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よっつめ
「――……え?」
疑問符はかすれ、空気に溶ける。呆然とする片瀬は男の言葉を何度も何度も口の中で噛み砕いた。
同居しているのは、櫻木だ。つまり彼は、櫻木に手助けしてもらえと、そう言ったのだ。
「いやね、今でも片瀬さんはいっぱいいっぱいだろうと、わたしもわかるんです。あなたは真面目で頑張り屋で誠実ですから。ただ、頑張りすぎだと思うんですよ」
「は……」
「このままでは身体を壊して、働けなくなって、利息が増えていく……いいことなんてひとつもないはずです。そうなるくらいでしたら、誰かを頼って、せめてこの新しく発覚した借金だけでも完済してしまうのはどうでしょうか。――頼めば無利子で借りれたりするでしょう? なんなら、お金をいただいてしまう……とかね」
ニコニコと細くなる男の目からは、笑みの空気を感じない。緩やかに口角を上げているはずなのに、片瀬はゾクリと悪寒を覚えた。
「お、……俺、今日はもう、失礼します」
「そうですね。来週の土曜にでも、またお越しください。何が一番、片瀬さんにとっていい道か……ゆっくり考えてみてくださいね。もちろんわたしのほうで新たなお仕事も斡旋できますので、必要とあらばいつでも」
強張った笑みを返し、そそくさと席を立つ。
返済をはじめた頃、男からは性風俗やゲイビデオなどの仕事もまわせることをほのめかされていた。軽い物言いだったから冗談だと思っていたが、今は到底冗談だとは思えなかった。
足早に事務所をあとにして、階段を駆け下りる。さっきからゾクゾクと悪寒がひっきりなしに迫ってくる中、片瀬は一階まで下りると壁に肩を預けて喘ぐように息をした。
(どうして俺が櫻木さんのところにいることを知ってるんだろう。調べないとわからないはず……親切な人だと思ってたけど違う……? あの感じだと、櫻木さんの素性も把握されてる。……どうしよう、なんで……今まであんなこと言わなかった、どうして急に、……違う、ああ、もう)
自分がパニックに陥っている自覚すらなく、片瀬は片手で頭を抱える。耳を押さえると、目の前の道路をゆく車のエンジン音がほんの僅かに遠ざかった。
(か、考え、ないと)
櫻木に借金を肩代わりさせる気など欠片もない。業者が実は悪徳だったというのなら、彼に迷惑をかけるような行動に出る可能性がある。それだけは避けたい。だが今のままでは、片瀬は利息すら返せない。
ぐるぐる、ぐるぐる。
「……ッ……」
ジャケットに包まれた身体が熱い。じっとりと妙な汗をかいていることに気付いた片瀬は、なぜか覚束なくなっている脚を踏み出した。
早く。早く帰りたい。考えなければいけないことは山ほどあるが、今はとにかく櫻木の顔を見て心を慰めたかった。
そのとき、ポケットの中で携帯が鳴りはじめる。見ると発信者は櫻木で、片瀬は自分の状態も忘れ、嬉々として通話ボタンを押した。
「はい……片瀬です」
『やあ、アズくん。仕事はもう終わったのかな』
「終わりました。すみません、急に……」
業者の事務所へ来る前に、櫻木にはメッセージを入れておいたのだ。滅多にない残業をすることになったと、彼は信じてくれている。
「櫻木さんは、帰るところですか……?」
はあ、と息を吐く。通話口の向こうで男は数秒ほど黙ったが、すぐにいつもの朗らかな声がした。
『そうだよ。アズくんは今どこ? 早く会いたいから迎えに行かせてほしいな』
じんわりと甘い気持ちが胸に溜まっていく。ほんの少しの切りこみを入れただけで、蜜色をしたそれがとろりとあふれ出しそうなほどだ。
「はい……あの、俺、……嬉しいです」
『ああ、アズくん……僕もだよ』
かすみそうな頭を振って、自分の居場所を伝える。
櫻木との通話を終えると、片瀬は車道からわかりやすいように歩道端の花壇へ寄り、縁に腰かけた。
(おかしいな……なんだか、ぼーっとして、熱い……ショックがことがあったから、かな)
仕事用のリュックを膝に乗せ、ぎゅっと抱きしめる。櫻木にもらったマスコットキーホルダーを握ると、ほんの少し気がまぎれた。
毎日たくさん寝て、三食も食べて、ほのぼのと過ごすことに慣れたから、心と身体が甘えを知って脆弱になっているのかもしれない。
情けない。母を見送ったときの耐えがたい絶望感に比べたら、大抵のことは無感情に受け止められるはずだ。
そう思うのに、いやに気怠くて動く気力が湧いてこない。そのくせ身体の奥がむずむずと熱くて、片瀬は駄目だとわかっていながらゆっくりとまぶたを下ろす。
「――片瀬くん」
目を閉じてから、すぐだ。ぼうっと顔を上げると、目の前には長身で真面目そうな四十代後半ほどの男性――不動産屋店長の笹本が立っていた。
「笹本さん……?」
いつも見かけるスーツ姿で、手にはふくらんだバッグを持っている。客の内覧案内帰りではなさそうだ。彼の店舗からは離れた駅だが、自宅が近いのだろうか。
笹本は心配そうに眉を寄せている。汗ばむ片瀬の首筋に触れた彼の手は、同じくらいの温度だった。
「大丈夫……そうじゃないな。さっき君があのビルから出てくるのを見かけたんだが……」
「ん、ぅう……」
「おいで、片瀬くん。少し人目のないところで、話がしたい」
わけがわかっていない片瀬を立たせると、笹本は肩を貸して歩かせる。
話とはなんだろうか。どこへ行くのだろうか。疑問が浮かんでは猛スピードでどこか手の届かない場所へ流れていく。ログが残らない脳内は、深刻なバグが発生した古い携帯みたいなものだった。
どれくらい歩いたかも判然としない中、気がつけばビルとビルの間の狭い隙間に壁を背にして立っていた。大人が二人並んで歩けない程度の幅しかないのに、笹本は窮屈さをものともせず片瀬の面前に立っている。
くらり、と脳が揺れるような感じがして、片瀬は右手の室外機へ体重を預けた。真っすぐに立っているのがつらい。
すると笹本は片瀬を促し、室外機の上へと腰を下ろさせた。座った、と頭が認識した途端、手足から力が抜ける。壁へ後頭部を預け、吐き出す息は湿っていてひどく熱っぽい。
「はぁ……っは、ん……」
「片瀬くん、さっき君はもしかして、あのビルの二階にいたのか?」
声を出すのがつらくて、こくりと小さくうなずく。
「やっぱり……駄目だ片瀬くん、あそこはかなりの悪徳業者だよ。債権者だけでなく、その親類や友人まで巻きこんで返済させて、最後には風俗堕ちが常套手段だ。早く縁を切ったほうがいい」
やっぱり、と思いながら、片瀬は痛いのを堪えるみたいに眉を寄せる。
縁を切るのは難しい。父が作った借金を返済する義務があるからだ。それが息子として生まれてしまった片瀬の使命だと思うし、苦しい生活の中でその義務を引き継いだ母に恥じない生き方だと信じている。
「お……お気遣い、ありがとうござ、ます……っ……あの、大丈夫です、ッ……ん」
身体の奥底に芽生えたむずむずとした新芽が、瞬く間に身体中へ枝葉を伸ばすように広がっている。じいんと不可思議な感覚が徐々に意識をむしばんでいき、唇からは吐息と変な声が出そうになった。
「ふ、……く、っ……ふぅ」
唇を噛んで耐える片瀬を、笹本はねっとりと視線で嘗め回すように見ている。心なしか息が荒い。
「片瀬くん……これは、提案なんだが……」
膝の上にだらんと置いたままの手に、男の手が重なった。ぬるりと汗ばんでいる。ビル間を吹き抜ける夜風は、わかりやすく冷たいというのに。
「わたしが君の借金を肩代わりしてあげよう。返済は無利子でいい……だから、早くあの業者とは手を切るべきだ」
「ん、……え……?」
「ほ、ほら、見てくれ。金ならある」
男は興奮したように声を上ずらせ、持っていたバッグのファスナーを開いた。見せつけるような仕草につられて視線を動かした片瀬はぎょっと目を瞠る。
現金だ。帯付きの束が、二十はあるだろうか。嘘みたいな大金が無造作に詰めこまれている。
笹本は誇らしげに笑った。
「なんなら今からでも、わたしが返済して借用書を返してもらってくるから……」
「っで、できませ、ん……!」
しゃにむに首を横に振りたくった。男が不満そうに顔をしかめたことにも気付かず、わななく唇を必死に動かす。
理解ができない。自分に何が起きているのか。男が何をしたいのか。だがうなずく気がないことだけは確かだ。じんと痺れたように動かしにくい舌を必死になって操る。
「こっ、これまでも、笹本さんにはお世話になってばかり、で……っこれ以上は、もう」
「遠慮しなくていいんだ。わたしが助けてやる。もうつらい思いをさせたくない」
矢継ぎ早に、歌うように笹本は言い募る。
それでも片瀬はひたすらに首を振る。遠慮ではなく、恐ろしいからだ。
不動産屋の店長と客、それだけの関係の自分に、笹本がこんな大金を用意して手を貸す理由などひとつもない。それも打診されるだけならまだしも、目の前に札束を見せつけられて。まだ若く、世の酸いも甘いも知らない片瀬にだってこれが異常な状況だとわかる。
「結構です、ホントに……そっそこまでしていただく理由も、何も、ありませんから……!」
重なる手を男の手の下から抜き出して胸に引きつけ、反対の手で守るように包む。一ミリでも遠く離れたい心が如実に現れていた。
だが背後の壁は固く、面前の笹本はいつの間にか片瀬の膝の間に立っている。これ以上は距離を取れない。
「理由があればいいんだね?」
「っ、え」
――ぞっとした。
笹本が覆いかぶさるようにして、片瀬を抱き竦めている。背が反るほど強く引き寄せられ、苦しさに喘ぐ片瀬は男の肩に顎を乗せて上向いた。
ビルの間の狭まった隙間から、すっかり赤みの消えた闇夜が覗く。熱に浮かされた頭が束の間の自我を取り戻した。
今は何時だろうか。櫻木はもう近くに来ただろうか。早く会いたいと言ってくれた人は、片瀬の姿が見えなくて帰ってしまっただろうか。
アズくん、どこかな。そう言って時計を見て首を傾げているかもしれない。――早く、はやく、櫻木のところに行きたい。
「離して……」
渾身の力で男を押す。だがびくともしない。腕に力が入らない。思いどおりにならない身体がもどかしく、片瀬は愚図るような声を上げる。
「ぅうう……っ」
「君のことが愛しいんだ……これ以上の理由はないだろう……?」
笹本の熱がこもった声が、耳に直接吹き込まれた。剥き出しの耳に当たっている、かさついて温いそれは唇だ。
勢い勇んだはずの気力が萎れる。熱いはずの身体中に反射的な鳥肌が広がった。
「ぃ、いや、です」
「片瀬くん、片瀬くん……!」
「やだ、……ッは、離してください……!」
片瀬をぼんやりとさせ身体を疼かせていた不可思議な熱は、込み上げてきた生理的な嫌悪感に追いやられていく。おかげで気怠く動かしにくかった手足に力を込めることができた。
胸の前で握っていた両手で、男の身体をぐぐぐと押し返す。脚の間にいる存在を怯ませようと、脚もバタバタと暴れさせた。
それなのに首筋をぬめった何かが這いまわり、耳の穴にねじ込まれ、荒い息でそこかしこを湿らされる。うごめくものの正体が何か、考えてはいけない。
めちゃくちゃに抵抗しているにもかかわらず、笹本は特に気にも留めていないようだった。
(嫌だ。嫌だ。嫌だ……ッ櫻木さん!)
無意識に、最も信頼でき、最も会いたい人の名前を心の中で繰り返す。まるでそれが正気でいるための魔法の言葉かのように。
櫻木に抱きしめられるのは、こんなふうに気持ち悪くなかった。頭を撫でられても、すぐそばに顔を寄せられても、心地よいばかりで嬉しかった。
彼の救いの手は笹本とは全く違う、透きとおった優しさで形作られていたから、恐れ多いと思いながらも安心して身を委ねられたのだ。
されたことはないけれど、櫻木が相手ならば首筋を舐めまわされても、耳をかじられても、荒い息を吹きかけられたって嫌な気持ちにはならない。こんなふうに――力づくで片瀬を押さえつけて好き勝手する人じゃないと、身体の芯まで信じきっているからだ。
「い、や、ですって、っ」
「そのわりには、もうこんなにふくらんでいるじゃないか」
男は片手で片瀬の両手首を握りしめ、反対の手で股間に触れてきた。ありえないことに、手の下では性器が形を変えている。握られてそれを自覚した片瀬は、息をのんだまま目を大きく見開いた。
なんで。どうして。
身体の裏切りが信じられなくて、ざっと心が冷えていく。
「気持ちいいんだろう? こんなにして……いやらしい。いやらしくて可愛いよ」
はあはあと熱い呼気が肌を舐めていくのに、冷えはじめた胸の真ん中はどんどん温度を失う。いやらしいね、と嬉しそうに言う声が、片瀬を妄りがましいと貶めた。
「あんな男は君に似合わない。他にも女がいるのに、君にまで手を出すなんて」
「ぅ、う……え……?」
「可哀相に。君は知らないんだね、あの男には婚約者がいるんだ。そのうち、君は端切れみたいに捨てられる。わかるか? 今に追い出されるんだよ、あの男に」
――あの男とは、誰だ。片瀬が一緒に住んでいるのは、櫻木だ。櫻木に婚約者がいる? 片瀬を捨てる? そんなはずはない、あの人はそんな人じゃない。どうして笹本が櫻木と住んでいることを知っている……?
頭の中はまるで整頓されていない玩具箱だ。手当たり次第に放り込んだ玩具であふれ、雑然として、どこに何があるかわかない。
だというのに、男はまだ片瀬を混乱させる。
「わたしなら君のこの淫らな身体も全部、君だけをずっと可愛がってあげられる」
「み……みだ、ら」
「そうさ。わかるね? わたしだけだ、君を大事にできるのは……」
勃起した性器を服越しに手のひらで味わうように揉まれ、さらに硬くなるのがわかる。だが、そこに快楽はなかった。
反応する身体がおぞましい。ばくばくと心臓が痛いくらいに跳ね上がる。
嫌だと抵抗するくせに分身を硬くしている自分が、片瀬にはぞっとするほど淫らで、意地汚く、穢らわしく思えた。
「片瀬くん、こっちを向いて」
男の顔が近づいてくる。生暖かい息が頬にかかった。
「っぃや……いやです、やめて」
片瀬は壁に打ち付けるほど頭を引き、顔を背けて唇を噛む。
情けなくて仕方がない。いくら動かそうとしても両手の拘束は解けなくて、脚の間の急所を握られると暴れることもできないのだ。どうしてこんなことになったのかと、理不尽さに打ちのめされ、祈りを捧げるように繰り返す。
「さ……く、らぎさ、ん……っ嫌だ、櫻木さん……!!」
「――君の前にいるのはわたしだろう!」
「ひっ」
全身でキスを拒まれた男は目を吊り上げて喚き立てた。乱暴な舌打ちを落とし、空いた手でがっと片瀬の細い顎をわし掴む。
「拒む権利なんて君にはないんだよ……わからないのか? 思わせぶりな態度でいつも誘ってきたのは、君じゃないか」
「し……して、ない……っ」
「嘘をつけ。いつも嬉しそうにわたしを見上げるくせに。哀れな身の上話で同情を引いて、愛されようと画策していたじゃないか。わたしの贈ったスーツを嬉しそうに受け取ったじゃないか……っ」
ひどい物言いだ。涙がにじむ。
見上げるのは笹本が長身だからだし、身の上話は部屋探しのときに事情を察した笹本が協力を申し出てくれたからしたのだし、愛されようと画策するだなんて身に覚えがないにもほどがある。スーツだって、何度も断った。借りるなんてできない、と丁重に。
それら全てが男を誘うのと同義ならば、片瀬はもう誰とも過ごせないし話せない。理不尽な解釈に震え、頭を無理くり振って否定を繰り返す。
「違う……っしてません、そんなつもりない……!」
「ふん……結局は金なんだろう。わたしよりもあの男のほうがより多く小遣いをくれそうだったか? そうだろうな、君は借金漬けの惨めな人生だものな」
「……っ」
「だがよく考えたほうがいい……大企業の若き取締役が自宅に男の愛人を囲っているなんて噂でも立ったら、寄生先を失うだけじゃすまないからな」
言葉の暴力にただ耐えるばかりだった片瀬は、ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
大企業の若き取締役は、櫻木だ。そして囲っている愛人は……片瀬のことだろう。そんな事実がないにしても、噂というものは一瞬で広がるし、櫻木ほどの立場やルックスがあれば面白おかしく取り扱われても不思議じゃない。下世話なスキャンダルはいつの世も民衆の娯楽だ。
「っ駄目です……! それだけはっ」
懇願の声に重なって、ブーッブーッと低い振動音がする。片瀬の携帯電話が着信を受けているのだ。男が忌々しげにリュックサックを一瞥したとき、どこからかパトカーのサイレンらしき音が聞こえてきた。
空気が凍る。男が舌を打った。
「一週間あげよう。よく考えなさい」
ぐいと片瀬の顔を持ち上げ直した笹本は、目を見張ったまま愕然とする片瀬へゆっくりと語りかける。聞き分けのない幼子に道理を説くような口調で。
「来週の土曜、あの事務所で返事を聞こう。安心しなさい、お金は用意しておく。心配しないで、俺のものになる覚悟だけを持っておいで。いいね……?」
「そ、したら、何も、しない……?」
「ああ、そうだ。君がいい子にしていたら、誰にも迷惑はかからないんだよ」
猫撫で声が鼓膜の表面をかすめていく。
笹本は満足そうに微笑むと、片瀬の頭から手を放した。最後にねっとりと耳の穴を親指でくすぐり、金の詰まったバッグを手にする。
「じゃあね、片瀬くん」
身動きのできない片瀬を置いて、男は逃げるように去って行った。
身体の内は熱いのに、外側も、心もひどく寒い。ぼんやりと目の前の褪せたコンクリート壁を見つめる片瀬は、たった今自分に起きたことも、もたらされた不穏も、整理できていない。一体何から考え、どこに行き、何を決めればいいか判然としない。
「さくらぎさん……」
蚊の鳴くような声でつぶやいた。
すると、革靴が地面を蹴る音が近付いてくる。
「――梓真!」
ビルの間に、強張った甘い声がぐわんっと響いた。
嫌なものを追い出すように閉じていたまぶたを開けると、たった今名前を呼んだ男が険しい表情で駆けてくる。
「梓真……っ」
夢でも見ているのだろうか、と思ったとき、温かい腕の中へ囲われていた。ぎゅうぎゅうと苦しいほど抱きしめられている。
汗混じりのウッディ系の香しい匂いが鼻腔を満たすと、細胞までどっぷりと消毒液に浸かったみたいに、自分の汚いところが浄化されていく気分を味わった。
「……どうして……」
「どうしてここに、かな? ……当然だろう。君が僕を呼んでいるのに、駆けつけないはずがない」
荒い息。胸に押し当てられた耳へ、疾走したあとみたいに忙しない鼓動音が届く。こんなになるまで探してくれたのだろうか。
掻き抱くように何度も背中や頭を撫でられるたび、嬉しくて、心地よくて、身体から力が抜けていった。
「帰ろう、アズくん。しばらく目を閉じておいで。全部僕に任せて」
抱き上げられたのはわかったが、自分で歩けます、と強がる元気はない。片瀬は言われるままに目を閉じ、櫻木の腕の中へと潜る。
もう大丈夫だ。
ここは、この世で最も安全な場所。
マンションへ帰り着いた片瀬は、一歩も自分の足で歩くことなく脱衣所にいた。駐車場から自宅まではもちろん、玄関で靴を脱いだら再び抱き上げられ、バスルームへ連れて行かれたからだ。
「アズくん、お風呂に入ろうね」
櫻木はいつもの優しい笑みでそう言うと、ぼうっとしたままの片瀬から丁寧に衣服を取り去った。パンツや靴下まで、椅子に座らせた片瀬に跪いて脱がせるという従僕ぶりだ。
そんなことはさせられない、自分で脱がなければ、と頭の中ではもう一人の自分が悲鳴を上げているのに、現実の片瀬は櫻木を眺めているだけ。バスルームへのたった数歩も歩かせてもらえないまま、同じく全裸になった櫻木に身を預ける。
「ふふ。楽にしていて構わないよ。全部僕がやってあげよう」
ふんふんと鼻歌を歌いだしそうな櫻木は、床暖房のおかげで温かな床に座り、膝を抱いておとなしくしている片瀬を楽しげに磨いていった。髪を洗い、トリートメントをして、ソープで育てたもこもこの泡を潰さないように手で肌を洗う。指の股や腋の下、脚の付け根の皮膚の薄いところまで全部、片瀬の身体で櫻木に撫でられていないところはもうない。
泡を流された頃には、外気に晒されて冷たかった頬にもしっかり血が通い、薄っすらピンクに上気していた。強張って動かしにくかった指先をにぎにぎと動かしていると、櫻木は片瀬の前髪をかき上げて額へ口づける。
ぼう、と反応の鈍い片瀬は不可解なキスに疑問を持たない。
「どうかな。すっきりした?」
「はい……ヴァニラのいい匂いがします」
「そうだろう。きっと君に似合うと思って、フランスのメーカーから取り寄せて今日届いたんだ。気に入ってくれてよかった」
上機嫌な櫻木を見ていると、「わざわざ取り寄せるだなんて」と焦る気持ちが凪いでいく。種類も様々な贈り物に気後れはしても、彼の嬉しそうな微笑みが見れるなら、と思ってしまうのだ。
「櫻木さん」
「ん?」
優しい眼差しが、さらにうっとり細くなる。今日は昨日よりも、紅茶色の瞳が甘そうに見えた。
片瀬は男の膝の間にペタンと座ったまま、静かに待ってくれている櫻木を見返して、それで。
「――……っ」
どうしてか、ほろりと目頭からみっともないものがこぼれ落ちた。そこがきゅうっと熱くなる独特の感覚もないまま、押し出されるように、どこに蓄積されていたのかと疑問に思うほどの量がほろほろと落ちていく。
「アズくん……」
櫻木が驚いているから止めたいのに、全然止まらない。余計に心配させてしまうと思うのに、栓のないボトルを逆さにしたみたいな勢いだ。これは涙じゃなくて、今日飲んだ水分だと言われたほうが信憑性がある。
「……怖かったね」
櫻木は痛ましげにそれだけ囁いて、片瀬を他の何からも隠すように自分の身体で包みこんだ。長い手足で囲い、胸の中へと招き入れる。路地裏から連れ出されるとき以上の安心感だった。
「お、っおれ、びっくりし、て……あんな、あんな……」
男として情けない。だけど、怖かった。
借金が増えたうえに、いい人だと信じていた人物は悪徳業者。それだけでもショックなところに、笹本の不可解な行動、望まない性的な接触――そして脅迫だ。
長身で体格も悪くない笹本は、華奢な片瀬を抑え込むくらい容易い。ウエイトも腕力もはるかに勝る男に迫られ、生まれてはじめて貞操の危機を味わった。
キスひとつ経験のない片瀬にとって、笹本から向けられた欲望の矛先は恐ろしく鋭くて、そして受け入れがたいものだ。身体の反応を揶揄する嘲りも、醜い脅しも、思い出したくない。
大抵のことは一人で乗り越えるつもりで生きているが、今日のことは、すぐには処理できる気がしなかった。
「う、……う……っ」
甘えすぎだと思うのに、囲ってくれる剥き出しの腕に縋りつく。筋肉質な二の腕に目許を押し付けると、こぼれたものは肌を濡らす湯にまぎれて彼を伝った。
「いいよ、泣きなさい。いい子だね、アズくん」
櫻木は片瀬の涙が自然に止まるまでずっと抱きしめていてくれた。ときどき洗面器で掬ったお湯を片瀬にかけては、髪にキスをして、頭や背中を撫でる。
飽きることも急かすこともない大らかさは、嵐の夜みたいだった片瀬の精神を次第に昼下がりの草原へと移ろわせていった。
ずび、と鼻をすすり、腕の中で顔を上げる。
「ぁ、ありがとう、ございます。俺、あの……俺」
「うん、ゆっくりでいい。……湯舟に浸かろうか」
垂れた目尻をとろりととろけさせた男が、甘えるように鼻先同士をすり寄せた。
「……っ」
その瞬間に起きた現象を悟るなり、片瀬は咄嗟に動きはじめていた櫻木を止め、膝をきつく抱いた。
今にも片瀬を抱き上げようとしていた男が、強張る背中を優しく撫で下ろす。
「アズくん?」
動けない。安心して気が緩んだせいか――忘れていたはずの不可思議な熱が、ぶり返したように下肢を侵したからだ。
宿る熱を自覚すると、それは待ってましたとばかりにいきいきと片瀬を追い詰める。どうしてそこが興奮しているのかわからないのに、元より性に淡泊なはずの片瀬の股間は下腹につきそうなほど反り返っていた。
「なんで……」
「ああ……なるほど。状況はわかった」
息を詰めたり吐いたり、オロオロと自分の変化に狼狽する片瀬のそこが見えたのか、櫻木は冷静な声音で言う。
「そうなった原因が何か、はっきりしているかな? 欲求不満だったのか、僕の洗い方が煽ってしまったのか……」
「わ、わかりません、あの、……外、に、いたとき……から」
「外に? いつからこうなっていたの?」
「用を……終えた、あとからです……一度は他のことに気をとられてて、忘れてたんですけど、あの……また」
説明することで羞恥を煽られ、片瀬はぎゅっと目を閉じてうつむいた。
「すみません、しばらく一人にしてもらっても……?」
「それはできない」
きっぱりと言った櫻木をパッと見上げると、思いのほか真剣な表情がそこにあった。しかも、近い。男の睫毛の綺麗な反り具合がよく見える。
「アズくん、いつもと違う何かを口にしたとかあれば教えて? 誰かにもらったお菓子とか、淹れてもらったお茶とか」
「え、ぁ……お茶……甘い、煎茶……です」
「……そう」
男の指先が下腹をまさぐる。性器には直接触れていないのに、淡い茂みの辺りを指がなぞるだけで、張り詰めた鈴口からはぷくっと先走りの露があふれた。
「なんで……俺、病気……?」
こんなふうに自分の意思と関係なく性感が暴走するなんて生まれてはじめてだ。精通自体も平均より遅かった自覚はあるが、その後も特に性衝動などに襲われることもなかった。寝苦しくなってきたら自慰はするが、多くても月に一度で間に合っている。それなのに。
立てた膝をきつく抱き寄せた片瀬の頭を、櫻木が慰めるようにポンポンと撫でる。
「いいや、大丈夫。病気じゃない。……アズくん。僕に任せてくれる?」
「え……でも、俺、変で」
「今日、君はすごくビックリすることがあっただろう? だから身体が反射的に、子孫を残そうとここを昂らせているんだよ」
「本当に……?」
「もちろん。アズくんはもう疲れてるだろうし、あとは僕に任せて。大丈夫。君が怖がることはしない。神に誓って」
そっと指先で肩を叩き、櫻木は片瀬を腕の中へ呼ぶ。
何を「任せる」のか。「任せる」と、どうなるのか。「任せる」を選んでよいものなのか。
疑問がいくつも脳内を巡る。だが片瀬は自然と熱くなる息を唇から逃がすと、「さくらぎさん」と縋るように呼んだ。今できる精一杯の返事だった。
たったそれだけで意を酌んだ男は、籠る熱に侵されている片瀬にもわかるよう、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ありがとう……怖かったら目を閉じておいで。嫌じゃなかったら、僕にしがみついて」
怖いとも嫌だとも思わないから、言い終わるより早く櫻木にしがみつく。するとクスッと笑った男が片腕で腰を支えてくれた。
「リラックスして……大丈夫。僕のことを考えていたらいいよ」
「櫻木さん、の、こと……? なら、いつも、考えてます」
「ああ、ああ……そうか。そう……可愛いね、アズくん」
歓びに嘆くような溜め息が首筋を舐める。脚の間で震える屹立を、そうっと大きな手が包み込んだ。身震いするような快感が指先にまでひたひたと伝播し、片瀬はうっとりと目を閉じる。
言われなくても、櫻木のことで頭はいっぱいだ。逞しい肩に腕をまわし、首元に顔を埋めると心地いい。櫻木はくちくちと労るように片瀬の陰茎を慰めながら、ちゅっちゅっと可愛らしい音を立てて首筋に口づけた。
櫻木になら何をされても、どこに触れられても嫌悪感は毛先ほどもない。思ったとおりだ、と妙に嬉しくなったとき、少し強めの快感が腰に響いた。
「あっ」
「ここが好き? 可愛いね。いっぱい撫でてあげるから、我慢はしないで」
「あ、っあ、あ」
ほどよくくびれを締めつけられながら、丸い亀頭を甘やかすように撫でられている。
普段から触れないせいか、あまりがしがしと扱く刺激が得意でない片瀬は、これくらい緩やかな刺激がちょうどよかった。
「ん、ん……あ、櫻木、さ」
「ん? 気持ちいいかな?」
「い、です、……はぁっ、あ、んん」
「こんなに慣れていないんだねえ……とても素敵だ」
くすぐるみたいなタッチで張り詰めたところを可愛がる櫻木が、腰を抱えた腕を移動させて胸に触れる。白く真っ平なそこを大きな手で柔らかく揉みほぐすと、ポツンと小さな突起の尖端をかすかにこすった。
「んぅっ!?」
微睡むようにとろんとしていた片瀬は、思わぬ刺激に驚いて身体をビクつかせる。その途端、小さく口を開けた鈴口は勢いよく白濁を吐き出した。唐突に絶頂を迎えてしまい、声もなく片瀬が痙攣する。
「……っひぅ……ぁ、あ」
「すまない、アズくん……まさかそんなに感じやすいとは思わなくて、軽率に可愛い乳首に触ってしまったよ……」
射精を手伝うように雄を上下に扱きながら、櫻木はいたいけな果実の様子をつぶさに観察している。強く目を閉じて、人の手がくれる未知の快感に溺れている片瀬は気付かない。
やがて落ち着いた頃を見計らって下肢の汚れを流し、櫻木は片瀬を後ろから抱いたまま湯舟に浸かる。
いつにない快感によって得た放出は、片瀬をいっそうぼんやりさせた。羞恥や申し訳なさはあるが、全身を覆う倦怠感のせいで夢の中にいるようだ。
だけどいくらなんでも、股間のものを慰めてもらうなんてとんでもない行為だ。怖いほどだった興奮がすっかり治まってくると、冷静さが戻ってくる。
雇い主を振り返り、真っ赤な顔で言った。
「あの、……すみません、でした。あんなこと、させて……」
「君が謝ることはひとつもないよ。僕がしたくてしたことだからね」
「そんなわけないです……わかってます、俺が気にしないように言ってくださってるのは」
「本当に違うよ? なんならもう一度して証明しようか?」
咄嗟にぶんぶんと首を横に振る。
櫻木はふふんと勝ち誇ったように笑うと、おいで、と片瀬の頭を引き寄せて自分にもたせかけた。「僕は君が思うほど優しい男ではないよ」と囁いて、こめかみの辺りに柔らかいものを押し付ける。
(俺が思う以上に優しい人だと思う、けど……きっと認めないんだろうな。優しいから)
だったら片瀬が返せるものは、謝罪ではなく感謝だ。
「ありがとうございます……その、いろいろ、全部」
「どういたしまして。アズくんは可愛いねえ。お風呂を出たら一緒にご飯にしよう。今日のアズくんは僕の膝の上でご飯だよ。いいね?」
「わ、かりました……」
声は尻すぼみになっていくが、それも仕方ない。二十歳を過ぎて、こんなに小さな子どものように甘やかされる日がくるとは思っていなかったからだ。
路地裏で見つけてもらって以降の委ねっぷりが信じられない。雲をかき混ぜるように曖昧だった羞恥が、今や体積を伴ってずっしりと片瀬に襲いかかってきていた。
「あの、膝……下りてもいいですか?」
「それはできないねえ」
物静かなそのやり取りは、風呂を出るまでに六回繰り返された。――櫻木は一度も許可を出さなかったけれど。
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