天国と鬼

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天国と鬼

   私は手先が器用だった。  見たものを真似するのが上手かった。創造性など皆無だったが、模写は得意だった。  私は手先が器用だった。  そんな私の元にはいつの間にか、遺書を書いて欲しいという人間がやって来るようになった。  聞いた言葉をひたすらに正確に、一言一句間違いなくしたためる遺書は好評だった。  私が初めて模写した文字は母の文字だった。しきたりに縛られ、歪んだ親戚に囲まれ、鬼のような父と、閻魔のような祖母のいびりに堪えかね、自ら命を絶った母の。  私にだけ吐いた愚痴を。私と母だけは唯一の家族だった事実を。一心不乱に紙に書いては鬼に送りつけた。  意味があるとすれば、捌け口だった。それくらい許されるはずだという、ただそれだけだった。  鬼は泣いた。そんなことはどうでもよかった。  私には母さえ居れば良かった。それ以外など興味もなかった。二人で幸せを噛み締めるだけで良かったのだ。それを、この鬼は噛み砕いた。故に、もうこの世に求めるものなど無かった。  遺書を書いて過ごす内に、私は違う世界から招待が来たらしい。人間の死を見すぎたのか、いつの間にか私は人間とは呼べない存在になっていた。   『お前は人を喰らわねば存在出来ぬ、鬼になったのだ』  そんな声が響いても、私はただ口をあけるだけだった。 「鬼になったのなら、喰いましょう」  鬼になっても、やることはそれほど変わらなかった。死にそうな人間の言葉を聞き、したため、喰った。 喰う物が変わった。それだけだった。  ある日、あの鬼が死ぬと聞きつけ見に行った。私を見つけ大層怯えていたが、最後は泣き出した。 「俺はろくでもない奴だった。認める。だからもう」  私は初めて、死を前にして文字を書かなかった。その鬼の言葉を遮り、喰った。それ以降、食に興味が失くなった。  どうやら鬼となっても、逝く場所は人間と変わらぬのだという。人を喰ったのだからと行き先は地獄らしい。  私はあの鬼を探した。  母と同じ所に逝く予定だったものを、狂わせたのだ。もう一度喰ってやらねば気がすまなかった。  閻魔に聞けば、驚くべき言葉が返ってきた。 「その男は天国だ。妻からの招待があったのだそうだ」  酷い顔をしていたのだろう。閻魔は続けて言う。 「お前も招待したのだと聞いているが、既に鬼になっていた。地獄逝きは覆せぬものだ」  私は手先が器用だった。  私には母さえ居れば良かった。  それ以外など興味もなかった。 「本物の鬼が天国で、仮初の鬼が地獄とは、人の世はなんと不公平でありましょうか」  そう告げた声は、あの鬼と同じ様に底冷えた声をしていた。
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