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おわり
相変わらず自分には場違いだなと、片瀬は高い天井を見上げて思う。
以前このホテルを訪れたのは秋で、ロビーはオリエンタル色の強い内装だった。しかし春先の今日はほんわりと淡い桃色の装飾や、大きなガラス壁の向こうへ望む、中庭に植えられた一本の立派な桜の花が、日本の優美さを演出している。広々としたバンケットホールは本来、自分には無縁だ。
「アズくん? 疲れたかな」
常に隣にいてくれる恋人が、束の間ぼんやりとする片瀬の顔を覗きこむ。
かっちりしすぎず、ラフすぎずセットされた栗色の髪、紅茶色の瞳。穏やかに微笑む整った醤油顔。春らしい桃色が差し色になったネクタイは華やかなクロスノット、逞しい身体を隙なく包み込むスーツはグレーチェックのスリーピース。どこから見ても素晴らしい男ぶりに、片瀬は一瞬、心底見惚れていた。
「ふふ、嬉しいねえ、そんな目で見られると」
「えっ、あ、……っすみません、かっこよくて」
「それは謝ることじゃないよ、ありがとう。君も素敵だ……みんなもそう言ってる」
片瀬はハッとする。そうだ。ぼんやりと高い天井やきらびやかなシャンデリアを見上げている場合ではない。
今日はこのバンケットホールに、恋人と近しい親族の面々が集まっている。近しい、と限定はしても、さすが大企業の御曹司。ゆうに五十人はいる。そしてなぜ一堂に会しているのかというと――片瀬のお披露目のためだった。
片瀬は櫻木周辺の親族に、ともに暮らす恋人だと認識されている。それもこれも咄嗟に偽の恋人のフリをした夜、同席していた伯父夫婦が情報をまわしてくれたからだ。
実際は狂言だったし、そういったフリを必要とする場には一切連れて行かれていない。だがその間、櫻木や花田は折に触れて、片瀬を人前に出すのは正式にパートナーとしてお披露目してからだと説明していたのだという。
偽恋人なのになんの役にも立てていないな、と罪悪感を抱いていたから、片瀬は驚いたものだ。自分の与り知らぬところですっかり、櫻木が溺愛して親族にも見せない恋人として扱われていたというのだから。
「あらあら、仲がいいわねえ」
櫻木についての挨拶も粗方すんだところに、見覚えのある夫婦が近づいてくる。彼らがこのホテルのロビーで顔を合わせた伯父夫婦だと思い出した片瀬は、丁寧に会釈した。
「ご無沙汰しております、片瀬です。その節はきちんとご挨拶もせず申し訳ありません」
「ああ、いいんだよ、久しぶりだね。あの日以来だ、元気にしていたかな」
「はい、おかげさまで」
「ふふっ。主人ったら、大成さんと梓真くんの仲睦まじい姿の見たあの日からしばらく、サクラを雇ったのかもしれない、なんて言っていたのよ。おかしいわよねえ」
奥方がころころと楽しげに笑う。梓真はにこやかなまま内心悲鳴を上げたが、隣の櫻木は平然と相手を買って出た。
「そう思われても無理はない状況でした。ですが、伯母さまがあちこちで梓真のことを話してくださったそうで……縁談が入ってこなくなったおかげで、彼をこうしてご紹介できることとなりました」
「当然のことよ。想い合う恋人たちを、いくら親族といっても引き裂いていいわけがないもの」
力強くうなずく奥方の隣で、伯父は苦く笑っていた。
「それより梓真くん。大成くんのご両親とは問題ない……? 今日は先に退場されたようだけど、悩みがあればわたしに言ってちょうだいね。勝手な気持ちだけれど、あなたのことは息子みたいに思っているのよ、あの夜から」
「光栄です。ですがご両親とも、とてもよくしてくださいます。ご親族の方々は奥様同様、みなさんお優しくて……」
「仕方ないわね、櫻木の家系の男はみんながつがつしていて、あなたのように癒される感じじゃないんだもの。つい可愛がりたくなるの」
「伯母さま、梓真を一番に可愛がっていいのは僕ですよ」
「あらごめんなさい」
ふふ、と手で口許を押さえた奥方が櫻木と片瀬を交互に見る。出会った夜にも思ったが、少女のような人だ。
夫婦はしばらく他愛ないことを話し、また、と去っていく。今日は片瀬のお披露目パーティーだが、会社関係者の親族が集まるとあって、あちこちで仕事の話も盛り上がっているのだ。みんな精力的に動き回っている。
一段落ついたところで小さく息をつくと、櫻木の腕が腰へ添えられた。見上げると愛しげに細くなった瞳が、一身に片瀬だけを見つめている。
「妬けてしまうなあ。君はどこに出しても可愛がられるから」
「そんな……平凡だから、ものめずらしいのかもしれません」
「違うよ。さっき伯母も言っていたけれど、君には癒されるんだ。決してトロいわけじゃないのに、ゆったりしていて、空気がいい。両親にもいつも、次はいつ家に連れて来るんだ、とせっつかれて困っているんだよ」
「あ、俺はいつでも」
「駄目。もっと僕だけのアズくんでいてくれないと」
真剣に駄々を捏ねる櫻木に、つい笑ってしまう。こうして手放しで片瀬を褒め、緊張を紛らわせてくれるから、今日の場でもそれほど焦らずいられるのだ。
自分のような一般市民が、櫻木のような大企業の取締役のパートナーとして紹介されることに、躊躇いがなかったわけじゃない。
想いを通わせて本当の恋人同士にはなったが、どうしても二人の収入は雲泥の差だ。家事炊事を担当するという名目で渡されていた給料は丁重に辞退したが、そうすると家賃などその他諸々の生活費は受け取ってくれなくなった。それで実は一度揉めたのだが、花田に間に入ってもらい、こんこんと話し合いを重ねた。
結果、現状は金銭を櫻木に受け取ってもらうのは諦めている。花田もそれで問題ないと大きくうなずいていた。確かに、片瀬の収入など櫻木にとっては些末なものだ。だから片瀬は何か入用になったときのため、しっかり貯蓄している。いつか貯めた金で、はじめての旅行などに行ってみたい。もちろん櫻木をもてなすのだ。
今後も立場の違いに悩んだり、衝突することはあるだろう。だがそのたびに頭を突き合わせ、話し合いで解決しよう、と櫻木は約束してくれた。そんな恋人を見て、片瀬はこの場に勇気を出して臨んだのだ。
苦楽をともにしたい。その覚悟をもって隣にいるのだと、彼を育んだ方々の前で胸を張るために。
「『僕だけの……』なんて、おかしいです。俺はもうとっくに櫻木さんのなのに」
「櫻木さん?」
くい、と器用に片方の眉と語尾が上がる。
いずれは名実ともに家族になるのだからと、名前で呼ぶ練習の真っ最中だ。
「……大成さん」
「可愛いねえ、慣れていないのがまた」
「すぐ慣れます……たぶん」
「平気で僕の名前を呼ぶようになる君も可愛いね」
「結局大成くんは、梓真くんが何をしてても可愛くて仕方ないんでしょ」
さっぱりと涼やかな声が割り込み、ぱっと振り返る。そこには重役方に捕まっていた夢野と、彼女に付き従う秘書モードの花田がいた。
片瀬の腰をぐいっとさらに抱き寄せ、櫻木はふふんと満足そうだ。
「もちろんさ。僕のアズくんはどこからどう見ても可愛い」
「ご馳走様。梓真くん、今日はお疲れ様。嫌気がさしてない?」
「いえ、大丈夫です。みなさんお優しくて、とてもありがたく思っています」
「そっちではありませんよ。夢野が言いたいのは、あなたにくっついている中年男に嫌気がさしていないかどうか、という意味です」
「そ、それこそありえません……!」
反射的に否定すると、頭上で嬉しそうな声がして頭に何かが何度も押しつけられる。たぶん、唇だ。目の前にいる夢野が呆れた様子で片瀬の頭辺りを見ているから。
「でしたらよいのですが。ここ最近、あなたが何も貢がせてくれないのだと、頻繁に嘆いているものですから」
「え……そ、そうなんですか……」
「そうだよ。何も欲しいものを言わないし、どこかに連れて行こうにも僕を休ませようとするし」
「今お忙しい時期なんですから、当然です」
できる限り定時に帰宅する櫻木だが、会食などどうしても外せない用の他に、海外の取引先との会議等で遅くなることも増えている。そんな多忙さをそばで見ているのに、休日だからといって疲れた恋人を連れ回す気にはなれない。
眉を寄せて言い渡すも、反論してきたのは意外や意外、花田だった。
「梓真さん、誤解です」
「え……?」
櫻木は何やらうんうんとうなずき、花田の言葉を遮る気もなさそうだ。
「心底、どうしても、絶対に何があっても嫌、というわけでないのでしたら、社長の誘いに乗って差し上げてください」
「……そんな、でも……」
「あなたに何かを贈るのも、あなたを連れて外出するのも、櫻木の趣味なのです。癒しなのです。ご存じですか? あなたと過ごすようになってから、社の業績がぐっと上がりました」
「い、いえ、そんな……俺は関係ないです」
「いいや、あるよ。家で君が待っていると思うとやる気が出るし、君に贈りたいものや食べさせてあげたいもの、連れて行きたい場所があるからこそ、今まで以上に業績を上げようと思えるんだ。最終的に僕の財産を貢ぎたい」
何言ってるんだろう、と思う片瀬だったが、夢野と花田も同じような目で櫻木を見ていた。
「えー、こほん。というわけです。大勢の社員を路頭に迷わせないよう、櫻木はこれまでもその手腕を発揮してきましたが、あなたと出会ってからこちらは調子の良さが顕著なのです。ですからこのいい調子を継続できるよう、甘やかされてやっていただけるとありがたいです」
「なんだか変な話よね……梓真くんも大変な人を好きになっちゃって」
ポカンとしていた片瀬は、夢野の溜め息交じりの同情には首を横に振った。これだけは誤解されたくないし、何度だって伝えていきたい。
「いえ。俺は……今、地球上で一番幸せです」
「婚約間近なわたしたちよりも?」
「すみません。俺のほうが幸せで」
耐えかねたように、夢野の斜め後ろで花田が口を手で押さえつつも噴き出した。つられるように夢野も笑い出す。
いやに無言だった櫻木は、小さく溜め息をついた。
「もう我慢ならない。僕はよく耐えた。そうだろう? 花田」
「ふふ……っ、ええ、そうですね。あなたにしては、頑張ったほうかと」
「そうだろうとも。……では、みなさん」
よく通る低い美声が、心なしか張り上げられた。談笑していた親族たちが、何ごとかとこちらを注視している。
片瀬は突然の視線にぎょっとしたが、櫻木は朗らかに宣言した。
「あとは各々お好きにどうぞ。わたしたちはこれで失礼します」
「っ!?」
「さあ行こう、アズくん」
一応櫻木は今日の主催者であり主役なのでは、と焦る片瀬を他所に、男は有無を言わせぬ様子で片瀬を伴って歩き出す。向かう先はどう見ても、ホールの入り口だった。
夢野がひらひらと手を振るのを視界の端に捉えたが、頭を下げる途中で、くぐった扉が閉まってしまった。
「いいんですか、こんなふうに出てきて……」
「いいんだよ。それよりアズくん」
廊下にはホテルのスタッフも歩いているというのに、櫻木は気にした様子もなく片瀬のこめかみにキスを落とす。愛情表現が豊かで、一途で、やっぱりどこから見ても素敵な人だ。
「申し訳ないんだけれど、このまま……上にとっている部屋へ連れて行っても?」
聞き覚えのある言い回しだ、と一瞬考えた片瀬は、それがはじめて会った夜のことだと気付く。改めて考えても、稀有な縁だ。本来なら言葉を交わすこともなかっただろう人と、この先ずっと、そばで生きていくだなんて。
「連れてってください。どこにだってついていきますから」
何もいらない。
この人さえあれば、片瀬は一番幸せでいられるのだから。
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