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桜木の家は母子家庭だ。母親は幾つかのマッサージサロンや化粧品会社を経営しているやり手たが、仕事が忙しいせいで桜木の事は放置したまま中々家には帰って来ない。そのせいかこいつは幼い頃から母親の邪魔にならぬよう、一人でなんでもこなす。人に甘えるより甘えさせてやる方が板についてしまっているのだ。
俺も大概、こいつに甘えているから、周りの人間を責めるようなことは言えないが、たまには桜木も誰かに甘えたらいいのにと思うことが暫しある。
「──うーん……。甘えるといってもなあ。俺はどちらかといえば人を甘やかしたい方なんだよなあ……それってそんなに負担になる事なのか?」
「人によると思うけどな。あと、女同士の場合は周りの嫉妬もある。お前、女子に人気あるからな。密かに妬んでる子もいるんだよ。女の嫉妬は中々怖いもんがあるぜ。
他にもお前は誰にでも優し過ぎて、弱っている奴を優先して面倒をみるだろ?
あれをやられると彼女からしたら自分に対する特別感が感じられなくなって猜疑心の塊になっちまうんだ。相手からするとそれは結構辛いぜ」
俺がそう言うと、桜木にとっては思わぬ事だったのか、驚いた顔をしている。
「だから、今日のあの子と本気で長く付き合いたいと思うのなら、もう俺の所になんか二度と来ないで彼女との時間を増やした方がいいぞ」
俺は半ば投げ遣りに言った。二度と桜木が家に来なくなったら、正直、耐えられる気がしない。だが、これからまた彼女とののろけ話を聞かされるくらいなら、顔も合わせない方が俺の精神は平和だ。そして、二度と桜木がこの家に足を踏み入れなければ、今度こそ俺も諦めが付くかもしれない。
そんな事を考えながら、俺は目の前の刺繍に神経を集中させた。だが、桜木が来なくなると思うと急に視界が滲んできて、自分が何処に針を刺しているのか分からなくなった。
「──つっ!」
人差し指に鋭い痛みが走り、俺は深いため息を付いた。
俺としたことが、自分で自分の指に針を刺すなんて……、こんなことで動揺している自分が情けない。
「秋ちゃん、どうした?──手、大丈夫?
ちょっと見せて」
桜木が立ち上がり、俺の手を引いた。
「大丈夫だ。大したことない。こんなの刺繍やってたら日常茶飯だ」
「でも、一応……」
そう言って桜木は俺の手を更に引こうとしたが、不意に目が合うと突然動きを止めた。
俺がどうしたのかと、首を傾げると、桜木は俺の目線にまで身を屈めた。
「秋ちゃん。──目、どうした?
赤くなって腫れてるし、涙目だよ。また睡眠不足?
あんまり根を詰めて趣味に没頭しちゃ駄目だよ」
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