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ふたつめ
片瀬の新たなバイト先は、駅から徒歩十分と利便性の高い立地に建設された、地上五十五階建てのタワーマンションだ。駅からマンションまでの道は綺麗に整備され、緑あふれる街並みが美しい。公園からは子どもの笑い声が聞こえ、道行く住民たちは整った住環境がそうさせるのか穏やかで、見ず知らずの片瀬にまで何気なく挨拶をしてくれる人が多かった。
マンションとは? これはホテルでは?
そう言いたくなる気持ちをのみこんでエントランスへ足を踏み入れると、屈強で真面目そうなドアマンがいて、ポストルームが見渡せる位置には管理人室がある。櫻木が片瀬を面通ししてくれたおかげで、一人で訪れても不審者扱いされることはない。
住人用カードキーでロックを外してエレベーターに乗り込み、五十二階へ。
下の階ほどワンフロアに造られた戸数が多いそうで、櫻木宅がある階はなんと二戸だった。というのも、本来なら五戸のうち二戸を買い取り、壁をぶち抜いて一戸にしてしまったそうだ。同フロアの隣人も同じく三戸を一戸にして七人家族で住んでいるというのだから、富裕層は片瀬にとってまるで異界のようだと思う。
(この広さだと、そりゃあ高齢の家政婦さん一人じゃ大変だろうしな……)
広々としたアイランド型キッチンで料理をしながら、片瀬はぼんやりと部屋を見回す。
寝室や書斎、ゲストルームにシアタールーム、ちょっとしたジムルームなど、櫻木宅の部屋数は一人暮らしにはかなり多い。材料の下茹でをしている間に各部屋へ掃除機をかけたが、若い片瀬でも疲れを感じる重労働だ。相場以上の金銭が発生するのだから、もっと大変でもいいくらいだけれど。
くつくつと湯気といい匂いを立ちのぼらせる鍋を覗いていると、シンクに置いてある携帯電話のランプが点滅していた。確認すると、いつもの迷惑電話が非通知でかかってきていたらしい。
片瀬の携帯は古い型のガラケーだ。高校時代から長く使っているせいか、非通知電話や迷惑メールが多い。番号を変える出費の痛さと、変えて解消されるであろう煩わしさを天秤にかけると、瞬時に出費に傾いた。非通知を拒否できる設定の恩恵に今後も与っていきたい。
そうこうしていると、インターホンのチャイムが鳴った。
(櫻木さんだ……!)
彼はもちろん自宅の鍵を持っているが、エントランスで一度チャイムを鳴らす。片瀬が玄関で出迎えるのが嬉しいそうだ。
お金持ちで、気さくで、大らかで変わっている、大きな会社の社長さん。
ふわふわニコニコしている姿は穏やかで人畜無害だから、多くの社員を抱える立場なイメージがうまくできないのが正直なところだ。
玄関で待ち構えているとやがて扉が開く。雇い主兼恋人(仮)が、何かいいことでもあったのか、今にも鼻歌を歌い出しそうな上機嫌っぷりで帰宅した。
「おかえりなさい、櫻木さん」
「ただいま片瀬くん。ああ、いいねえ、いい匂いだ」
すん、と漂う夕飯の匂いを嗅ぐ彼から、バッグを受け取る。
「もうすぐ夕飯の支度ができますから、着替えていらしてください」
「わかった。片瀬くんと夕飯を食べるのが、最近の僕の楽しみなんだ。君が来る日は機嫌がよくて仕事が捗ると、うちの秘書が喜んでいるくらいだよ」
「お役に立てているならよかったです」
柔らかな笑みをこぼして自室へ向かう櫻木を見送り、片瀬は急いでキッチンへ戻ると料理を仕上げにかかった。
週に三日、月水金。アルバイトを辞め、櫻木宅でハウスキーパーとして働いている。仕事内容は買い物と、掃除、食事の支度が主だ。給仕につくつもりでいたが、櫻木は片瀬もともに夕飯をとることを契約内容に盛りこんだ。
可能な限り食費を切り詰めている片瀬にとって、週に三度も夕飯を食べさせてもらえるのはありがたく、しかも渡された食費は夢かと思うほどに多い。買うものも作るものも庶民料理の域を出ないが、今のところどれも好評でよかったと思う。
(肌艶がいいとか元気だとか、会社の人に言われるようになったし……櫻木さんのおかげだよ、ほんと)
若いし問題ないと思っていたが、朝昼のみの食事では不足だったのかもしれない。最近は慢性的な気怠さもなくなっている。櫻木に「もっと食べなさい」「これもどうぞ」と、次から次へ食べきれないほど食事やデザートを与えられるようになって、片瀬はそんなふうに思うようになっていた。
動くことを厭わないどころか、何かと手伝いたがる櫻木とともに配膳をすませる。男は楽しげにテーブルへつくと、並ぶ料理をうっとりと視線で味わった。
「おいしそうだ。今日は和食なんだね」
「お昼は取引先の方と中華だとおっしゃっていたので。脂っこいものは避けようかと」
「覚えていてくれたのか。ありがとうね、片瀬くん」
ほっこりと相好を崩す男の笑顔には、親しみやすさと可愛げがたっぷり含まれている。一回り以上年上で地位のある男性の微笑みに、片瀬は今日も癒されていた。
「……そんなに見つめられると、嬉しくなっちゃうな」
「え? あ、いえ、あの、すみません。櫻木さんはいつ見ても素敵だなと……憧れます」
「本当に? いいね、嬉しいね。今日は君に素敵だと言ってもらえた記念日にしよう」
冗談も上手だ。彼と食べると、不思議と料理が腕以上においしくなる。
酢橘と大根おろしを添えた焼きサンマは香ばしく、高野豆腐の含め煮はふっくらおいしそうに炊けている。キノコはあっさり目のマリネにし、根菜を豚肉で巻いた焼き物には胡椒をきかせたガーリックソースをかけた。汁物はけんちん汁だ。
櫻木は特に好き嫌いもないようで、何を出してもニコニコ、おいしいおいしいと食べてくれる。必要に駆られて覚えた片瀬の料理を食べるのは母だけだったから、こうして反応をもらい、嬉しくてもっと喜ばせたい気持ちになるのは懐かしい感覚だった。
「おかわりをいいかな」
「もちろんです。お預かりしますね」
空になった茶碗を受け取り、キッチンへ向かう。白米をよそってテーブルへ戻ると、櫻木は不思議そうに部屋の隅に置いてあるボストンバッグを見ていた。
「どうぞ」
「ありがとう。片瀬くん、あれは君の荷物?」
「はい」
「今日はまだ水曜日だけれど、どこかに出かけるのかな」
櫻木がそう思うのも無理はない。
ボストンバッグには着替えやアメニティ、明日の仕事の支度なども入っていてパンパンなのだ。一見するとこれから旅行にでも行きそうに思えるだろう。
片瀬はなんと答えるべきか悩んだが、変にごまかすと不審がられるのはわかっている。微笑み、「会社で着る作業服をクリーニングから引き取ってきたんです」と言った。
櫻木は頬張った魚と白米をしっかり咀嚼し、やがて飲みこむ。そうして箸を置き、「片瀬くん」と静かな声で呼んだ。
「何かあった?」
「いえ、何もないですよ」
間髪入れず返したのだが、櫻木の探る眼差しはより強く、一直線に片瀬を見つめている。
明らかに信じていない男を前に、片瀬は「本当に、大したことは何も」と付け足す。
すると櫻木は安心したように、にっこりと目尻を細くした。
「そう、大したことがないならよかった」
「ええ」
「じゃあ話せるね。大したことがないんだから。さあ、どうぞ?」
「――」
唖然とし、敗北を悟る。のほほんとした櫻木を前に油断していたのかもしれない。流れるように揚げ足を取られてしまった今、彼の誘導を振りきって会話で優位を取る術はなかった。
なぜかわからないが、見透かされている。片瀬は情けなさに小さくなりながら、自分も箸を置いた。
「……今日……着替えに帰ったとき、ベッドに、ラッピングされたネクタイがありまして」
「……なんだって?」
「留守中に誰かが入ってて……」
「――なんてことだ」
ショックを受けたように櫻木は額へ手を当て、大きく息を吐いた。広く逞しい肩がかすかに震えている。
一度断ったとはいえ、櫻木の好意に甘えて結局恋人のフリを承諾したのは片瀬自身だ。やはり面倒な人物だった、と呆れさせてしまったのが申し訳なく、心苦しかった。
「すみません。櫻木さんにご迷惑をおかけするようなことは絶対しません。何かあればもちろん、すぐに近づかないようにしますから……」
「ああ、そうじゃない。違うよ。すまないね。あまりに驚いて、犯人をどうしてやろうかと考えていただけなんだ」
「どう……? あ、でもはじめてじゃないので大丈夫です」
「……大丈夫には、思えないんだけどな」
あまりに低い声だ。微笑みが消えた彼の表情はなんだか少し怖くて、片瀬は咄嗟にテーブルへ視線を落とした。
どう言えば雇い主に不安を与えずすむだろうかと、言葉を探す。
「いつもプレゼントらしきものを置いていくだけなので、特に害はないんです。鍵もすぐ変えてもらいますし……今日は不動産屋さんがお休みなので、とりあえず外泊するつもりで荷物を持っているだけなんです」
通帳などの貴重品もちゃんとバッグに詰めているし、もし今夜、謎の人物が自宅へ入ってきても大丈夫だ。何を思って片瀬の家に入るのかは知らないが、古いアパートに高度なセキュリティを求めても仕方がない。
入られたら、鍵を変える。今までもそうしてきたし、出費はつらいが今後もそうするつもりだ。あんなに通勤しやすく安い風呂トイレ別物件は他にない。
「できれば……まだクビにしないでいただけると、とてもありがたいのですが……」
不自然な無言の時間が、十数秒ほど流れただろうか。
反応のなさを怪訝に思った片瀬が視線を上げると、男は愕然としていた。優しげな眼をこれでもかと見開いているから、まるで未確認生物にでもなった気分になる。
「……櫻木さん?」
「……ああ、うん。……はあ」
櫻木は肩が上がるまで大きく息を吸い、天井を仰いで吐ききる。体内にある淀んだものを根こそぎ追い出すような深い溜め息だった。
「あのね、片瀬くん」
真面目な顔で片瀬を見据えた。
「鍵を変えるだけではいけない。警察に相談はした? 大家はセキュリティについてなんて言ってるの?」
「警察なんて……そんな大袈裟なことではないですし、大家さんに評判が落ちるのは困ると言われているので、考えてません。女性の入居者もいませんし、こういうのは俺の部屋だけなので」
「……ちなみに、今夜はどこに泊まる予定かな? 友人のところ?」
「はい、そうしようかと」
「友人が駄目なら?」
「漫画喫茶かカプセルホテルへ」
罪悪感はあったが、すらすらと嘘を吐いた。
片瀬にこういうとき気軽に頼れる友人はいない。加えて、一晩過ごすためだけに無駄なお金を払える余裕もなかった。
夜が明ければ会社へ行けばいいのだし、それまではどこででも過ごせる。幸いにも今夜は雨は降らない。
嘘をついたのは櫻木に心配をかけないためだ。彼は優しいし、とてもいい人だから。
自宅への不法侵入についても話す気はなかったのだが、言ってしまった以上、片瀬には櫻木を安心させる使命があった。
意識して口許を笑みの形にしてみる。こうすれば下がり眉の片瀬の表情は、ふわっと和やかな微笑みになるはずだ。
「ですから大――」
「いいや大丈夫じゃない」
は、と息が途切れた。躊躇いなく薪割りをする木こりのように、ど真ん中を綺麗に一刀両断された気分だ。あまりに男が胸を張るものだから、片瀬はポカンと薄い唇を開いたままになる。
対する櫻木は、はじめて見る不満顔をこれでもかと晒していた。
「不審者が自宅へ侵入して警察に相談しないなんてありえないし、大家の対応もひどすぎる。君が男だから問題ない? 時代錯誤にもほどがあるね。管理者としてなっていない。いくら鍵を変えたって、僕は君をそんな部屋に帰らせたくないよ。明日一緒に警察へ行こう」
そうだ、それがいい、と一人うなずく男を前に、片瀬はテンパった。問題を起こす人物として認識され、追い出されると非常に困る。
「そ、それは無理です! 心配してくださるのはありがたいのですが、本当に平気でっ」
「僕が平気じゃない。どうしても警察沙汰にしたくないのかな?」
「は、はい、そうです、どうしてもです!」
「そう……なら引っ越そう。もっとセキュリティーのしっかりしたマンションへ」
ぶんぶんと首を横に振る。そんなまとまった貯金はないし、あれば返済にまわす。「大丈夫ですから」と小さな声で懇願するように反論すると、櫻木は眉間に深いしわを寄せた。
朗らかな紳士の表情が、気難しく冷淡なものへと変わる。ピリピリと肌が灼けるような気がした。今の櫻木なら、『大きな会社の社長さん』にピッタリだと思う。それくらい、逆らいがたいオーラがにじみ出ていた。
顔を強張らせる片瀬を見据え、櫻木はゆっくりと小首を傾げる。
「警察にも相談したくない、引っ越しもできないと?」
「で、できません」
「そう……だったら君に言えることはひとつだ」
ごくりと喉が鳴った。男の表情は真剣そのもので、のほほんとしていた空気は微塵もない。
櫻木はこのあと、きっと片瀬にクビを言い渡すだろう。そうなって当然だと腹をくくるも、強いさみしさが込み上げてくる。金銭的な意味以上に、短かったけれど櫻木と過ごす時間が楽しかったのだと、こんな場面で実感していた。
「片瀬くん」
がちがちに緊張する片瀬は――告げられた提案に、素っ頓狂な声を上げた。
「今夜からここに住み込みなさい」
「――はい?」
満足そうな雇い主兼偽恋人の満面の笑みに、プチパニックを起こす片瀬だった。
チャイムが鳴り、洗い物を中断して玄関へ向かう。白を基調とした大理石がまぶしい三和土の前でちょんと待っていると、やがて玄関扉が開いて家主が帰宅した。
「ただいま、アズくん」
「お帰りなさい」
甘く響くバリトンが自分を愛称で呼ぶことには数日で慣れた。それよりも――帰宅してまず包み込むように抱きしめられる衝撃のほうが、強かったせいかもしれない。
今夜も大きく腕を広げた櫻木は喜色を浮かべ、エプロン姿の片瀬をぎゅう……っと抱きしめる。深みのあるウッディ系の香りを嗅ぐと、櫻木が帰ってきたことを身体が感じ取り、細胞がざわめき立つような感覚があった。
一週間前、はじめて帰宅ハグをされた夜はかなり動揺したが、母が生きていた頃は仕事から帰ると毎回こうされていたので、懐かしさが勝った。
成人男性同士の帰宅ハグはどうなのだろう、とも思うが、櫻木がおっとり甘え上手なおかげか、不快さは一切感じたことがない。
「はあ……疲れたよ。君が待っている家に早く帰りたくて仕方がなかった」
「早く帰って来てくださっても、俺も会社かもしれません……」
「ははは、そうだったね。そのときは僕が君を出迎えて、こうして労うと誓うよ」
「はい、ぜひ」
昨日までと同じように、櫻木の広い背中へおずおずと腕を回す。右手で彼の後頭部をそっと撫でてみると、首の辺りに顔を埋めている櫻木が片瀬ごとふわふわ身体を揺らした。嬉しさが身体の中だけに収まらない子どもみたいな仕草が、可愛いと思う。
「いいねえ。ハグは幸せホルモンが出ると言うけれど、確かにそうだ。毎日君にこうしてハグしてもらえて、僕の幸せホルモンは出っぱなしになっているよ」
「いっぱい出たらなくなってしまいませんか?」
「君のおかげで無尽蔵さ。アズくんが住み込んでくれて、本当によかった」
――そう、片瀬は櫻木宅に今、住み込みのハウスキーパーとして雇われている。
最初はもちろんその提案を断った。そこまで大ごとにせずとも、これまでと同じようにアパートへ帰って平気だと思っていたのもある。話し合いの末、一先ずその日はゲストルームを貸してもらった。
翌日、不動産屋立ち合いの元、親しくしてくれている店長のツテで安く鍵交換をしてくれる業者に作業を依頼した。
問題が起きたのはその翌日、金曜日だ。
櫻木宅へ向かう前、自宅に着替えに帰ると、セクシーな男性向け下着が置かれていた。ご丁寧にベッドの上、整えたはずのシーツがくしゃくしゃになったど真ん中へ……白い液体をこびりつかせたまま。
これまで新品のハンカチやネクタイだった贈り物が、急に性を意識させる悪意あるものへ変化したのは、予想以上にショックだった。それも今までは数ヵ月に一回だったのに、僅か二日後に。
交換した鍵が無駄だったとか、紐のようなパンツはどうやって履くのだろうとか、今思えば混乱していたのか、取り留めのない思考に捕らわれていた。片瀬を引き戻したのは櫻木からの電話だ。
早く帰れそうだと電話をくれた彼には、電話越しでも隠しごとはできなかった。不自然な様子を看過され、事情を聞き出され、有無を言わさず当面の荷物とともにこの家へ連れて来られた。あんなに遠慮していたのに、恐怖と気持ち悪さに竦んでいた片瀬は取り繕うことなく櫻木の手を取った……のが、これまでの経緯だ。
櫻木の助言もあり、不動産屋や大家との話は彼に任せることにしている。自分の手には負えないことに遅まきながら気が付いたためだ。いずれ警察にも行くのかもしれないが、そのときも従うつもりでいる。
櫻木の家では引き続きゲストルームを借り、貴重品類は櫻木の金庫に一緒に住まわせてもらうことになった。高級タワーマンションはセキュリティもかなり厳しい。なんの不安もなく日々を過ごせる贅沢に、片瀬は心底感謝している。
(それに見合うだけの働きは、できていない気がするけどな……)
「ああ、癒される……」
片瀬の申し訳なさを後目に、櫻木はすんすんと匂いを嗅いでくる。まるで大きなぬいぐるみにでもなった気分だが、彼が癒されてくれるのならば、ぬいぐるみ扱いでもよかった。
「櫻木さん、そろそろお部屋へ行きましょう。もうご飯できてますよ」
「そうだね、アズくんのご飯! 今日は何かな?」
「つみれ鍋が食べたいとおっしゃっていたので、用意してみました」
「夜は冷えるから嬉しいよ」
流れるように頬へ触れた唇がくすぐったい。愛情表現豊かな人だな、と笑いながら、櫻木が廊下に置いた荷物類を手にダイニングへ促した。
二人で鍋も〆の雑炊も完食し、風呂に入ったあとはマッサージの時間だ。マッサージは櫻木に何か恩返しをしたいと考えた片瀬の発案だった。
大人が五、六人は軽く座れる大きなL字ソファで、うつ伏せになった櫻木の尻付近を跨ぎ、体重をかけすぎないよう腰を指圧する。日によって肩だったり脚だったりと揉む箇所を変えているのだが、今日は長時間の会議で座り仕事が多かったと言っていたためこのようになった。
「君は何をさせても上手だね……う、……ん」
心地よさそうな溜め息にほっとする。
親指の第一関節を軸にぐっぐっと圧をかけ、ごりごりと凝った感触を見つけては丁寧に解していった。
「ツボがどこだとか、そういうのは全然わからないのですが……母がいつも喜んでくれたので、得意になってやるようになったんです。上手って言われるの嬉しいです」
「そう……親孝行ないい息子だ。料理も昔から?」
「そうですね、母が本当に忙しい人だったので。自己流だし、あまり華やかな料理は経験がないのですが……」
「毎日おいしいよ。会食のない日は君が弁当を持たせてくれただろう? あれを見た社員に、うまそうだと羨ましがられた。また作ってほしいなとは思うんだけど……」
「もちろんです、喜んで」
「でも、大変じゃないかい? 今は朝も頼んでいるから、三食も用意させることになってしまうし」
だらんと腕を落として気持ちよさそうにしながらも、櫻木は片瀬を窺うように視線を持ってくる。
少々強引で奔放な部分もあるが、思いやりのある男だ。土日返上で毎日三食用意してももらいすぎな給与を先払いされているのに、まだ片瀬を気遣おうとする。
優しすぎる雇い主に、片瀬の八の字眉がへにゃんと垂れた。
「いいえ、まったく大変じゃないです。櫻木さんは毎回おいしそうに食べてくださるから、本当に嬉しくて……もっと櫻木さん好みの料理ができるように頑張りますね」
「はぁ~かわいい」
「え?」
「いや何も。……そうだ、アズくん」
ぼそっと何かをつぶやいた櫻木が、ダイニングチェアの足元に置いたままだった紙袋を指さす。
取って来て、という意味だと察した片瀬が従うと、身体を起こした男は中の箱を取り出して「お土産だよ」と差し出してきた。
「開けてごらん」
特にどこかへ出かけたとは聞いていないし、帰宅時間も変わらなかったのに、一体どこまで行ったのだろう。
不思議に思いながらも、片瀬は平たい一抱えほどの箱を受け取る。質感のいいネイビーの包装紙を裏から丁寧に剥がすと――箱の一部が透明フィルムになっている部分から、中身が見えた。
「これって……スーツですか!?」
「そう、正解~ほらほら、開けて開けて」
「で、できません……!」
「どうして? 軽く合わせたところを見せてほしいのに」
キラキラと目を輝かせて上機嫌だった櫻木が、今度は子どもみたいに口を尖らせる。
片瀬の勤め先は小さな町工場なため、事務員の片瀬も万年薄手の作業服であるのだが、自主退学するまでは大学生だった身だ。多少はスーツブランドの知識もある。
箱の隅に印字されたブランド名は、クラシコイタリアを代表する一流スーツブランドのものだ。しっとりと艶やかな濃紺の光沢が美しく上品で、ブランドに詳しくなくとも素晴らしい逸品だとわかるような出来栄えになっている。安くとも一着八十万は下らない品だと知っている片瀬は青褪めるしかなかった。
「どうしてって、こ、こんな高級品を、おいそれと箱から出……え!? 合わせる? 俺がですか? とんでもない……!」
「そんなに遠慮するようなものでもないよ、既製品だしね。本当なら僕の行きつけテーラーで仕立ててあげたいのに」
「……!」
「まあ、それは今度ね。今回はとりあえず、それで我慢してくれるかな」
はくはくと口を動かすばかりで何も言えない片瀬だったが、このままでは制止するタイミングを逃しかねない。
思い切って「あのっ」と声を上げかけたとき、変わらぬ笑顔のまま櫻木がさらりと言った。
「まさか僕の用意したスーツは受け取れない、なんて言わないとは思うけど、着てくれたら嬉しいなあ」
優しげな微笑であるのに、なんだろうかこの熱量と圧は。「まさか」と「僕の用意した」の間に、「別の誰かに借りたスーツは着るのに」という一文が紛れ込んでいるように聞こえる。
櫻木とはじめて会った夜、片瀬は借り物のブランドスーツを着ていた。あちらはよくてこちらは駄目……とは、とても言い出せない雰囲気だ。
心の中で右往左往と無意味に走りまわる片瀬は、腕の中にあるスーツは果たして自分の食費何年分だろうか、と考えて顔色を白くした。
「お、お気持ちは、大変ありがたいのですが……俺はこんなにいいものをいただくような働きはしていませんし、第一、着る機会もない俺では、スーツが可哀想ですので……」
「なあんだ、そんなこと。それは君に似合うだろうと僕が見立てたものだから、僕と出かけるときに着てくれればいいんだよ。受け取ってくれるね?」
「ですが」
「どうしても嫌かな? 本当に、心底、何がどうあったって受け取りたくないと言うなら、僕もあきらめるよ……君の嫌がることはしたくないからね……」
軽くうつむく男の目許に、はらりと落ちた前髪がかかる。その様子はいっそ悲壮感さえ漂わせて、打ちひしがれる櫻木に哀愁をまとわせた。
あわあわと慌てる片瀬は、しどろもどろになりながらも必死で首を振る。
「嫌とかじゃないんです、本当に……!」
「そうなのかい? だったら受け取ってくれるね。嬉しいな、ありがとう!」
「え、……え、……」
すでに櫻木は片瀬が受け取ることを前提に話を進めてしまっている。パッと明るい笑顔が目に痛い。片瀬は決してうなずいてはいないのだが。
だが礼まで言われてしまえば、会話の段階をひとつ前のポイントまで戻す方法がわからない。高級スーツの箱を抱いたままぐるぐると自問した片瀬は――悩みに悩み抜いて、ぎこちなくうなずいた。
櫻木の善意を無碍にしたいわけじゃないし、彼が自分のことを考えて選んでくれた贈り物が、嬉しくないはずない。
「あ……ありがたくちょうだいします。ありがとうございます。櫻木さん」
「どういたしまして。あ、そうそう」
櫻木は満面の笑みで喜び、にこにこ笑いながら再度紙袋へ手を突っ込むと、今度は握った何かを差し出してくる。
「ついでにこれもあげよう。わが社のマスコットキャラクターなんだ。キーホルダーになっているから、仕事用のカバンにでもつけるといいよ」
「ありがとうございます……わー、これ手に馴染みますね。顔も愛嬌ありますねえ」
下膨れで縦長のフォルムは握るのにちょうどよく、思わずにぎにぎしてしまう。中に通った芯はしっかりしていて、いかにも握ってくれと言わんばかりだ。
「それ、僕も会社でよくする」
笑った櫻木は、箱を持ったまま所在なさげに立ち尽くす片瀬を隣へ呼んだ。並んで座ると機嫌よさそうに肩を抱いてくる。
「早速だけど、週末の君を僕にもらえないだろうか。明日か明後日か……それを着て出かけよう。予定はどう?」
「特に何もありませんので、大丈夫です」
むしろ週末の自分を切り売りしたいくらい、することがなくて先週末は非常に困った。土日祝日と言えば派遣バイトに出向く以外したことがなく、家の掃除をしたあとは手持ちぶさたになってしまったのだ。行きたい場所もしたいことも思いつかず、延々と様々な箇所を拭いて過ごした。今週末は加湿器の分解掃除をするかと考えていたが、予定ができてほっとする。
「あの、どこへ行くんでしょうか」
こんなに上等なスーツを着て行く場所など、若輩者で貧乏人の片瀬が慣れているはずがない。ある程度の予算も推測しておかなければ、と恐々訊ねると、男は子どもみたいな無邪気さで首を傾げた。
「秘密。見せつけておかないといけないし……君は体調を整えて当日を迎えてくれればそれでOK」
「見せつける……?」
「こっちの話。ちなみに持ち物は携帯だけ許そう。他のものは、もちろん財布も部屋に置いて行きなさい。いいね」
暗にお金のことは気にするな、と言い含められる。こうも彼に甘えていいのかと腹の中に疑問が渦巻くものの、どう足掻いたって片瀬の経済力では賄えないことのほうが多い。
いざとなれば自分にかかったものは割賦払いにしてもらおう、と決めると少し心が軽くなる。軽くなると、浮き足立つ自分がいることに気付いた。
「あの……櫻木さん」
「ん?」
顔を覗きこむように抱いた肩を引き寄せられ、優しい紳士の微笑が面前に広がる。一瞬、片瀬は淹れたての紅茶みたいな色の瞳に見惚れていた。
(かっこいいな……俺、この人と出かけるんだ。休日に、わざわざ)
「休みの日に出かけるの、久しぶりです」
まだ母が生きていた頃から、片瀬の最優先事項は学業と家事で、次点は高校生になってはじめたアルバイトだった。
放課後になんの意味もなく友人らと過ごすのも憧れてはいたが、一時間でも長くバイトをすれば時給分は給与が増える。時間もこずかいも無駄遣いする気にはなれなかった。いじめられていたわけでも、はぶられていたわけでもないが、片瀬梓真という学生はクラスメイトたちにとって、異常に付き合いの悪い男だっただろう。
そのため、休日に誰かと仕事以外の用で出かけるのは小学生ぶりだった。
「そう……なら、楽しい一日にしないといけないね」
「櫻木さんと出かけるなら、駅の周辺を歩くだけでも楽しいと思います。あの、……楽しみです」
「僕も楽しみだ。かつてないほどに、ね」
ふふ、と櫻木が微笑む。高額なスーツの土産に青褪めていた片瀬の頬には、ほんのりとした薄桃色が戻り、いつしか同じような笑みを返していた。
外出は翌々日の日曜日になった。
朝は櫻木のリクエストで純和風の朝食を家で食べ、支度をする。身にまとうはもちろん贈り物のスーツだ。ドレスシャツと、からし色が差し色になったネクタイも櫻木の見立てで着用している。
対する櫻木も、平日に着用しているものよりずっとドレッシーな装いだ。落ち着いたベージュカラーのスリーピーススーツはチェック柄で、首元は華やかな印象のピークド・ラペル。光沢のある臙脂色のシンプルなネクタイは、編み込んだような形のエルドリッジノットだった。
「まるでデートに出かけるみたいですね」
「そのとおり、今日はデートだよ」
当然のように言ってのけた櫻木は、狼狽える片瀬を連れ出した。その後は怒涛の展開だった、と言っていい。
百貨店では広々とした豪奢な一室――サロンというらしい――へ通され、櫻木家の担当外商員だという人物があれこれと商品を見せてくれた。
片瀬にとって買い物とは自分で欲しいものを探して歩くことだったので、座っているだけでなんでも目の前に差し出される状況には戸惑いしかない。しかも櫻木はあらかじめ目ぼしい商品を伝えてあったようで、高級腕時計が目の前に並べられた。
丁寧に辞退申し上げたが、「恋人なんだから遠慮はなしだよ」と全て買い上げようとする櫻木を止めるために一本を選ぶという、不可思議な状況に眩暈がしそうだった。
優雅すぎてわけがわからない買い物を終えると、今度はどうしてか美容院へと連れて行かれる。お洒落なスーツを着るには髪が野暮ったかっただろうかと落ち込んだのも束の間、櫻木の指示で軽くヘアセットされた。
美容院は行きつけの床屋と違っていいお値段がするセレブの行く場所――と思っていたが、まさか髪を切る以外の目的で利用するとは思わず目を剥いた。
その後は色っぽい経験皆無な片瀬にもわかりやすいデートスポット・映画館だ。ようやっと普通の行き先だ、と安心したが、櫻木は揺るぎないブルジョワだった。
片瀬は映画館がはじめてだ。チケット売り場も販売カウンターもものめずらしく、中でも映画のグッズ販売コーナーに目を輝かせた。コーナーを見てまわり、気になるものをひとつひとつ、手に取っては感嘆の声を上げる。見たことのない形のメモパッドや、映画のパンフレット、ファイル、菓子などなど。散々目で楽しみ、時間になったからとシアターへ促されたときには、片瀬が興味を示したものは全て購入されていたのだ。
さすがに悲鳴を上げて固まった。「はじめてのデート記念のプレゼントだよ」と言われても、これではおちおち商品棚に視線をやれない。できればそういった買い物の仕方はやめてもらえたら嬉しい……と必死に言葉を尽くすことに集中しすぎていて、気が付いたときには大勢が入れるシアターの上側に位置する、完全個室へエスコートされていた。魔法でもかけられたみたいだった。
「こ、ここは……?」
「二人きりでゆっくり観ようね」
質問の答えにはなっていない。
その部屋がなんのためのものか、なんという名前かは知らないが、一般客が入れる場所でないことはわかる。もはやどこから遠慮すればいいのか、果たして自分は一体何をしているのかと呆然としている間に、ドリンクやフードが運び込まれ、贅沢な二時間を過ごした。
櫻木はつくづく片瀬と住む世界が違う。財力もだが、お金の使い方や考え方自体がまるっと違うから、異国、いや、異世界人みたいなのだ。
だが櫻木はずっと楽しそうに片瀬の隣にいてくれた。なんだかそれだけで、恐縮する以上に楽しくなってしまう。
たくさん驚いたが、たくさん笑った。日々を生きるのに精いっぱいで、喜怒哀楽にこんなに振り回されたのはずいぶん久しぶりだった。
「――おいしい?」
白いテーブルクロスがかけられたテーブルに並んで掛けた左隣から、うっとりと目を細めた櫻木が問うてくる。
今、二人はレストランの個室内にいた。またもやVIP扱いの個室へは、オーナーらしき人物が櫻木の顔を見ただけで心得たように案内してくれた。この頃には、申し訳なさはありつつも、彼にとってはこれが普通なのだろうとそれほど慌てることなく片瀬も受け入れることができていた。
一面ガラス張りの壁の向こうには、東京の賑やかな街明かりが煌々と輝いている。夜景を見ながらレストランでのディナーとくれば、疎い片瀬にもこれがデートの締めだと理解できた。
「はい、とってもおいしいです。どれも食べたことがない味で……いただくのが楽しかったです」
「よかった。君がおいしそうに食べているのを見ていると、僕までたまらなく幸せだ。いろんなところへ連れて行きたいよ。なんなら毎日でも」
デザートのソルベをいただいていた片瀬は、苦笑して首を横に振る。
「嬉しいですが、俺は……櫻木さんに料理を食べてもらうのも嬉しいので、できればお家で、二人で食事がしたいです」
毎日外食は無駄遣いに思えてしまう。それが自分のためとなれば、なおのこと。それに作ったものをおいしそうに食べてくれる櫻木を見ると幸せな気持ちになるのだ。
櫻木はぱあっと顔を輝かせた。財も地位もある男性とは思えないほど素直な笑みには、愛嬌がたっぷりだ。
「ああ、そうか……! そうだね。僕も君の料理が食べたいよ。けれどときどきは食事の支度を誰かに任せて、休むのも必要だ。家がいいなら、シェフに来てもらおうね」
(い、家にシェフって呼べるんだ……?)
聞いたことも考えたこともないから、櫻木が本気かどうか判断できない。もしも本当に実行しそうだったらどうにか止めよう、と固く心に決める。
それでも腹がふくれると、気持ちは穏やかになるものだ。静かな夜をロマンチックな場所で過ごす非日常感もあってか、片瀬は普段より気が大きくなっていた。
「櫻木さんはどうして男の俺を恋人に仕立ててまで、見合いを嫌がったんですか?」
ずっと気になっていたのだ。
片瀬を選んだのは、たまたま目が合ったからだろう。だが社会的に地位のある櫻木が同性愛をカミングアウトするには、日本はまだまだリスキーな国だ。
「そこまでするということは……本当は恋人がいて、隠さなきゃいけない、とかですか?」
櫻木はワイングラスを置き、テーブルの上へおもむろに肘をついた。
すんなりと綺麗な角度に口端が上がる。プライベートな領域に恐る恐る入ってくる片瀬を、扉を全開にして招き入れるような笑顔だ。
「僕の両親は還暦を超えた今も、僕が照れてしまうくらいに仲がいいんだ。そんな両親を小さな頃から見て育ったからか……僕は運命の人と出会って、愛し愛される純粋な恋愛に強く憧れていてね」
そう話す男の顔には、かすかな気恥ずかしさが漂っている。
「年甲斐もない、と笑わないでいてくれると、ありがたいんだけれど」
「っそんな、笑うはずないです」
「ありがとう。……そういう理想がありつつも、この歳になっても運命だと感じられる人とは出会えていなくて……親戚たちがこぞって見合いを勧めてくるようになってね。乗り気でないなりに最初の数人とはお会いしたんだけれど……どうしても紹介者の下心が透けて見えてしまって、嫌になったんだ」
「下心……ですか」
「僕の生まれや立場は、野心ある方々にとってとても魅力的に見えるということだよ。親戚とはいえ、うちのグループは実力主義だからね」
つまり結婚という名の契約をもって櫻木とのパイプをつなぎ、出世に有利に働かせようと魂胆を持つ者もいたということだ。
「っそれじゃあ運命どころか政略結婚じゃないですか……!」
声は潜めたが、感情がモヤつく。
櫻木は「そうだよねえ」と肩を竦めた。
「君と出会ったあの夜は、あまりにもしつこい伯父を説得しようと仕方なく顔を見て断る場を設けたんだ。彼は下心なく本気で僕を案じてくれている人だから、遠慮がなくて困っていてね」
櫻木は軽い調子を装うが、ほとほと疲れていたのだろう。いつも穏やかで優しい声音が、今はどことなくくたびれている。
予期せぬ予定のキャンセルがもたらした片瀬の空白時間は、無駄ではなかった。そう思うと誇らしい。
「じゃあ……俺、櫻木さんと目が合って、よかったです。あなたが疲れなくてすむなら、いくらでも恋人でいさせてほしいです」
「ありがとう……ねえ、アズくん。偶然、どこかで、どうしようもなく惹かれるような出会いがあると信じる僕は、おかしいかな」
大きく首を横に振る。先のことは片瀬にも櫻木にもわからないが、だからこそ未来は明るいと信じられるのだ。
「言葉には力があるって、母がいつも言っていました。ないないって、ないことばかりを嘆いていたら、あるものも見落とすし、欲しい何かは自分の元にやってきてくれないそうです。だから……櫻木さんは、偶然どこかで、どうしようもなく惹かれる運命の出会いを果たします。なんにもおかしくないです。大丈夫です」
他の誰が櫻木の願いを笑ったって、否定したって、片瀬はそれが叶うまで「出会うに決まっている」と言い続けようと思った。
初対面の片瀬に恋人役を振ってきたり、ハウスキーパーの仕事をまわしてくれたりと、少し変な人ではあるけれど。
(素敵な男性だから。憧れるのも烏滸がましいくらい、素敵で……だから、大丈夫に決まってる)
「出会えます。絶対」
手を、テーブル上にある櫻木のそれへそっと重ねた。片瀬の励まし程度じゃ足りないかもしれないが、彼には彼自身の未来へ自信を持ってほしい。
すると下を向いていた櫻木の右手が、くるりと翻った。かぶさる片瀬の左手を握り返す。手首に嵌まる今日贈られたばかりの腕時計を軽く指先で撫でると、男は片瀬の手を持ち上げて甲へ口付けた。
「ありがとう」
馴染みのない、柔らかな感触にびっくりする。
伏せていた男の視線が片瀬を捉えた。
「それにもう、出会っているかもしれないしね?」
甘い紅茶色に、ネオンライトがとろりと映りこむ。それはガラス壁の向こうに広がる景色の百倍、いや千倍はキラキラと美しい。
(変だな。今日一番……心臓がうるさい)
豪華絢爛なデートにいちいち驚愕し、呆気にとられたときよりも、ずっと。
片瀬だけを見つめて微笑む紳士の眼差しは熱い。肌の下を巡る血潮が沸騰しそうで、こくりとうなずき返すことしかできなかった。
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