みっつめ

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みっつめ

 九州産有機JAS認定野菜のよくばりセット。――クリック。  搾りたてミルク使用長期熟成のゴーダチーズ、オールド・アムステルダム。――クリック。  熟成ゴーダにはぜひ赤を合わせたいところだが、年若い片瀬にはあっさり目の白ワインがいいだろう。――クリック。  黒毛和牛フィレステーキ、クリック。近海もの魚介類詰め合わせ、クリック。銀座の人気ショコラトリーからはトリュフとフルーツ入りガナッシュのセット、クリック。 「……うん? いや、ボンボンショコラのほうがいいかな?」  軽快にクリック音を鳴らしては目当ての品をカートへ放り込み、さくさくっと決済をすませていた櫻木はPC画面から視線を上げた。  視界の左手にデスクを構える秘書を呼ぶ。 「花田、どう思う?」  キーボードを叩いていた花田の指が止まる。  そうしてギギギとブリキのオモチャを動かすみたいに首だけで櫻木を向き、世が世なら不敬罪でお縄につきそうな顔で吐き捨てた。 「……金は腐るほどあるでしょう。どちらも買えばよいのでは」 「ああ、そうだね、そのとおりだ。アズくんの喜ぶものがいいからって、ピンポイントで好物を贈ることばかり考えていてはいけないな。選んでもらえば彼の好みも知れるし、いい案だ」  花田としては上司に対する可能な限りの嫌味だったが、わかっていても櫻木は気に留めない。ビジネスセンスが抜群で相手を言いくるめるのが得意な次男坊、と影で囁かれる男の脳内は目下、可愛くて優しくて綺麗でいい匂いがして天使みたいに可愛い片瀬へのプレゼント選定でいっぱいだった。 「社長……」 「何かな? 今は休憩中だから、お小言は聞かないよ」  先手を打てば、げんなりと顔を歪めた秘書があっさりと首を振る。 「ええ、あと二十一分は存分に休憩なさってください。ただ、なんなんですか? 何をそんなに贈りつける必要が?」 「贈りつけるだなんて、さも悪意があるような言い方をしないでほしいな」 「金にものを言わせて贈り物をするのがあなたの常套手段だと存じておりますが、それにしても、いつになく多すぎではないかと」  何をとち狂われたのですかと、秘書の冷めきって固くなった白飯みたいな視線が語っている。  カチカチのご飯。あれは最悪だった。  ハウスキーパーを辞めさせてから片瀬と出会うまでの間に、櫻木は気まぐれを起こして自ら料理をしてみたことがある。炊飯器で飯を炊き、レシピ通りに味噌汁を作り、魚を焼いて、近所のおばんざい屋で買った肉じゃがを温めた。  料理も給仕も櫻木にとっては使用人の仕事で奪ってはいけないものとして認識しているが、なまじ器用なのでやってみたところで話のネタになるような失敗は犯さない。だがしかし不慣れではあるので、飯をよそったあとに炊飯器のふたを閉め忘れたのだ。  保温スイッチを切ったせいで警告音も鳴らなかった。うまく炊けたはずの白米は、気付いたときには冷え切ってカチカチになっていた。わりと最近の、苦い記憶。 (アズくんの作ってくれたつやつやのご飯を食べたときは、ああ幸せだ……と嬉しかったなあ)  と、まあ、そんな失敗はさっさと忘れるに限るのだが。 「僕は単純に、アズくんがおいしく食べてくれそうなものを探しているだけなのに……常套手段だなんて、もっと言い方はなかったの? 誰だってプレゼントは嬉しいだろう」  贈り物をもらって嫌な気分になることは、そうないはずだ。もちろんケースバイケースだとは思うが、そういった微妙な間柄の相手に贈り物をすることはない。櫻木はこれまでも、そして今も、どんな意味にせよ好意のある相手にしか物は贈らない。 「やりすぎだ、と申したんです。この間はスーツを渡したんじゃなかったんですか?」 「あれにアズくんがたじろいでしまってね。言いくるめて受け取らせたし着せたけれど、できれば渡した瞬間から嬉しい! 櫻木さんありがとう大好き! って思ってほしいじゃないか」  ちょっとしたスーツであの慄きようだ。プレゼントの内容にも注意を払わなければ怯えさせてしまう。巣穴から出られないリスみたいで、それはそれは可愛かったのだが、困らせるのは本意でない。  そこで、ならば二人で食せるものにしようと思いついたのだ。 「第一、彼にはもっと栄養をとらせないといけないからね。ずっと食費を切り詰めていたせいだろうね……二十一の男にしては、かなり食が細いんだ。ほんのちょっとしか食べないんだよ、しかも野菜ばかり。うさぎみたいで可愛いんだけどねえ……」 「ああ、彼ものすごく華奢でしたね」 「そうだろう……! 抱きしめると細すぎて心配になるんだ……!」 「なぜ抱きしめる必要が?」  花田が何かを言っているが、己を抱きしめるようにして腕の中にすっぽりと収まる片瀬を反芻している櫻木には聞こえていない。有能な秘書はそれ以上何も言わなかった。  あの日、片瀬を自宅に留め置くことに一切の迷いはなかった。彼には櫻木に事情を話す気など、さらさらなかっただろうとわかるからだ。  片瀬はまるで隠すように部屋の隅にバッグを置いていた。訊ねると、綺麗な笑みで嘘をついた。はじめて会った夜、櫻木の事情を察して咄嗟に話を合わせたときのように淀みなく。  おかげで不審さに気付けたのだと思う。予感めいた何かが櫻木の勘を働かせ、求められていないことを悟りながらも問い詰めた。  片瀬が明かした事情は誰が聞いても危険極まりなく、とんでもない悪状況であるのに、心配をかけまいとすらすら嘘をつく姿がもどかしかった。話を蒸し返す気はないが、あの日彼は友人の家にも漫画喫茶にも行くつもりなどなかったに違いない。恐らく金銭的な事情で。  自分が敏い男でよかった、と心底思う。彼の言い分に納得して送り出すような愚鈍な男でなくて、よかった。  たった二日後に再び不法侵入されたうえにひどい贈り物をされ、ショックを受ける片瀬を自宅へ連れ返ったのは当然の行いだ。彼が安穏と寝起きできて、三食しっかり食べて、やつれるほど働かなくていいようにしてやりたい櫻木にとって、今の生活は最高に整っている。  もはや帰宅して片瀬を抱きしめ、彼の手料理を食べて風呂に入り、マッサージしてもらって一日の出来事を話さないとまともに社会人を遂行できないかもしれない。  櫻木はすっかり片瀬梓真という可愛いハウスキーパーに骨抜きなのだ。 「ところで、片瀬さんの調査結果がずいぶんと揃いましたよ」  仕事中のきりりとした姿とはまるで別人、なんなら別種の生き物に見えるほど、のほほんと幸福そうに片瀬のことを考えている男を、秘書が的確な話題で呼び戻す。  櫻木は得意げにニヤリと口角を上げた。花田いわく悪ガキ顔を晒し、「それで?」と促す。 「片瀬さんは真面目で勤勉な青年ですね。勤め先も我が社とは無関係です。ちらほら残っていた見合い話も、片瀬さんを直接見たことのあるあなたのお優しい伯父様が無効にしてまわってくださっているようですよ。どうやら、奥方があなた方のあの日の適当なやり取りにいたく感動なさったそうで」 「伯母は韓流エンタメが好きなんだよ。ロマンチックで感動的なラブストーリーに弱いんだ。愛し合っているのに引き離されそうな恋人たち、とかね」 「それはそれは。お身内の中での縁談攻撃も落ち着きましたし、しばらくはこの手の話題に煩わされずにすみそうです」 「そうだねえ。外の方々は未だにあの話を信じているから」  元より面倒だったのは身内の持ってくるお節介だけだったのだ。片瀬に語ったようにうんざりしていたのは本当だが、どうしても偽装恋人を立てて遮断しなければならないほどには切羽詰まっていない。  ふふん、と笑う櫻木を横目に、秘書は焦げた目玉焼きを見るような微妙な顔をする。 「いつまで片瀬さんを自宅へ置いておくおつもりで? 偽装恋人の役目は近々必要なくなりそうですが」 「いつまででも置いておきたいねえ。君もそのほうが助かるだろう?」 「ええ。片瀬さんと早く会いたいがために、張り切って仕事をなさってくださいますから。よほどご自宅で癒していただいているんでしょうね」 「そうなんだよ。僕を骨抜きにするアズくんはすごいんだ」 「どうしてあなたが自慢げなんですか。たかが雇用者と被雇用者でしょう」 「そんなにドライな関係ではないよ」 「では、ただの同居人の分際で」 「聞き捨てならないな。同棲だ」 「もっと別のところに目くじらを立ててほしかったです」  今さら花田にどんな失礼な物言いをされようと、気にする櫻木ではない。  家庭教師と生徒だった時代には、予習のできていなかった櫻木に面と向かって「どうやら首の上に乗っているのは装飾品らしいな」と鼻で嗤ったこともあるのだ。スパルタで、負けず嫌いな櫻木にとっていい先生だった。 「アズくんは純粋で、謙虚で、思慮深くて、誰にだって自慢したい子なんだ。ちょっと人を頼ったり甘えたりするのは不得意だけど、彼のこれまでを思えば仕方ないし……そこは徐々に僕が甘やかしていけばいいと思っているよ」 「それで、やりすぎなくらいに貢いでいると?」 「可愛い子にはなんでもあげたくなるだろう? 喜ぶ顔が見たいんだよ」 「喜ぶ顔が見たい」  意味深長につぶやき、花田は探るように眼鏡の奥にある瞳を輝かせる。しかしそれは一瞬のことで、何やら楽しそうにかすかに口角を上げた。 「貢いでばかりいると金づるだと思われますよ」 「いいねえ、それ。僕はとっても使い勝手のいい金づるだから、彼がそばにいてくれるように張り切って貢がないと」 「恋人にしてしまえば早いのでは? 彼、いろいろと疎そうですから、一度抱けば黙ってそばにいそうでしょう」 「なんてことを言うんだ」  聞かせるようなわざとらしい溜め息を吐く花田を、櫻木は窘める。誤解は解いておかなければいけない。 「アズくんはね、僕の癒しなんだ」 「癒し……?」  はじめて聞く単語を口にするような、たどたどしい復唱だった。常に冷静で人を食ったような態度の男のめずらしい顔を見れて、櫻木はご機嫌だ。 「ふふ、僕だけの癒しキャラなんだよ。家に帰ればマイナスイオン発生元がある生活。綺麗な家とおいしいご飯と、可愛い同棲相手がいる日々。最高だ……」 「……つまり、ペット的な感覚だと?」 「失礼な。アズくんは癒しだと言っただろう。ペット扱いなんてとんでもない」 「ですが恋人にする気はないんでしょう」 「彼の前では肉欲なんて抱けないよ。そばにいると心地よすぎて、うっとりしてしまうけれどね」  櫻木より長く生きているくせに花田は勉強と仕事に人生を捧げすぎて、この微妙で尊い感情がわからないのだろう。  こめかみをぐいぐいと揉む男はハッと頭を上げ、櫻木を憐れみの眼差しで撫でてきた。 「そういえば社長、ある意味童貞でしたね」 「何を言うか君は……僕の恋人遍歴を把握しているはずなのに」 「ですから、ある意味、と」  意味を話す気はないようだ。花田はカタカタと手元のキーボードを再び叩きはじめる。あとは自分で考えろと言わんばかりに――いや、事実そう言いたいのだろう――櫻木の疑問をシャットアウトしている。  櫻木は肩を竦め、カートに入れて未決済だった片瀬への贈り物をまとめて購入していく。  花田に理解されずとも、片瀬が喜んでくれればいい。それを見た櫻木は幸せでいられるし、片瀬がそういう意味でも櫻木から離れがたくなれば万々歳、大成功、ミッションクリアだ。 「ああ、それともうひとつ」 「なんでしょう」  片瀬の食住を確保はしたが、まだ衣が残っている。物持ちのいい彼の服は生地が薄くなるほど着古していて、ちらっと見かけたダウンジャケットは何年着ているのか中綿がぺちゃんこだった。あれではたいした防寒は望めない。 「冬物をメインにとりあえず軽く上下、二十着ずつくらいでいいかな。アウター類はダウンとコート、靴や帽子なんかもいくつか、買い付けて自宅へ頼むよ。付き合いはあるけど僕が着るには若すぎるメンズブランドが数店あっただろう? あの辺りから、まんべんなくよろしく」 「承知しました」  いくら顔面に「まだ貢ぐのか」と書いてあったとしても、仕事を再開した花田はそれを口にしない。  それに知人だが中々利用できなかったショップの面々も片瀬も、同時に喜ばすことができる名案だ。 「あともうひとつ。あの件の調査は本格的に進めてもらって」  さすがに花田は溜め息をついた。 「そちらを先におっしゃってください」  淡々と言い、彼は早速電話に手を伸ばす。  物腰柔らかな上司が瞳に宿した、ほんの僅かな怒気と憂いを払うために。  会食などの予定がなければ、櫻木の帰宅は大体十九時頃だ。オンオフの切り替えが素晴らしくはっきりしている櫻木は滅多に残業なんてしないし、そんな仕事のやり方をすれば一番そばで仕事をする秘書の睥睨に絞られることだろう。  今日も定時を迎えてすぐ、マイカーに乗り込んでそそくさと自宅へ帰る。エントランスでわざわざ自室番号をコールし、それからロックを解除してエレベーターに乗り込んだ。  これをはじめたきっかけは、片瀬が二度目にハウスキーパーの仕事をしに来た日だった。  ほんの思い付きでチャイムを鳴らし、「今から部屋へ上がるよ」と予告した櫻木は、出迎えてくれた片瀬の笑顔にどろりと溶け出しそうな幸福を覚えたのだ。  お帰りなさい、と穏やかな声に迎えられる幸せはまるで麻薬だった。実家にいた頃も家族や使用人たちはそうして迎えてくれたが、そのとき感じていた気持ちとは少し違う。  家の中は温かく、明かりが灯され、キッチンからは夕飯のいい匂いが漂ってくる。そのうえに満面の笑みを浮かべた純朴な青年が目の前にいるのだ。これが幸せでなく、何を幸せと呼べばいいのか。  初対面の夜や、デートに連れ出した日のようにめかし込んだ片瀬は色っぽくて綺麗だ。けれど櫻木は、地味な服に身を包み、のほほんとキッチンで料理をしたり、にこにこと笑いかけてくれる片瀬も愛らしくて好きだった。  ――などと回想に頬を緩ませながら、自宅玄関を押し開く。 「お帰りなさい、櫻木さん」 「ああ……ただいま、アズくん」  扉が閉じるのが早いか、片瀬を抱きしめるのが早いか。  腕を広げて歩み寄れば、片瀬は最近倒れ込むような気楽さで身を預けてくれる。最初は恐る恐る背中にまわされていた腕も、今ではぎゅーっと大事そうに櫻木を抱きしめてくれるのだ。 (はー……もうこのひとときがないと、僕は僕でいられないかもしれない……)  すう、はあ、と息をすると、片瀬の清純で混じりっけのない香りが鼻腔を満たす。きっと自分がネコ科の動物ならば、今この瞬間にごろごろと喉を鳴らしていただろう。 (可愛い、可愛い僕のアズくん)  顔色が青白く、やつれて色気が駄々洩れだった危うさも今はない。  目の下の黒ずみは解消され、肌艶よく、まだまだ細いが頬には丸みもついてきた。かさついていた唇はふっくらと、飴色の髪はしっとりと。可愛さが増したことについてはある意味少し心配だが、片瀬の元気そうな姿に櫻木は癒しと安心をもらっていた。 「今日もお疲れさまでした。すぐに支度をすませますね」 「そんなに急がなくても構わないよ」  はい、とうなずくが、片瀬は心なしか小走りにキッチンへ入っていく。早く食事を、という思いやりは嬉しいが、離れていった温もりが名残惜しい櫻木は自室でささっと着替えてリビングへ戻った。 「アズくん、今日も何ごともなく平和だったかい?」  煮込み料理の傍らで、味噌汁に散らす小口ネギを刻んでいる片瀬の背後に立つ。手元の邪魔にならないよう片瀬を挟んだ調理台の両側へ手をついても、櫻木のスキンシップに慣れた彼は慌ても嫌がりもしない。 「そうですね、何ごともなく」 「よかった。迷惑メールや迷惑電話は?」 「それはちょっとありましたが、いつもと同じくらいです。ちょうど携帯にメモを取ってるときにかかってきたので、間違って出ちゃったんですが……」 「それで?」 「なんの音もしませんでした。たぶん、折り返して電話をかけたらガイダンスに転送されちゃう系の詐欺? なんだと思います」  自分が今とんでもない話をしているのだと自覚のない片瀬は、相変わらずぞっとするほどのほほんとしている。  初対面の櫻木の嘘に付き合うくらいお人好しなのは身に染みて知っているが、彼は成人男性とは思えないほど無防備だ。警戒心がなく、人を疑わない。言いくるめて住み込みのハウスキーパーにしてしまった櫻木が言うのも変だが、よくこれまで誰にもかどわかされなかったものだと思う。  きっと強力な守護霊でも憑いているに違いない。今後は任せてほしい、と櫻木は常に念を飛ばしている。 「そう、なんともなくてよかった。会社では?」  櫻木は笑顔の裏で今聞いたことを頭にメモし、話題を変えた。 「あ、経理のパートさんに、おやつをいただいて三時に食べました。娘さんと一緒に作ったマドレーヌだそうで、すごくしっとりしてておいしかったです」 「いいね、君は会社の人と仲がよくて楽しそうだ」 「お世話になりっぱなしです。古着や食器なんかを分けていただいたこともありますし、実は今のアパートに越すとき、買い替える予定だったからって、洗濯機とこたつも譲ってもらって……俺はみなさんのおかげで生きてきたようなものです」 「……そう。優しい人たちが君の近くにいてよかった」  顔を見られないのをいいことに、櫻木はきつく眉を寄せて片瀬の後頭部に顔を伏せた。  二十代前半の、まだ遊びたい盛りの青年だ。それなのに片瀬は毎日休みなく働き、自分のものを買ったり、趣味を満喫したり、気晴らしに出かけるような楽しみもない日々を生きていた。  労働環境は改善されたが習慣は変わらないようで、暇ができると家の中のどこかしらを掃除している。仕事以外で時間の使い方を知らないのだ。新聞広告に混じっていた求人広告を真剣に見ていたときは、彼の興味を逸らして処分するのに苦労した。 「君の借金は……そんなに切り詰めないと返せないような額なのかな」  片瀬のデリケートな話題に櫻木から触れたのは、これがはじめてだった。借金があることはきちんと説明を受けているが、その経緯も、額も、月々の返済計画も聞いてはいない。踏み入るべき権利のないセンシティブゾーンだとわかっている。  だが問わずにはいられなかった。 「本当にそれは、君が返すべきなのか?」 「そうです」  しっかりとした返事だ。刻み終えたネギを小さなタッパーに移した片瀬が、櫻木の腕の中でぱっと振り仰いでくる。 「櫻木さんに雇っていただいたおかげで、きちんと返済できます。借金持ちの俺なんかに、こんなによくしていただいて……どうお礼をすればいいのか……」 「いやだな、アズくん。君は僕の思うよりずっとずっと何倍も、僕を助けてくれているよ。自分なんか、と言わないでほしい」  丁寧に語りかけながら、駄目か、と櫻木は内心がっくりと肩を落としていた。三十五歳の櫻木大成だから耐えられるが、これが五歳の櫻木大成なら地面にのの字を書いて落胆をアピールしている。 (君は嘘が下手だ。だけど、それでうまく乗り切れていると信じている。誰も指摘してくれなかった? 大丈夫だ、と言う君の見え見えの嘘を疑ってくれる人は、いなかった?)  するりと話題の矛先を捻じ曲げたのは、櫻木に追及されないためだろう。初対面の日といい、不法侵入された日といい、彼は嘘ほどすらすら言うタイプらしい。  スーツを贈ったときや、腕時計を選ばせたときは、微笑ましくて笑ってしまうくらい動揺して目をまわしていた。あのときの狼狽ぶりとはてんで別人だ。 (他人に心配をかけないように、強がる癖がついてしまっているのかもしれないね)  櫻木はそれを、とても痛々しいことだと思う。つらい。悲しい。怖い。不安。そんな感情ひとつひとつを全部頬張って、必死に噛み砕いて腹の中へ納めるのは、大人だって苦しいのだ。 「アズくん、明日は早く帰って来れそうなんだ。よかったら出かけよう」  今夜はまだ核心をつく時期じゃない、と自分を抑え込んで食事デートを画策する櫻木は、申し訳なさそうな上目遣いに切ない思いをすることになる。 「すみません、食事のときにお話ししようと思っていたんですが、明日は人と会う約束が入ってしまって……」 「人と……?」 「はい、ええと、以前お話したこともあるのですが、不動産屋の店長さんと」 「ああ、僕と君がはじめて会った夜、君がホテルで待ち合わせをしていた方……だったね?」  記憶しているくせに、櫻木はとぼけたように返す。駄々を捏ねる子どもみたいに口を尖らせ、顎先を片瀬の頭へそっと乗せた。 すると彼は声を焦らせる。 「あの、夕飯は用意してから行きますが、お出迎えも支度もできない分は、きちんとお給料から引いてください。勝手をして申し訳ありません」  櫻木は三十五歳だが、勢い余って地面にのの字を書いてしまいそうだ。  家事全般をハウスキーパーの仕事として依頼しているのは櫻木だが、住み込みな以上、片瀬のプライベートな時間は自由に使うべきだし、そうでなくとも一食や二食、支度をしなかったからと言って責める気はない。何度そう伝えても、真面目な片瀬は罪悪感があるらしい。  何より櫻木が哀しいのは、彼にとって「お出迎え」が仕事の一環でしかないことだ。そう感じるのは立場的に仕方ないとしても、抱きしめ返してくれる腕からも、腕の中にぽふんと飛びこんでくれる信頼も、雇い主と従業員の関係からは一歩先んじていると思っていたのだが。 (まあ、今はまだいい。いずれ僕はアズくんと、……んん?)  彼との関係が一歩先へ進むと、何になるのだろう。櫻木は浮かんだ疑問に首を傾げる。 「櫻木さん?」 「ああ、すまない。少しぼんやりしていたよ」  不思議そうに呼ばれた櫻木は、にっこりと目尻にしわを寄せる。さらさらでいい匂いのする片瀬の髪を、頭の形にそって丁寧に撫でた。 「もちろん、お出かけは構わないよ。僕に許可を取る必要なんてないし、時間が厳しければ夕飯なんて用意しなくてもいいんだ」 「そういうわけにはいきません。これは俺の仕事です」 「ふふ、そう。なら、ありがとう。だけど天引きはしないよ。楽しんでおいで――ところでアズくん」  再度「そういうわけには」と切り返されそうな空気を、櫻木は次なる話題で遮る。 「明日はその店長に借りた服を着ていくの?」  すんなりと長い睫毛を瞬かせ、片瀬は戸惑いながらも、こくんと首を縦に振った。 「はい、そのつもりです」 「お返ししてはどうだろう?」 「え……」 「店長とやらは君の事情を心配して貸してくれたんだったね。でも今は僕が贈ったスーツを着て行けるし、以前より給与も増える。だったらお礼を言ってきちんと返却するべきでは、と思うんだ」 「たしかに……そうですね。いつまでもお借りしていては申し訳ないですし……あ、でもあの、以前櫻木さんにいただいたスーツは、櫻木さんと出かけるときに、とおっしゃっていましたから、明日着ていくことはできません」 「ああ、そんなことはいいんだ。君が着てくれないと僕は悲しくて泣いてしまうよ。ね。そうしよう。明日は僕の贈ったスーツで行きなさい」  片瀬はオロオロと悩んでいたが、やがて櫻木の口車に乗って「スーツをお返ししてきます」とほんわか笑う。やはり誰かに何かを借りている状況は心苦しかったのか、晴れやかな顔で器に煮物を盛る作業へ戻った。  櫻木は心の中でぐっと拳を握る。店長が片瀬にスーツを貸しただなんて思っていないが、だからこそ着せたくない。そんなものを着てのこのこと会いに行けば、「どうぞ召し上がれ」と言っているようなものだ。 (そもそも僕のアズくんだからね。他の誰かが贈った服なんて着せたくない)  とはいえ、片瀬がお礼を言ってスーツを返したって、店長は恐らく受け取らないだろう。  と、なると。 「そうだ。明日は僕が君を迎えに行こう。返すスーツは持って行くときに汚れてはいけないから、僕の車に積んでおけばいい。迎えに行ったとき返せるように」  小さなつむじに、リップ音を立てないよう口付ける。鍋の火を止めて振り仰いだ片瀬の、首を傾げる角度が異常に可愛かった。  きっと櫻木が頭にキスしたことも気付いていない。その鈍さも、文句なしに可愛い。 「とんでもないです。そこまでお手数をおかけするわけにはいきません」 「僕が早くアズくんに会いたいんだ。帰って一人でこの部屋にいるのは、とてもさみしいよ。だからお願い、迎えに行ってもいいかな」  櫻木自身のためだと言いまわせば、優しい片瀬は絶対に断らない。今夜も案の定、悩んだ末に小さくうなずいた。 「……櫻木さんがそうおっしゃってくださるなら、お言葉に甘えても構いませんか」  照れくさそうな微笑みに、脳の中心がくらりと平衡感覚を失う。それも一瞬のことで、櫻木は鷹揚にうなずいた。 「もちろん。食事をするなら、二時間後くらいに終わるかな? 家を出る時間のこともあるし、一度連絡を入れるよ」 「はい、わかりました」  あまり長時間放っておくと、どこかに連れこまれかねない。きっちり二時間で連絡を入れ、邪魔をするつもりだ。店長は相当業腹だろうが、知ったことか。 (アズくんの状況を知っていて着飾らせるだけの愚鈍な男に、僕のアズくんを可愛がる資格はないさ)  翌日、櫻木は片瀬を迎えにホテルのレストランまで出向き、丁寧に挨拶をした上でスーツを返却させた。  不動産屋店長の笹本と名乗った男は、片瀬の視線がない隙に憎々しげな目で睨んできたが――若く色っぽい青年を篭絡し損ねた男に、櫻木は憐憫の微笑みを残してやった。  ***  櫻木と出会い、住み込みのハウスキーパーとして、そして偽恋人として過ごすようになって一ヵ月が経つ。十一月も二周目に差し掛かり、仕事帰りの時間になると風もきんと冷たさを増してきた。  中学時代から愛用してきたジャケットでは首を竦めて半ば震えながら歩く羽目になっていただろうが、今の片瀬は冷気を恐れることなく帰路につける。櫻木からいただいた、ネイビーのカシミアマフラーと手袋、非常に軽いのになぜかとても温かいストレッチ素材のジャケットのおかげだ。  さらに言えば、セーターにパンツにベルトに肌着……つまり片瀬の身に着けているもののほとんどは、彼からの贈り物だった。  櫻木は食材や飲み物、服に靴に帽子に……と、気軽に片瀬へ物を贈る。そのたびに恐れ慄いていた片瀬は、ある日冬服をどっさりと持ってきた男性――櫻木の秘書で、花田というそうだ――に、「櫻木の趣味ですので、嫌でない限りは受け取って喜ぶ顔を見せてやってください」と言われてしまった。恐縮する片瀬の気持ちも十分に理解した上で、花田は櫻木のための助言をくれたのだ。  今もまだ戸惑っているが、遠慮して断るのではなく、ありがたく受け取らせていただくことにした。食材は彼と一緒においしく食べられるよう考え、服飾類は必要なときに必要な分ずつ使わせてもらう――つもりだったのだが、いただきものを全身にまとっているのには理由がある。  櫻木の暮らすマンションは高層なため、ベランダに洗濯物を干せない。外観上の問題と洗濯物等の落下による事故を防ぐためだ。  櫻木は毎日マンションのランドリーサービスを利用しており、自宅に設置した洗濯機は使っていなかった。今は片瀬が下着やタオルなどを洗濯するのに使っているが、基本的に高価な櫻木の服を洗うのは怖かったこともあり、服やスーツはこれまでどおり業者にお願いしている状態だ。 「ついでだから一緒に出してしまっていいよ」  櫻木はそう言って、片瀬のものまでランドリーサービスに依頼してくれた。だが当初持ち込み、数枚あった自前の服は今や一枚もない。ランドリーサービスに出すとしょっちゅう紛失するのだ。  きっと富裕層が暮らすマンションのサービスだから、片瀬の服は雑巾か何かと勘違いされて処分されてしまうのだろう。櫻木が「よかったら僕が選んだ服を着てほしいな」とフォローしてくれるので落ち込まずにすんでいるが、継ぎ接ぎをしているわけでもないのになあ、と不思議ではある。  そんな些細なハプニングはありつつも、片瀬は毎日が幸せで幸せで仕方なかった。  自分のできる限りで恩を返せるよう、ハウスキーパーの仕事も、マッサージなどのちょっとした雑ごとも進んで行っている。櫻木の望むことならなんでもしてあげたいと思うほどに、片瀬は彼を信頼し、敬愛していた。  それでも、いずれこの生活は終わる。いつまでも住み込んではいられない。  ならばその日がくるまで思う存分彼に尽くして、彼の微笑みを間近で見て、満ち足りた日々を大切にしたい。  ――そんな中、水を差すように貸金業者から電話があったのは、さっきのことだ。  仕事を終えて夕飯の買い物へ行く予定だったものの、直接会って話したいと言われた片瀬は方向転換して事務所へ向かっている。  会社から櫻木宅とは逆方面に普通電車で五駅。ほどよく清掃され、ほどよく寂れた、駅周辺によくある三階建てのオフィスビルだ。ビル一階の一体なんの会社かよくわからない事務所を横目に、褪せた灰色の階段を上ると踊り場と貸金事務所がある。  すりガラスの向こう側は煌々と明るいものの、普段は口座引き落としで返済しているため事務所を訪れる機会もなく、物慣れなくて緊張した。  ノックしてから扉を引き開け、片瀬はそうっと顔を覗かせる。青みがかったカーペットが敷き詰められた室内は爽やかでクリーンな雰囲気だ。 「こんにちは……片瀬と申しますが」 「お待ちしておりました、片瀬様。こちらへどうぞ」  応対してくれた受付の女性に奥へ促され、パーティションで区切られた一角へ向かう。  すぐに、四角い眼鏡をかけ、いつもこちらが恐縮するほど腰の低い男がいくつかの書類を手にやってくる。彼は向かいのソファへ座ると、人の好さそうな顔で受付嬢が持って来てくれた煎茶を勧めた。 「外は寒かったでしょう。突然お呼びたてして申し訳ない。どうぞ、温まってください」 「ありがとうございます。いただきます」  呼び出された理由も気になるし早く用をすませて買い物に行きたい気持ちは山々だが、来て早々お茶も飲まず用件を訊ねるのも失礼だろうと、一先ず湯飲みに口をつける。  客用の湯飲みに黄緑色の茶が満たされているだけで、なんとなくいいものを飲んでいる気にさせられるのは片瀬が貧しい育ちだからだろうか。普段飲むものよりも甘みの強いそれを半分ほど飲むと、そっと竹製コースターに器を戻す。 「あの……それでお話とは……? 引き落としは滞りなくできていると思うのですが」 「ええ、きちんと毎月返済してくださっています。ただ……真面目なあなたにこんなことをお伝えするのは、大変酷なのですが」  無意識に喉を鳴らす。ごくりと妙に大きな音がしたあと、男は眼鏡の向こうで申し訳なさそうに瞳を伏せた。 「単刀直入に申しますと、お父様の借金が別の業者の元にもあったのです」 「え――」  片瀬は瞬きも忘れ、男の顔を見つめていた。  温かな茶を飲んでかすかに体温を思い出した指先が急速に冷えていく。ぐ、と肩が重く感じるのは、母が死に、母が息子に内緒で返済し続けていた父の借金を知ったときと同じだった。  両親は片瀬が幼少期の頃に離婚している。物心つく前のことだから、父の記憶はない。  母方の祖父母は晩婚で、母を授かったのも四十になってから。母自身も三十五で出産したため、片瀬が小学生の頃に祖父母は他界した。幼い息子を一人で育てる母は想像以上に大変だったろう。しかし彼女は毎日休みなく働き、慎ましくも穏やかな日々を片瀬にくれた。  そんな姿を見ていた片瀬は、子どもにしては我儘も言わない、と心配されるほど聞き分けよく育ち、いつしか家事、勉強、アルバイトの三点に身を捧げるようになる。母を支えてともに暮らし、いつか自分の稼ぎだけで母を養うことが夢だったのだ。贅沢なんて望んだことはない。たった一人の家族と、毎日笑って暮らせること以上の贅沢なんてないはずだから。  しかし、母は働きすぎた。持ち前の明るさと我慢強さは、病の前ではなんの意味も持たなかったのだ。  片瀬が奨学金制度を利用して大学に通いはじめた年の秋に、彼女は癌に倒れ、手の施しようがないほど悪化していた病魔に貪られるまま息を引き取った。  近所の人に助けてもらいながらひっそりと葬儀を執り行い、今後への不安に潰れそうだったとき、四角い眼鏡をかけた人の好さそうな男が焼香のため家を訪ねてきた。その男が貸金業者だった。  片瀬ははじめて父が事故で亡くなっていたことと、彼の遺した借金を母が返済していたこと、そして次に返済義務があるのは法定相続人である自分だと知った。  大学を辞め、母の診断一時金と死亡保険金は全て奨学金と父の借金返済に充てた。それからバイト先のツテで運よく今の会社に正社員として雇ってもらい、アルバイトをこなしながらきちんと毎月の返済額を収めている。臨時収入があればその都度多めに返済手続きをし、少しずつでも、確かに、完済に向かっていたはずだった。 「別の……借金……ですか」  どっどっと鼓動が早鐘を打っている。これは焦りだ。回転の鈍った頭の中では現在の返済額と収入額、そして最低限動いて仕事をするためにかかる生活費の数字が混在して、ぐちゃぐちゃになっている。  片瀬の様子を居た堪れなさそうに見る男は、持っていた書類をそっとローテーブルへ並べた。借用書のコピーだ。元金は数百万程度だが、利息が膨れ上がっている。  しめて二千万。眩暈がした。 「埋もれていた債権をこちらの業者が買い上げたようで……どうやら時効まで間もないからと、片瀬さんに急ぎ取り立てる予定だったらしいんです」 「らしい、とは……」 「うちは見てのとおり弱小事務所ですが、それなりに横の繋がりもございまして。この業者がかなり際どい取り立てをするのは有名ですし……片瀬さんの事情は存じています。さすがに見て見ぬふりはできず、うちでこの債権を買い上げました」 「え……!?」  青白くなった顔で目を見張る片瀬を、男は安心させるような微笑みでもって迎えた。 「お父様のことをほとんど知らないにもかかわらず、片瀬さんは一度も期日を破らず真面目に返済してくださいます。こんな業者の悪徳な手に苦しんで、うちの返済まで滞るのは困りますからね」  どこかおどけたように肩を竦めるから、片瀬はほろりと表情の緊張を解く。新たな借金の発覚も、これから返済していかなければいけない金額も衝撃的すぎて冷静にはなれないが、目の前の男にはひどい取り立てをされたことなどない。  むしろ返済計画を一緒になって考えてくれ、就職して収入額が安定するまでは「待てますから焦らないで」と鷹揚に少額返済で許してくれた。彼の元に債権があるのなら、少なくとも片瀬は怖い思いをせずにすむはずだ。 「あの、……ありがとう、ございます。必ず……上乗せして返済していきますので」 「ええ、信用しています。返済計画は改めて相談しましょう。大丈夫ですよ」 「はい……」  とはいえ、今の状況では上乗せも難しい。  櫻木宅のハウスキープは相場より多くいただいているが、返済額が上がるなら休日をまた派遣バイトに充てるのがいいだろう。可能ならば平日の夜もどこかへバイトに出かけたいが、心配性な櫻木をどう誤魔化すかが問題だ。馬鹿正直に借金が増えたなどと知れば、あの優しい人は心を痛め、片瀬に手を貸そうとするかもしれない。  片瀬は満たされている。衣食住、そして優しい人にだ。もうこれ以上、彼から何も搾取したくはない。 「――ところで」  考えこむ片瀬の向かい側で、男が自分用の茶を飲む。つられるように片瀬も半分残っていた煎茶を飲み干した。温くなって、なんとなく甘みが増した気がする。 「これはあくまで提案なのですが」 「……? はい」 「同居されている方に手助けしていただくのは、いかがでしょう?」
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