこの男、高橋岳人だ。  派出所勤務から警察署勤務になったこの人は週に2日はうちの店に来る。何故ならば俺の店は市役所、警察署、消防署、地方裁判所支部に児童相談所、ハローワーク等官公庁の近くにあるからだ。  店は今は亡き親父の時代から月曜日から土曜日の10時から14時に営業して、夜間は予約のみの対応をしている。  今、土曜日の13時50分。店を閉めたら葵を迎えに行く。 「そわそわしてんなぁ。動物園のクマが餌の時間を待っているみたいだ」  クマ、俺の名前が大熊大輔で、俺自身も190センチと大柄なことからクマと呼ばれる。子供の頃頃はダイダイと呼ばれた。大の字が2つもあるのに背が低いのをからかってだ。  誰かが大きくなるための願掛けで効果絶大だったなと自慢してたけど。 「なぁ、大輔」  高橋がにやっと笑って訊いてくる。 「黒猫の誕生月はいつだ?」 「6月ですよ。誕生日にここにきて酒が飲みたいなんて言って、梅酒を飲ませたらフラフラでした」 「ふーん、まぁ成人しているならな。未成年の猫がクマに食われるのを見過ごすわけにはいかないけど、成人しているなら同意があれば犯罪じゃない」 「あれは猫にしては運動神経がずさん過ぎです」 「護身術を覚えこませるのも大変だったらしいな」  高橋も遠い目をしている。関係団体が開いていた女性のための護身術講座、身構えた感じはよさげだったが、よかったのはそれだけだった。 「あの猫はなかなか家庭には居場所がなくて、どうなってしまうか心配だった。親父さんや大輔に拾ってもらえて本当によかったと思っているよ」 「あいつ自身はまだ自分が何者でどこに居ついていいのかわからなくて彷徨っている気分らしいですけどね」 「それは困った猫だな。でも、もう逃げ場所が分かっているから今日も行ったんだろ」  高橋は立ち上がって伸びをする。24時間勤務だから、まだまだ仕事は終わらない。 「まぁ、食う前に同意は取れよ。最近、法律知識に目覚めているからな」 「憧れの女の子に受け入れられたらクマのおっさんなんて目に入らないでしょう」 「その時は慰めてやるよ。あ、一緒に行くか? 明日から例の温泉に行くんだ。子どもたちは山の滑り台、俺たちは温泉、奥さんは明後日の地元野菜収穫体験をすごく楽しみにしている」  高橋の幼馴染が関わっている温泉施設は食事が美味しいという評判で、うちの蕎麦や野菜、クルミにキノコなどの仕入れでいろいろ世話になっている。 「いいっすね。そのうちに行きますって花菜さんに伝えてください」  温泉施設の直売所などの担当者に伝言をお願いした。  高橋が店を出たあと暖簾を下ろし店を片付けた。車のキーをポケットに突っ込む。店の外は真夏の日差し。汗がどっと噴き出す。隣町の小学校につくまでに車は冷えるだろうか。  葵は今どうしているだろう。同世代の女の子とにこにこ微笑みあう葵を想像して、頭を振った。   だって、そこにクマの居場所はないだろう?
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