百キロの壁の向こうに待ってるもの

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百キロの壁の向こうに待ってるもの

 今日もまだ八十キロの壁に阻まれている。新型コロナウイルス蔓延の影響により週二回ほど通っていた市立体育館のトレーニングルームの閉鎖されたのを機に家の狭い倉庫を片付けて百キロのベンチプレスセットを買って早一年半になろとしている。やはり一人でやるのは効率の悪く目標の百キロ上げにはまだ二十キロの重量の厚く重く圧し掛かる。それでも何とか七十キロを五回から日によっては七回くらい連続して持ち上げ八十キロなら一回か二回は上がるようになり始めた。誰かと競う訳でもなく先を急ぐ必要もないのだけれど初めてやっと一回だけ自分の力で八十キロの持ち上がった時また百キロを上げる見込みの仄かに感じられて嬉しくそして誇らしくなった。同時に持って生まれた素質とでも言うような所謂身の程を思い知らされた気もした。恐らく生まれてくる時に天から授かる力というのはそれに理由や意味のあるのかどうか判然としないながら平等ではないのだ。もしも今ここにではなく昔の農山村に生まれていたなら一人前の男の力仕事に体の追いつかず村祭りに相撲なんぞ取らされた日にはころりと投げ飛ばされていたに違いない。幸運にも今はそんな力の試される世ではないし周りには似たような男たちも少なくない。それでも八十キロを一回でも上げられるようになったのは奮闘努力の証でありこの先も継続して力は強くなると信じてはいるけれど常に天分を弁え素直に従ったらどうだと行く先に立ちはだかり囁くもののいる。蒼生の先入観の幻惑に過ぎないのかそれとも伺い入れぬ絶対的な真実を告げる存在なのか気になるところである。  確かに無駄な抗いは速やかに改めるべきだ。しかしそれをやらないことも現世の常である。日々健やかに心身を保ち浮世を漂い無事に過ぎるためには運動も食事も仕事も何事も適度であることの大事である。しかしその適度というのはいかにも難しい。腹八分と言ったって一体どれ位を指すのか良く分からない。好物のものとそうでもないものを食する時には同じ八分で抑えたにしても実際は随分と差異の生じているに違いない。結局人は我儘に流れ簡単に適度を超えてしまう。そもそも適度ということは最初から超えることは簡単なのであって超えないように自制することなのだから筋トレで八十キロを超えて百キロを目指そうとする場合にも身の程を知れと囁く声の聞こえてくるのかもしれない。結局身の程の高まって行くなら適度もそれに伴って来る。意思のある我儘は役にも立つ。やるしかない。現世の旅の道連れ。冥途の土産。  今年も夏は去って行く。真白の入道雲の沸き立つ真っ青な空の下で桜並木はひらひらはらはら葉を落とし蝉は土に転がり屍と化して行く。ぬばたまの夜には月と星の光の冴え渡りやがて地上は露霜の降りてくる季節を迎える。古びた石橋の上の傷んだコンクリート舗装の上を撤退を始めた夏の老兵たちの背中の見えるようだ。彼らは何処へ行くのだろう。夏の終わりに身の程を超えて筋トレを続けようというのは無謀だったかもしれない。野山の生命は退潮の時を迎え気分は只管下降して行く。老兵らは行き着く先の当て所もなくただ彷徨い続けるのだろうか。そう思うと毎日の家の小さな倉庫でベンチプレスを行う日々についトレーニングベンチに浅く腰掛け項垂れてしまう。やはり我儘を押し通すよりも撤退をするべきなのだろうか。百キロを持ち上げる明日へは到底辿り着かいないのかもしれない。いやいや。百キロを挙げる日はきっと来る。だけどそこでその時何を思うのだろう。旅はそこで目出度く終わるだろうか。そこはまだほんの旅の途中に過ぎないことの明らかになるだけかもしれない。  百キロを上げている人に聞いてみようか。以前通っていた体育館のトレーニングルームには百十キロを上げる人たち数人の緩やかなグループの出来ていた。時々その中にいる人と雑談をすると凡そみんな百十キロくらいまで上がるようだった。確かに見るからに上半身の逞しい膨らみ厚みを見ると羨ましい。生来の脆弱な心身を逞しく変身させることは現世の大事な責務であると随分前から認識している使命感は百キロを上げられるようになれば果たせたという実感を得られるのだろうか。百キロを上げる人達を傍から見ているとそう思えてくるので今日も倉庫で毎日足掻き続けている。しかし思うに例え百キロを上げたとしてもそれで使命感を達成してしまったと満足して終わりにはできないであろうと想像できる。筋肉は分かり易いけれど柔よく剛を制す小よく大を制することも考慮に入れなければならない。  そもそも世間とのかかわりの薄い現世に逞しさは必要なのだろうか。果たしてこれから先もいよいよますます世間から遠ざかる暮らしならちょうど今の夏の終わりのように衰退してゆくことの良く似合っている。だけど秋色の空の下を車を運転しながら遠くに見えた古びた石橋の近づいた時にふと速度を落として今はもう旧道になって久しく通る人もいないその橋に続く脇道を覗き込んだ時に敗残兵たちの引き上げて行くその先は必ずしも滅亡ではないことに気づくのだ。橋を渡り川の向こう側に歩いて行く益荒男たち。大切な人を世界を守るためならまた立ち上がり遮二無二に抗う人々。いざとなればいつでも戦えるだけの心構えを失わない人たち。  それに世間との関係性はいかに薄くなって行っても心の中まで完全に切り離されてしまうことは難しい。例えば神社のあれば鳥居の前で一礼し路傍の石の仏の前さえ頭を下げずには通り過ぎ難いのだから世間との関係は生涯断ち切ることは無理なのである。古来より積み重る人の思いの形を成したものに接する時に今のこの現在のみに生きているわけではないと頓悟する。そして今日もまた一人家の倉庫のベンチプレスの台に腰掛けては天離る百キロの世界へ踏み出そうとしてその重さに圧し潰されそうになっている。  ここはやはり家の倉庫を飛び出して市立体育館のトレーニングルームに向かうべきなのだろうか。一人で悩んでいるよりも同好の士と交わるにしくものはない。だけどそれも正直億劫なのである。仲間と連れ立ってやるのなら筋トレのヘルプや間違ったやり方をチェックしてもらえるし百キロを上げられる世界の住人からの手引きも得られ精神的にも随分と頼もしいことだろう。しかしその反面どうしても彼我の比較をしてしまい目指すところの曖昧になってしまいそうではないか。自分より優れた人のあればそこを目指し周囲の他者の中の一番と思える人を真似ようとしてしまう。それを一番嫌悪する。その群れの中で優れている存在ではなく絶対的な高みを目指したいのだ。例えばベートーベンの運命交響曲をアマチュア楽団の少しでも手練れの演奏を求めて歩くのではなく神さびたスコアに導かれるままに苦悩から歓喜へとアタッカに移り行く楽聖の指し示した世界を震えるほどの忠誠さで再生したプロの魂と技術を凝縮した演奏のこの宇宙空間に留まっている瞬間に身を置きたい。  この漠然とした身の程を弁えない理想は現実世界の身の置き所を狭めている。頑固で面倒くさい人という肩身の狭い思いを抱えて歳を重ね生き生きとした明るさの失われて行く。生来のその性質を改めることのできるならば驚くほどの生きやすさに出会うかも知れない。しかしそれも浮草の儚い夢現に過ぎないのかもしれないと思う。例えば初めて行く劇場の屋外平置きの駐車場でのこと。かなり早めに出かけたので到着した時にはまだ一台二台しか車はなく何処でも好きなところを選べたので出口の料金ゲートに一番近い枠に駐車した。コンサートの終わりトイレに立ち寄り駐車場に行ってみると整然と出庫の順番待ちをしている車の列はなんとゲートと反対側の遠い方を先に近い方の枠の車はゲートと反対方向に進みその後ろに回り込んで並んでいるではないか。出庫ゲートのすぐ隣の枠は順番からすると一番最後なのであった。こんな時生来の頑固であるという自覚は救いになる。自分の頑固さの所為でこうなったのだから所詮世間とは折り合いの良くない性質だからこんなことだろうと妙な諦めのついて不機嫌を隠そうともぜずに仏頂面だけど最後尾に大人しく並んでいる。中途半端に頑固の解消されていたならこうはすぐには波静まり穏やかに月あかりを映す内面には戻っては行けない。頑固で生きづらいことも一つの処世である。角を矯めて牛を殺すことを平気で求めたがる今の世の中に無理に合わせつけることもない。人は持って生まれた性質のままに生きて行くことで生まれて来た責任を果たすチャンスを与えられることもある。  現世は終焉に近づき何らの責任もいまだに果たし得ないものの毎日続けたいと思える努力は一人でやるものだとやっと得心できた。生来の性質に忠実に倉庫で一人百キロのベンチプレスの果たして上がるのだろうかと項垂れている時間の先にきっと肩の荷を降ろせたと思える日々は待っている。ちょうど季節の変わり目でたまに出かける四階建ての細長い灰色のコンクリートの建物の中に冷房の止まって窓や扉の開け放たれて夏の間には隠されていた長い廊下の出現していた。その端に立ち反対側のずっと先の薄暗い突き当りまでを眺めながらその既視感に驚いてしまう。何度も何度も本当に何度もこんな風景を目にしてきた。長い廊下の端に立って反対側の暗くなった突き当りをじっと見つめている。その向こうに存在する世界は想像もつかないままに。あれから随分とこちら側の時間は流れてしまった。だけどまだ廊下の突き当りの向こうの世界は分からない。廊下の奥に突き当りは見えているのにいくら歩いてもそこには辿り着かない。今もまだ廊下の端に立って仄かに暗い突き当りに目を凝らしている。  だけどその先に待っているものは恐らく生来の性質のままに脆弱だけど無邪気に笑い転げている自分なのだ。せっかく頑張って百キロを上げて持って生まれた膂力を凌駕しか細く弱弱しい肉体の改造に成功したとしても。しかし若しもだからといって現世での改造に労力を費やさなかったとしたならば果たしてそれでも同じことなのだろうか。
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