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日常
「あー、つっかれたーつっかれたー……」
ひとりごとのようにしてトオルは一つの一室に入っていく。すると、カウンターのあるダイニングキッチンにて、てきぱきと電子レンジなど動かしながら、
「ちゃんとハンガーにかけるのよー。こわくても銃はもってきてー」
「Yes Mom」
ゴソゴソとさせながら、開いたドアからは、世話焼きに対し応答する声がし、やがて、ジャージ姿をしたトオルが戻ってくるころには、
「……よし。じゃあ、それ、チン終わったら、全部食べられるから」
などと、長身とすれ違うように一室に入っていったのはハルカなのであった。
イチゴジャムのキャラのロゴの入った部屋着となってハルカが戻ってくるころには、テーブルに食事を並べたままにトオルがスマホをいじっている。
「先に食べててよかったのに」
「いや、そういうのはよくないだろ」
変に律儀なトオルにはすっかり慣れっこのハルカである。三十を過ぎたというのに、お腹が空いても眠れなくなる心は少年のために、今夜も遅い夕食ははじまろうとしている。
思えばお互い、かつてはあれだけ若かったというのに、年をとったものだ。ふと、ハルカなどは、(……私、来年は、アラサーじゃなくなるのか)と、女心がよぎったりしたが、「いただきまーす」と両の手を合わせれば、まるでいつしかの再現のように、二人の食事は、テーブルを隔てた、向かい合わせをしてはじまるのだった。
食事自体は、トオルが来た頃の当初に比べて、かつては何年も共に過ごした仲の積み重ねが勝り、ぎこちなさなどは当に過ぎた雰囲気だった。が、ふと、切れ長はテーブルの隅に置いた自らの銃などに視線を移すと、
「やー。やっぱり、あれ、おっかねー……」
などと苦笑をもらす。
そこは、ハルカも相手の人格がわかっているからこそ、思わず同意もしてあげたくなる、といったところだったが、
「だーめ。私たち、今まで以上に特殊な立ち位置なんだから」
「俺、ロシア語も中国語も、多少なら、話せるよ?」
「どこの諜報員が、『こんばんは』なんて言って襲撃してくるのよー」
「Добрый вечер、晩上好」
「えっ?」
「あっちの言葉のこんばんは」
トオルが持ち前のスキルを披露すれば、つい、「ふーん」と感心してしまうハルカも共に暮らしていた頃からの不変なやりとりでもあったのだが、
「ともかく、慣れて。私たちの世界は、そういうとこなんだから」
「に、しても、ハルカは、銃、うまいよなー。いつ見ても映画の女優みたいだわ」
それは訓練場にて、今日も手本として見せた、彼女の実弾の実力を物語っている。
「そりゃどーも」
「で、あの日だって、トートバッグのなかにしまってたんだろ? まじ映画じゃん」
どうやらトオルの記憶は、ある夏の日のことをよぎらせたようだ。
ただ、あの日、フランの挑発にとうとうプライドが勝ってしまったハルカは、自分の意識が戻り、最初に思ったことは、「プロ失格だ」という自責の感情で、それを思い出すかのように、キッとトオルを睨みつける、その表情は、途端に顔も真っ赤となれば、まるであの夏の夜、といったところだったが、
「いつ、なにが起きるかわからないんだから、当然よ!」
などと、それをもプロ意識でもって取り繕うのだった。トオルは、そんな彼女の本音をどこまで見抜けていたのかはわからないが、とりあえず、軽く口笛などを吹くと、感心といった表情をして、
「やー。でも、ここんとこ、ずっと、ハルカのがんばり、見させてもらってきたけどさー……」
「なによ?」
「やー。すっげーなって! こんな映画みてーな世界のなかで、ずっとがんばってきたんだなって! 俺、まじ最近、リスペクトしてんだ!」
こんなときのトオルはどこまでも屈託がない。
ましてや、少年のように瞳をキラキラさせたと思えば、真っ直ぐにニカーッと歯を見せて微笑みかけられてしまうと、彼女のなかの学生時代からの感情がうずく。
「言ったでしょ? 自衛隊とは全く別個だけど、私たちの仕事が国を守ることにあるのは、変わらないんだから。あ、あなたにも、早々に、隊員一人に対抗できるだけの実力は、つけてもらいます」
「ひぇ~おっかねー」
「あなたの上司だもんっ。当然ですっ」
そして、照れ隠しのままに、この感情を見せまいとし続ける言動が次から次に言葉を選んでいくなか、部下からの悲鳴にも、まるで、ぷいと顔をそむけるようにして、押し切ろうとした、その刹那、「……とんでもねー世界に飛び込んじまった」と、今年の春から何度も聞いた言葉に、ハッと、ハルカはトオルの方を向く。
ただ、明らかに似つかわしくない世界であることは、自分でも重々わかっているはずだというのに、言葉の内容に比べて、彼の表情には悲壮感などなく、いつもまるで何かを噛みしめているように微笑みすら浮かべているのである。
急に言葉のつまったハルカが、それでもなにかの話題をふろうとしているさなか、ふと、トオルは、横顔となって、都会の一角にあるタワマンの夜景に瞳を移していた。そして、ふと、「……フラン、※〈¶」Π、トウタツ」と、急に、白目を向くと、意味不明な発音とともに、語尾などは、まるで開発途上のAIのような機械的な響きになっていたりするではないか。
「ちょ、トオル?!」
「んー?」
ハルカが思わず身を乗り出したというのは言うまでもないだろう。ただ、その刹那をもって、元に戻っていたトオルは、なにが起きたかの自覚もなく答え、すっかり心配げにして覗き込んでいるハルカの表情に瞬きすると、
「……げっ。もしかして、俺、また、なんか変だった?」
と、いう呑気っぷりだ。
そして、これも、ハルカがトオルと再び暮らし始めてからは、定番となりつつある光景なのである。
とりあえず、ハルカは席に戻ると、手に止めていた食器を動かし始め、
「あ、明日も、副長官に診てもらいますっ」
「うい~……」
「ていうか、明日も早いんだから! 早く食べて! 寝るわよ!」
「えー、なにー? 怒ってんの?」
「怒ってないっ」
猫背となって様子を伺ってくる相手に対し、ハルカは押し切ろうとする。ただ、こんなときハルカの夢想はみるみるもたげてしまっていて、そのなかに現れる赤い角の生えた乙女の表情がいたずらっぽく、舌もペロリと、ハルカに笑みを浮かべてこようとするものなら、
(あなた、トオルになにしたのよ!)
と、詰問したい衝動を、こらえるのも、いつものこととなりつつあった。
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