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2 厨房と楽園
「いけませんよ、お嬢様。そのうち貰い手がなくなります」
「いいのよ。私は女伯爵になって、あなたと一生ここで暮らすんだから」
厨房に入浸って、明日の仕込みをしているラウロと過ごす。
幼い頃から続くこの習慣を咎める者は、もういない。
「俺はここにいさせてもらいますから、形だけでも」
「婿を取れって言うの? 嫌よ」
「男色家だったら、お嬢様と利害も一致するでしょう?」
「ラウロ。結婚したら最後、世継ぎを求められるのよ。全世界から」
「うぅーん」
包丁を置いて、台に肘を付き振り返る。
「だけど、もったいないだろ。せっかく美人なのに」
口調が砕けた。
いつもの事であっても嬉しい。
「あなたのための顔よ」
「たまには親のためにも笑え」
「お父様の話なんかしないで。ほら、見てぇ~。愛でてぇ~」
「ミルク風呂に都合してる俺のおかげだな」
「これからもお願いね。もうお肌の曲がり角は曲がっちゃったんだから」
「そろそろ薬草もいるか……」
「面と向かって言わないで」
「夜更かしもよくないんだぞ。偉大なる美貌のためにもうお休みください、お嬢様」
「えぇ~?」
ふたつ年上のラウロには、気楽に甘えられる。
心は恋に落ちた乙女のままだ。
せっせと働くラウロの背中を見ながらつまみ食いするくらいには逞しくなった乙女心だけれど。
「つまみ食いはデブの元」
「いい声で言わないで」
「リンゴは肉を柔らかくするために置いたんだよ。食うな。味が変わる」
「おいひぃ」
塩とハーブが刷り込まれた巨大な肉が、果物に囲まれている。
朝まで漬けて蒸焼にするのだけれど、これの薄切りがスープやサンドイッチに入っていると美味しいのだ。
「パイは?」
「ん?」
「パイ。最近、リンゴのパイ食べてないわ」
「じゃあ、明日焼こうか」
「ありがとう! 楽しみ」
「明日のパイのためにもう寝ろ」
「そうね。あなたも早く休んで」
「ああ」
「おやすみなさい、ラウロ」
キスはしない。
幼馴染の線を越えたら、我慢するのが辛くなる。
「ナディア」
戸口を出掛けた私に、ラウロが声をかけた。
「結婚式、おめでとう」
「……ええ。ありがとう」
本当はラウロと結婚したい。
でもそれが許されないのなら、せめて、誰かの幸せを見届けたい。
だからこれは、半分は、私のわがままなのだ。
厨房を出て私室に向かう。
私がラウロと親しくしていてもなにも言われないけれど、ラウロが親しく接してくれるのは厨房でふたりきりになれたときだけ。
見習いを置かず下拵えから自分でやっているのは、ラウロも私との時間を確保しようとしてくれているのだと、そう思う事にしている。使用人がお嬢様に逆らえないからじゃない。
「……」
大人になって覚えた不安を忘れられるのは、彼と過ごす厨房だけ。
いっそジャガイモになりたい。
そうすれば、厨房という楽園で四六時中ラウロと一緒。
「ダメよ、ナディア。顔の皮が剥かれたら痛いでしょう」
パン生地になって揉みしだかれるのもアリね。
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