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冷泉は、ぼんやりとしている旭へも改めて頭を下げて。
「皇子」
静かな呼び掛けであると言うのに、旭の肩は跳ねてしまった。
「は、はいっ」
「中座失礼致しました。本日は、此方の装いにて控えまする」
「は、はい……」
そう答えるも、旭の心中は穏やかではない。現在の冷泉は、正しく『和泉の君』だと。和泉が、斯様に近くに居ると旭は複雑な思いに苛まれる。推しは『蛍の君』であるが、其れも最近は心が定まらず。今此処で、旭は苦悩の中に居た。あづきの美しくも甘酸っぱい恋、其の相手は『蛍の君』しか有り得ぬと。そして、此れ迄己は其の恋を支持し、応援して来た。冷泉へはまだ打ち明けては居ないが、私室の隠し扉の向こう側へは、『蛍』の限定もの収集品が息を潜めている程。しかし、恋した夫は『和泉の君』。故に、和泉へも向けてしまう恋に似た思い、蛍への敬愛と情熱の翳り。此の狭間にて、大きく揺れ動いてしまいと。
旭の苦悩等、此処の誰も気には止めぬ。そんな中。
「あ、あのっ、ひ、東の東宮妃様……っ!」
百合がとうとう動いた。百合も、此の状況に心が酷く揺さぶられて居たのだろう。兄であり、共に『あづき』支持者でもある旭には、手に取る様に分かる。此の一声は、正に勇気の一声であると。
そんな緊張の面持ちで固まる百合へ、冷泉は柔らかに微笑むと。
「后妃様。どうぞ名で。私は、貴方の弟でも御座いますので」
品のある優しい声にて、百合の言葉を促した。と、此処で旭は少々眉間へ皺を寄せる。己との初対面――基。再会では、斯様な笑みと優しい声では無かったがと。
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