いつつめ

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いつつめ

 寝息が規則正しく、深くなっていく。櫻木の腕の中に埋もれるようにして眠っている片瀬の目許には、泣き腫らした跡が残ってしまった。 (アズくん。……梓真。僕の梓真だ)  子守歌よりもずっと優しくて、母の心音よりもっと安らぐ寝息。このまま目を閉じて朝まで宝物を腕の中へ収めておきたい衝動をいなすと、櫻木は時間をかけて、そうっとそうっとベッドを抜け出した。  足音も扉の開閉音も限りなく小さく務め、リビングへ戻る。  テーブルへ荷物と一緒に放置していた携帯は、ピカピカとメール受信の白ランプを光らせていた。  無表情のままソファに腰かけて携帯を操作する。発信して二秒、即座に馴染みの相手はコールを受け取った。 『おすみですか』  朝昼晩、常に冷静で変わり映えしない花田の声だ。未だ耳の中に残る可愛い寝息が汚されそうで、櫻木はムッとした。そんなものはおくびにも出さないけれど。 「ああ。アズくんは眠ったよ」 『ずいぶん時間がかかりましたね。ショックがひどいようでしたら、適切な医院を手配しますが』 「必要ない。アズくんのケアは僕がする」  フラつく彼を抱き上げて移動するのも、風呂に入れるのも、磨き上げて拭いてパジャマを着せるのも全てやった。風呂を出たあとはケータリングの夕飯を膝に座らせた片瀬に手ずから食べさせたし、眠りにつくまでの添い寝ももちろん櫻木の特権だ。歯磨きは断固として譲ってくれなかったけれど、いつかの楽しみにとっておくのもいい。 『そうですか。ところで、片瀬さんは正直に話してくださいましたか?』 「残念ながら。路地には迷い込んだ、としか言わないねえ」 『困った子ですね』 「いじらしくて健気で可愛いだろう? よほど僕に迷惑をかけたくないらしい」  片瀬が貸金業者を訪ねたことも、その理由も、猥褻行為をした男がいることも、櫻木はわかっている。でなければあんなに路地をくねくね曲がって奥まった場所に連れ込まれた彼を見つけることは難しかった。  片瀬は自分がいた場所も、櫻木が登場したことも、事態を把握している様子なことにも疑問を覚えなかったらしい。恐らく媚薬のようなものを飲まされて身体が昂り、冷静に物ごとを考えられなかったせいだろう。残業だと言った片瀬が五駅も離れた場所にいること自体ありえないのだが、それも辻褄を合わせる余裕はなかったようだった。  だがそれを片瀬にはまだ言うべきときではないし、今日何があったのかを問い詰めて吐かせる気もない。  櫻木にとって最も大事なのは、明日からの送迎をうなずかせることだったからだ。  ベッドへ横になってから、「見つけるのが遅くなってごめん」と、櫻木は彼を抱きしめて謝った。疲れた様子でぼんやりしていた片瀬は首を傾げ、ぽふんと腕の中に身を預けてきて「櫻木さんなら気持ちいいのに」と夢心地でつぶやいた。  前後不覚になりそうなほどの幸福だった。 (あの男……どうしてやろうか)  ほんの小さな静電気だけで爆発しそうな憤りを、まぶたの裏に片瀬の寝顔を浮かべることで窘める。  今はそのときじゃない。だが近々、必ず。櫻木はかつてないほどに憤っている。自分はこんなにも他人へ向けて怒れるのかと、驚くくらいに。  片瀬を撫でていた右手を首にあてる。意識的に細く長く息を吐くと、おっかない爆発物は一先ず鎮まった。 「調査員からの報告は」 『すでにまとめてあります。いつでもあちらを黙らせることはできますよ』 「足りないねえ。黙らせた上で己の愚行を後悔し尽くして、四面楚歌を味わって絶望に沈めてやりたいところだよ」 『お望みでしたら、そのように』  ここまでくるのに時間をかけすぎた。櫻木の苛立ちは自分の能力不足にも向いている。  片瀬の身辺調査報告書で明らかになった驚愕の事実は二点。ひとつは彼が返済し続けている債務についてだ。  貸金業者は業界では有名な悪徳業者で、評判は最悪だった。法の隙間をかいくぐってはグレーゾーンを泳ぎまわり、少しでもしくじれば名目上は倒産し、新たな名で事務所を起ち上げる。コンスタントに金を引っ張れそうな債権者をうまく囲っては、あらゆる手段を用いて債権を増やす手法だ。  恐らく片瀬も同じ手を喰らっているのだろう。食事を抜き、睡眠を削り、やつれるくらい働かねばいけないなんて、真っ当な業者ではありえない。  もうひとつは、片瀬をストーキングする人物がいたことだ。  名前は笹本洋之。――片瀬の住むアパートを仲介した不動産屋の店長であり、ブランドもののスーツを贈ってそれを着せ、ホテルのラウンジに呼び出していた男だ。  片瀬が男で、かつ異常に鈍いせいで表沙汰にならなかったのだろうが、よくこれまで無事だったな、と背中に嫌な汗をかくほど笹本は過激化していた。  尾行、隠し撮り、無言電話……アパートの部屋には盗聴器に隠しカメラが三台、もちろん部屋へ侵入していたのも笹本だ。合い鍵を預かる不動産屋の立場を最大限に悪用した行いに、片瀬が味わった恐怖を思うとこの世の苦汁を全て味わわせてやりたくなる。  そしてこの二点は意外な部分でつながっていた。貸金業者の責任者と笹本は学生時代に接点のある関係だったのだ。  今日の出来事が、最悪な連携プレーであることは想像に容易い。薬で興奮させた片瀬に人目のない路地裏で何をするつもりだったのかなんて、九九のプリントより簡単に答えが出る。 『ちなみに笹本につけている調査員いわく、今夜も片瀬さんの自宅へ寄ったそうですよ。中で何をされているんでしょうね』  吐き捨てるような秘書の声に、櫻木の瞳が昏さを帯びる。 「この間、アズくんを迎えに行ったときに軽く牽制しておいたんだけどねえ……怯むどころか博打を打ってくるなんて、完全に理性を手放しているとしか思えない。アズくんに執着する気持ちは、わからないでもないけれど」 『ですがおかげで、言い逃れできない証拠がそろいました』 「――花田」  自覚する以上に鋭い声音になった。それを一身に向けられた相手はしかし、子どもならば身震いして固まるような気迫も軽く受け流す。 『失礼。冗談が過ぎました。間に合ってよかったです』 「まったくだ。本当に……僕のアズくんにベタベタと。早く社会的に殺してやりたい」 『僕の』  櫻木は不遜に鼻で嗤うと、強調するように再度「僕の」と宣った。 『それは何よりです。ようやく自覚なさったようですね』 「ああ、……僕は童貞だ」 『そら見たことか。……失礼』  昔はよく言われた台詞に、思わず笑んでしまう。  思えば花田は、櫻木が片瀬に出会った当初より常にない貢ぎぶりと可愛がりぶりを指摘していた。恋心にさえ気付かない姿が、彼には恋愛経験皆無の童貞男子に見えたことだろう。まったく、情けない限りだ。  心底呆れた顔を思い出すと多少苛立つが、さすがは三年も長く生きているだけある。 「年の功だな、花田」 『そうでしょう。どうぞ敬ってください』 「善処しよう」  壁掛け時計を見上げると、ベッドを出て十五分も経っている。そろそろ戻って、彼を抱きしめて眠りたい。 「来週の土曜、アズくんにも出かける旨を了承させた。それまでに調整してくれ。室内クリーニング業者の手配も頼んだよ」 『承知しました。では』  早く切りたがっているのを察した秘書は、余計な言葉なく通話を終える。  櫻木は片瀬を眠らせている、自分の部屋へ戻った。  ふわ、と香るのは仄かなヴァニラ。美容大国フランス製のオーガニックシャンプーの香りをまとった片瀬は、いつも以上においしそうだ。  足音を消してベッドへ近づき、部屋を出る前と同じ体勢で埋もれている青年のそばに腰かける。眉間にきゅっとしわが寄っていた。指先でそこを優しく撫でると、泣いて赤みの残る目許にかけてがほっと和らぐ。まるで、櫻木がそばにいて安堵するように。 (呼んでくれたね。聞こえていたよ、ちゃんと)  小さな声だったけれど、あれは片瀬の声を拾い上げてくれた。悲鳴交じりの助けを求める声。呆然としてそれしか言葉を知らないかのようにつぶやく声。頼るのが下手な彼が示してくれた、深い信頼とささやかな甘えだ。 「……あずま」  声には出さず、吐息だけで名前を呼んだ。  じっと見つめていると、身じろいだ片瀬が頭を動かす。もぞもぞしているかと思えば、顔のそばにあった櫻木の手のひらに頬を乗せ、幸せそうに唇をほころばせた。  片瀬を癒しだと、櫻木はもう言えない。 (僕はなんて鈍い男だったんだろう。こんなに可愛がりたいのに、そばにいてほしいのに、なんでもしてあげたくなるのに、ただの癒しなはずがない)  胸に渦巻くのは、片瀬を言葉でいたぶり、無断で触れた男への苛烈で暴力的な激情だ。それは櫻木が片瀬に対して所有欲を抱いているからに他ならない。  さらに言えば、これまで覚えたことがないほどの肉欲を自覚している。風呂ではよく耐えたと自分を褒め湛えたいくらいに、白く細い肢体を抱きこんで、欲情していた。こればかりは経験豊富でよかったと思う。そうでなければ股間の一物が頭をもたげるのを止められなかったし、勃起してしまえば片瀬の柔肌にこすりつけて放埓するまで無体を働いていたかもしれない。  他の何よりも大切だと思うこの感情を、己の欲望だけで穢したいと乞う激情を、恋と呼ぶのだろう。  片瀬を守り、慈しみ、安穏な日々をあげたいと思う気持ちは消えていない。むしろ恋情を自覚する前より今のほうが、その想いは強くなっている。 (今日みたいな思いは、もうさせないと誓うよ。僕は君のそばにいて、誰より幸せにする。……好きだ、梓真)  片瀬の頭を手に乗せたまま、櫻木はベッドに身を滑りこませた。今にも暴走しそうな欲情を、深い愛しさで押さえつける。  その息苦しさも丸ごと、片瀬を大切にするためなら苦痛だとは思わなかった。  ***  翌週の土曜日、片瀬は櫻木に付き合ってどこかへ出かける予定になっていた。午前十時きっかりにマンション前まで迎えに来た花田の車に乗り、おとなしく後部座席に座っている。 「アズくん、いい天気だねえ。お出かけ日和だ」 「そうですね」  隣の櫻木はニコニコと楽しそうだ。車窓を流れていく景色は穏やかに晴れ渡っている。 「今日はどこへ向かうんですか?」 「ふふ、それはねえ、秘密」 「また秘密ですか……」 「社長、いい年をしてかわい子ぶるのはいかがかと」 「いいじゃないか。アズくんもそう思う?」 「いえ、茶目っ気があって素敵だと思います」 「聞いたかい花田、アズくんが僕を素敵だって」 「ええ、聞いておりますよ。片瀬くんは気遣い屋さんですね」  つれない態度で笑う花田の声を聞きながら、片瀬も顔に愛想を浮かべる。だが内心は少しとまどっていた。とうとう今日になっても、櫻木はおろか、花田まで行き先を教えてくれなかったのだ。  片瀬が櫻木に路地裏で保護されたあの夜、彼は「土曜日、午前中だけで終わるから用事に付き合ってほしい」と打診してきた。  すっかり住み込みハウスキーパーとしての生活に馴染んでいる片瀬だが、櫻木の偽恋人役も仕事のうちだ。詳しいことは何も言われていないが、恐らく恋人のフリをすればいいのだろう。花田が同席するならば会社関係――もしくはそれに準ずる何かの集まりなどだろうか。うまくできるかどうか緊張するが、せめて一度だけでもちゃんと役に立てるなら本望だ。  櫻木の用事がすんだあと、片瀬は貸金業者の事務所に行くつもりでいる。  業者にも、そして笹本にも指定された期限は今日。双方ともに櫻木の存在をちらつかせたとくれば、彼らになんらかのつながりがあることは明白だ。 だが、わかったところでどうしようもない。片瀬は借金があるし、櫻木の存在を知られている。  事務所に行って、櫻木にも、当然笹本にも頼らず自力で返済すると訴えるつもりだ。すんなりと彼らの思惑に乗る気はない。笹本の湿った息やスーツ越しでも熱い身体、粘ついた不埒な指先を思い出せば嫌悪感を覚えるし、そもそも借金を他人に返済してもらうなんて道理がとおらない。 (うなずいてくれると、いいなあ……)  ただ――どう転んでも、櫻木と一緒に出掛けるのは今日が最後になる。事務所での話し合いが終われば、片瀬は今夜にでも櫻木宅から離れる気でいた。  本来なら即座に辞するべきなのだろうが、用事に付き合う約束をしたためそうもいなかったのだ。しかし業者や笹本が櫻木に何かを仕掛けてから離れるのでは遅い。  片瀬が困るのは仕方がなくとも、彼は違う。片瀬の問題に巻き込んでいい人じゃない。笹本が言うようなスキャンダルのリークなんて、絶対にさせてはいけないのだ。  もしも――もしも櫻木に何もしないと約束してくれるのならば、片瀬には男の元へ行く覚悟があった。これは最後の手段だからと、吐き気のする想像を腹の底へ押し込める。 「そろそろ到着します」  花田の淡々とした声に顔を上げ、ぎょっとした。もとより大きな目を限界まで見開き、見覚えのありすぎる風景を凝視する。  昼間はそこそこ人が多く行き交う、駅前の道路沿い。三階建てオフィスビルの一階には、相変わらずなんの会社かわからない事務所がある。  動揺がすぎて言葉が出てこない。  午後に片瀬が一人で訪れるはずの場所へ車がつけられ、櫻木に連れられるまま車を降りた。  ぎこちなく男を見上げる片瀬に対し、彼は恐ろしいほどいつもどおりだ。優しい笑顔で、大事そうに片瀬の肩を抱く。 「さあ、行こうかアズくん」  そっと促されるが、地に根を張ったように足が動かない。 「ど……どこに、ですか」 「アズくん」  駄々っ子を宥めるような声だ。驚嘆し平静を失っていた片瀬は、ある可能性に思い至って千切れそうなほど首を横に振る。 「駄目です。行きません」 「梓真」 「嫌です。お願いです……帰りましょう、櫻木さん。お願いですから」  困ったな、と言いたげに、男の眉が八の字になる。彼を困らせたくなどないけれど、おとなしく従うわけにはいかなかった。  櫻木はきっと、片瀬を連れて貸金業者の元へ行こうとしている。彼が何をどこまで知っているのかもわからないが、そんなものは些末なものだ。櫻木をあの事務所へ連れて行ってはいけない。そんなことをしたら――片瀬を見捨てられない優しい彼は、悪徳業者の食い物になってしまうではないか。  背に触れたままの腕を両手でしっかと抱き、片瀬は移動しようとする。花田の車は近くのコインパーキングに行ったはずだ。今から追いかけて、すぐ自宅へ取って返してほしいと頭を下げるしかない。 「アズくん、僕は帰らないよ。それに、君が思っているようなことは起こらない」  いくらぐいぐいと引いても男の身体は動かない。体格差がもどかしく、顔がくしゃりと歪んだ。 「駄目なんです、本当に、っお願い……」 「駄目じゃないよ。可愛いなあ君は」 「社長、往来で鼻の下を伸ばすのはおやめください。若い子をナンパする悪いおじさんみたいですよ」  呆れ返った声へ振り向くと、車を停め終えたらしい花田がやってくる。片瀬が目を白黒させるほど無礼な物言いだったが、櫻木はちっとも意に介さない。 「仕方ない。アズくんは可愛い」 「はいはい。では早速参りましょう。片瀬さんも」  潔癖そうな面立ちをした花田は、常に変わらない起伏のなさで片瀬を見据える。 「お気持ちはわかりますが、ここで説明をさせていただくわけにもまいりません。今はおとなしく櫻木に従っていただけるとありがたいのですが」  敏い秘書には片瀬の動揺も懸念も見透かせるらしい。有無を言わせぬ圧に、気付けばおずおずと首を縦に振ってしまっていた。 「おいで、アズくん」  櫻木は片瀬の手を取り返し、オフィスビルの色褪せた階段を上っていく。先週足を踏み入れたばかりの事務所は、なんら変わりなく心の冷えた片瀬を迎え入れた。  業者は片瀬以外の二人に面食らった様子だったが、平然とソファを勧める。向かいに業者、こちらは左から片瀬、櫻木、花田と並んだ。  事務所に入る前、片瀬は櫻木に「何があっても黙って見守っていてほしい」と言われている。何か考えがあるらしい櫻木たちとは違い、無策で現状についていくのがやっとな片瀬はうなずくしかなかった。  まず最初に口火を切ったのは、真ん中でゆったりと座る櫻木だ。自分と秘書の自己紹介をさらっとすませ、最後に爆弾を落とす。 「ずいぶんわたしの身辺も嗅ぎまわってくださいましたし――名乗らずともご存じでしょうが」  笑顔で名刺を受け取っていた業者のこめかみが、ぴくりと動いた。 「なんのことでしょう。ところで、本日は何用で?」  一瞬、こちらを捉えた業者の視線が険を増す。片瀬から何かしらリークがあったと思ったらしい。  奥歯を噛んで視線に不感を決め込んでいると、櫻木が「では」と笑顔で男の意識を攫う。 「単刀直入にいきましょう。片瀬くんへの貸付金額の水増しと、架空債務のでっち上げについてですが」 「――……!?」  息をのみ、頭が真っ白になった。耳を疑う発言を何度も脳内で繰り返し、ただ固まる。水増しに、架空債務。口にしたことも、考えたことすらない言葉だ。  櫻木は嘘をつかない。だがそうなると、片瀬のこれまではなんだったのか。信じたいのか信じたくないのか不明瞭な気持ちのまま、業者に目を向ける。  業者は一言も発さないまま、不自然なほど無表情に櫻木をねめつけていた。 「……恐れ入りますが、意味がわかりません」 「お好きなだけしらばっくれていただいて結構。さて、まず彼の父親の債務についてですが」 「その債務は確かに存在しています」 「ええ、彼のお母君が亡くなったとき、あなたが別の業者から買い上げていらっしゃる。そうですね?」  丁寧に問われた男は片瀬を気にする様子を見せた。それもそうだろう、片瀬は男に、母と生前から長い付き合いがあったと聞いているのだから。  しかし片瀬が何も言い出さないのを見ると、開き直ったように鼻を鳴らした。 「ええ、そのとおりですけど」 「その時点で商事債権としての時効五年は成立、残高は四十二万円でしたね」 「っ、――」 「いくら片瀬くんが法定相続人だとしても、時効を過ぎた債権……しかもゼロを二桁も足して吹っ掛けるのはいかがなものかと思いますよ」 「ぁ、ありえないことを、言わないでいただきたい。何を根拠に……」 「民間の鑑定機関に借用書のコピーを提出し、偽造鑑定を行いました。こちらが鑑定書です」 (えっ……)  花田がガラステーブルに数枚の書類を並べて置いた。そこには確かに、偽造されていることを示す鑑定結果が記されている。 (でも、どうして借用書のコピーを櫻木さんが……っあ)  彼の自宅へ住み込むことになった際、そういった大切な書類については彼の好意で金庫に保管させてもらうことになったのを思い出した。ならば機関へ提出することも容易い。  片瀬がひとつ疑問をクリアにしている横では、変わらぬ笑みがいっそ怖いほどの櫻木が、淡々と業者へ悪行を突き付けていた。 「借用証書の改ざんは犯罪のはずなんですがねえ」 「そ、そんなもの、そちらでいくらでもでっち上げが可能でしょう。それで?」  かなり苦しそうだが、業者はまだ白を切る。  予想の範囲内なのか、櫻木のほうは苛立つ様子もない。 「では次に、新たに発覚した彼の父の借金についてですが、これは架空ですね」 「……っですから、どこに証拠が?」 「それは……」  櫻木が言葉に詰まったものとみると、業者は片頬を引きつらせるようにして醜悪な笑みを浮かべる。責められるばかりの状況から、攻勢に転じられる隙を見逃さなかった。 「もしかして言いがかりですか? 困りますね、証拠もないのに人聞きの悪い。こちらも商売ですんで、きっちり証拠を出してもらわないと。あれば話くらいは聞いて差し上げるのもやぶさかでないですが……ねえ? 大企業の御曹司は、世間知らずでいけない」  いくらなんでも横柄すぎる言い草だ。片瀬自身が貶められるのは構わないが、櫻木に対する暴言は我慢ならない。 (だけど、何も言わないって約束した……っ)  ぐっと拳を作ったとき、櫻木は片瀬の手を膝の上でそっと握る。それだけでカーッと頭にのぼった血が元の場所へ帰っていった。  いいから、もう少し待っていて。  そんな声が今にも聞こえてきそうな甘い眼差しで、櫻木は片瀬を優しく包み込む。だが業者へ顔を戻すと、笑っているのに紅茶色の瞳は冷え冷えとしていた。 「証拠があればよい、と言うのでしたら……見せていただきましょうか」 「はあ? 何を……」  ――業者の背後に、受付の女性が立った。気配に驚いて振り向いた業者は、唖然としている。  彼女は大事に持っていた数枚の書類を、決意したように花田へと差し出した。 「こちらがでっち上げの借用書で、こっちが改ざんする前の借用書原本です」 「お預かりします」 「……ッ!? 待て、何をしている!」 「おっと……暴力はいけませんよ」 「……!!」  男は思わずといったふうに立ち上がるが、予測していたように花田が女性をこちらのソファの後ろへ避けさせた。  謀らずも一対四の図式が出来上がり、業者は憎々しげに片瀬と受付女性を交互に睨む。そして最後に、櫻木へ。 「お前……ッ」 「その様子では自白したようなものだけどねえ……必要とあらば、わたしは再度鑑定機関へ原本を提出する心積もりがありますよ。あとから手を加えれば間違いなくインクの成分や新しさで引っかかるでしょうが、どうします?」  沈黙がひどく長く思えた。しかし実際には、たったの十数秒だっただろう。  業者は力なくソファへ腰を下ろすと、四角い眼鏡をテーブルへ置いて、投げやりに背もたれへ身体を預けた。 「……どこから、謀っていたんだ」 「わりと最初からですよ。彼の身辺調査をさせたら、すぐにこちらの事務所が浮上する。自覚されているでしょうが、あなたのやり口はド素人と騙され体質の人間にしか通用しない。彼のやつれ具合とここの評判を見れば、すぐに詐欺だろうとわかりましたから」 「それで鑑定にまで?」 「ええ。面白いことに同じ頃、うちが懇意にしている調査会社の下請けにわたしの調査依頼が入ったんですよ」  舌を打ったのは業者だった。整えている髪をぐしゃぐしゃに掻きまわす。 「顧客情報の保護に問題ありだな、あの会社は」 「運が悪かったんですよ。何せ所長は、わたしと親しい学友だ。快くあなたへ提出する調査結果に、わたしの指示した内容を盛りこんでくれました」 「っは。近々売却する別荘が安く見積もっても相場二千万だっていうのは、嘘か」 (二千万……?)  金額が引っかかって、櫻木の横顔を見つめる。  片瀬の視線に気付いているだろうに、男はぎゅっと手を握り直しただけだった。 「ちょうど手離す物件があって、入ってくる大金があって、しかも彼を可愛がっている……さぞかし楽に金づるになると誤解してくださったでしょう」 「ふん。いつこっちの社員まで味方につけたんだか」 「それも結構早かったですよ。証拠の提出と告発、それから調査への協力で罪が軽くなる、と説得させていただきました。きちんと良心を持った、頭のいい受付嬢を雇用されていたようですね」  片瀬は必死で頭を巡らせ、櫻木の語る真実を追っていく。どれもこれも寝耳に水だが、全て櫻木が片瀬のために動いたものだ。片瀬がちゃんと把握しないといけない。 「ああ、ちなみに……あなたたちにつけた調査員から、笹本はすでに身柄を拘束されたと連絡がきていますよ」 「――え?」  思わず疑問の声を上げたのは片瀬だけだった。  その反応を鼻で笑い、業者は項垂れる。 「そうだろうな。今度はなんだ。警察ともズブズブか?」 「失礼な言い方をしないでいただけるか。確かに知人はいるが、横領は犯罪だ。まあ……彼が務める不動産会社の本社には、経理部に友人がいるのでね。ちょうど横領の疑いがあって内部監査が動いているとのことだったから、ちょっと協力させてもらいましたが」 「うまくやれと言ったのに」 「一気に二千万も動かすなんて無謀でしたね。よほど我を忘れていたんでしょう」 (あのお金……会社で横領した二千万だったんだ……)  ぎゅっと、櫻木が片瀬の手を固く握りしめた。少し痛い加減のそれに、今は安堵する。  櫻木は――片瀬が隠しているものも、片瀬に起きたことも、全て知っていた。知っていて、何も言わず人を動かし、金を使い、救おうと動いてくれていた。 (どうして、ここまで…………) 「――わからないな」  悪あがきのように言い捨てる声が、片瀬の意識を連れ戻す。ハッと男を見ると、彼はまるで生理的嫌悪を催す何かを見るように、頬を歪めて片瀬を一瞥した。 「自分が騙されていることにも気付かない馬鹿な若者のために、よくここまで金と労力をおかけになる。よほどあっちの具合がいいのか?」  あっとがどっちかはわからないが、男の言うとおりだ。片瀬にだってわからない。愚鈍に言われるまま金を払うしか能のない自分を、なぜ櫻木のような素晴らしい人が気に掛けるのか。  返せるものなどありはしないのに。  彼に得など、ひとつもないのに。 「――搾取することしか知らないあなたには、わかるはずもない」  ピリッと空気が緊張感を帯びた。ほわほわと柔らかく甘い綿菓子みたいなバリトンが、今は鋭く尖る無数の氷柱みたいにキンと冷えている。  片瀬は息をのみ、業者は蛇ににらまれたように言葉を失った。優しいだけの御曹司ではないのだとたった一言で知らしめた櫻木は、一瞬にして硬質な雰囲気を取り去る。 「ではわたしたちはこれで失礼しよう。彼女は責任を持って警察署へ送り届けますが、あなたは……どうぞご自由に。我が国の警察組織はなまくらではないですから」  暗に「逃げても無駄だ」と言い含める櫻木の横で、証拠となる書類原本を大事にビジネスバッグへしまった花田が立ち上がる。 「車をまわしてまいります」 「よろしく。さあアズくん、帰ろうか」  事務所を出て行った花田の背を目で追うと、呼ぶように櫻木が肩をポンと叩いてきた。  帰ろう、と誘う声に、うなずいていいものか迷う。このあと自分がどうすればいいのか、片瀬にはまだ判断がついていなかった。 「――俺……俺は」 「うん、わかっているよ」  狼狽が過ぎて返事もできない片瀬の手を引いて、櫻木は当然のように連れ帰った。事務所を出ても車内でも、マンション前で車を降りても離さずに。  家につくと、いつも二人で並んで座る大きなソファの真ん中に促される。今まで固くつながっていた手が離れると、そんなはずないのに自分の一部がなくなったような不足感を覚えた。 「アズくん。話がしたいんだけれど、構わないかな」  彼は隣に腰かけることなく、片瀬の前のカーペットに座りこむ。今度は両手同士をつなぎ、トントンと上下されると、今からちゃんと向き合いますよと先触れされているようだ。  実際そのつもりなのだろう。事務所で業者相手に見せた冷たさなど欠片も残っていない甘い表情は、片瀬が落ち着き、きちんと話を聞ける状態になるまで待つよと言ってくれているように見えた。  いつまでもオロオロしているわけにはいかない。 「あの。俺は……もう大丈夫です。すみません、ずっと黙って聞いているばかりで、何も言えなくて」 「あの場では僕が君にそうお願いしたんだ。だから任せてくれてとても助かったよ。まずは信じてくれてありがとう、とお礼を言わせてほしい」 「そんな……! お礼を言うのは俺のほうです」 「いや、僕はたくさん勝手をしたからね。謝りたいことも、いっぱいあるんだ」  苦笑する櫻木は、後ろ暗いものはないと示すように真正面から片瀬を見上げる。 「ひとつめは、君に無断で君の身辺調査をしたこと。知ってのとおり僕はボンボン御曹司だからね……心配した花田が手配した。僕もわかっていて止めなかった。すまない」 「櫻木さんの立場を考えれば当然のことです。得体のしれない俺みたいなのを家に招き入れること自体、危ないですから」 「僕は人を見る目はあると思ってる。君ならなんの問題もないと確信があったから、花田が調査の手配をするのを黙っていたんだ。ただ……その過程で、債権を持っている業者の評判が悪いことと、笹本のストーキングが明らかになった」 「ストーカーって……」 「非通知電話や、家に侵入していたんだ。ずいぶん君に執心していたからね」  嘘のような話だ。だが路地裏での笹本を思い出せば、納得できる部分もある。 「えっと……その、いつから知ってたんですか……?」 「君がこの家に住み込んでくれるようになって、すぐだよ。自宅への不法侵入の件も、調査会社からの報告で真相がわかった。まあ……それが笹本でなくとも、見知らぬ誰かが侵入できるような部屋にアズくんを帰らせる気はなかったんだけどね」  あのとき、強く住み込みを勧めてくれた櫻木にはいくら頭を下げても足りないくらいだ。 もしも自宅で眠っている間に笹本が侵入したら――考えるとぞっとする。 「それから……ふたつめ。君の借用書のコピーを、勝手に鑑定機関へ提出したこと。僕を信用して預けてくれた気持ちを無碍にするような行動をとって、本当にすまない」 「ぁ、謝らないでください。それは……俺のために、してくれたことなんですよね」 「もちろん。悪意なんてないよ」 「だったら……俺こそ謝らなければいけません。何も知らず、櫻木さんにばかり負担をかけてしまいました」 「いいんだ、好きでしていることだから。……許してくれるかな、アズくん」  こくこくと何度もうなずき返す。言葉にして「許します」と言うのは傲慢な気がして、とにかく首を縦に動かした。  櫻木は安堵したように、ふうと息をつく。 つないだ両手を下から持ち上げ、祈るように自分の額へ押し当てた。 「あとね。もうひとつ」 「はい……?」 「君にあげたうちの社のマスコットキーホルダーに、盗聴器とGPSを仕込んであるんだ」 「――え!?」  まさかそんな、と泡を食う片瀬を上目遣いで見つめる櫻木は、まるで怒られるのをわかっている大型犬のようだ。 「不法侵入の件を知ってから、君に何かあるんじゃないかと思って心配で……僕の家にいる限りは安全だけど、通勤中は何があっても不思議じゃないだろう?」 「ええと……場所、……え、音……?」 「もちろん通勤時間だけしかチェックしていないよ。誓って本当だ。君のプライベートを無暗に監視するためのものじゃない。信じてほしい、としか言えないんだけど……」 「あ、大丈夫です、それは信じてます。ただちょっと驚いただけで」  細長いフォルムのマスコットに、まさかそんな機械が埋まっていただなんて想像もできない。あとで触ってみよう、と考えていると、櫻木がおかしな顔をした。 「僕が言うのもなんだけれど、アズくんはもう少し人を疑ってもいいと思うよ」 「……? それは、はい、今後は気を付けようと思ってます。でも櫻木さんを疑う理由なんて何もないですから」 「……僕だから信じてくれるってことかな?」 「はい。俺、櫻木さんなら嘘ついてても信じます」 「そう……可愛いね、梓真」 「っ……」  つないでいた手が離れ、頬へ添えられる。男の灼けつきそうな眼差しに捉えられ、片瀬は息を止めた。  櫻木は硬直する片瀬を、ゆっくりと抱き寄せる。嫌なら逃げて、と猶予を持たせるように時間をかけて。  座ったまま上半身を倒し、片瀬は男の腕の中へ埋まった。嫌がる理由なんてものは、いくら考えても出てこないからだ。 「だからね、先週、君に何があったかは、全部聞いていたんだ」 「――」 「業者に何を言われたのかも、現れた笹本が君に何を吹きこんだのかも……僕に助けを求めてくれたことも」  情けないが片瀬は、櫻木にそう言われてようやくあの日の不自然さに気付いた。  彼が見つけてくれたとき笹本は去ったあとだったのにもかかわらず、「怖かったね」「助けるのが遅くなってごめんね」と、櫻木は片瀬に起きたことを知っている様子だった。場所だってそうだ。残業していたはずの片瀬が自宅と逆方面の駅付近にいたことを、彼は指摘しなかった。 「そうだったんですね……」 「何が起きているかわかっているのに、すぐ助けてあげられなくてごめん。調査員は笹本と顔見知りだから介入できなくて……携帯のアプリでサイレン音を鳴らしてはくれたようなんだけれど」 「あ、それ、聞いた気がします……」 「僕は最悪なことに、事故渋滞に巻き込まれてしまってね。力不足で、怖い思いをさせてしまった。僕以外の男が君に触れていると思うと……はらわたが煮えくり返るかと思ったよ」  乗り出すような体勢だった片瀬は、男の腕に抱き寄せられるまま床へ膝をついた。するとあの日風呂場でそうしてくれたように、長い手足と逞しい身体、嗅ぎ慣れた深みのある香りに包まれる。  男なのに、変かもしれない。だけど隠すようにハグされるのが、片瀬をとことん安心させた。  守ってもらって、甘えさせてもらって……何もかももらってばかりだ。彼は見返りを求めない。 「……どうして?」 「ん?」 「どうして、ここまでしてくれるんですか」 「君を助けたいと思ったからだよ」  どうして助けたいと思ってくれたのか、と続けることはできなかった。  首元に埋めていた顔を上げさせられ、至近距離で視線が絡む。ほどけない糸みたいに逸らせない。逸らしたくない。  とろけた表情で微笑む男を、いつまでも見ていたかった。 「もう大丈夫だよ、アズくん。これまで支払った分が全額戻ってくる保障はできないけど……借金はもうないし、増えない。君を脅す不埒な輩もいない。――自由だ」 「自由……」 「そう。これまでよく頑張ったね」  ぱっと咲いた色とりどりの花が胸を埋め尽くし、むせ返るほどの甘い香りでどうにかなりそうだった。額の真ん中にちょんと押しつけられた唇の感触にそわそわする。 「さ、櫻木さ、っ……、あのっ」 「ん?」  ちゅ、ちゅ、と楽しげなリップ音が弾んでいる。額だけにとどまらず、櫻木が片瀬の顔中に口づけるからだ。目頭のくぼみ、目尻、こめかみ。頬に鼻先、黒子の上。  こんなスキンシップを誰かと交わした経験のない片瀬は慌てるが、押し返しはしない。嫌じゃないからだ。嫌じゃないというよりは――嬉しいと思うからだ。 (嬉しい? ……うん、俺は嬉しい。じゃあ櫻木さんは……?)  キスができるなら、櫻木の中には片瀬への特別な好意がそれなりにある、ということじゃないだろうか。先日は特殊な状況だったとはいえ、彼は嫌がることなく身体に触れてくれた。そして労力も金も厭わずに、片瀬を自由にしてくれた。  だけど確かめる勇気はないし、なんて言えばいいのかもわからない。  与えられるキスにいちいちビクつきながら悶々としていた片瀬は、そこでハッと我に返った。 「っあ、あの!」 「ん?」  なんだか夢心地でハグとキスを甘受していたが、まず整理しなければいけないことを見逃すところだった。  男の腕と離れがたさを振り切って、櫻木のそばに正座する。 「今回、櫻木さんにはたくさん助けていただいて……たくさんお金を使わせてしまいましたよね。俺のせいでかかったお金と、こちらでお世話になった分を請求してください」 「君のせいでかかったお金? そんなものは一円もないけど」 「え、……え?」  キョトンと目を丸くされ、片瀬も同じように顔中へ疑問符を躍らせる。  一円もないだなんて、そんなはずはない。調査会社へ依頼した調査費用や鑑定機関に支払う鑑定料はもちろん、マスコットに仕込んだ機械だって購入したものだろうし、家賃光熱費食費などの生活費だってかかってくる。  だが、そう言う前に櫻木はニッコリ笑った。 「ちなみに調査費とか諸々を思い浮かべているなら、あれは君にかかったお金ではないからね」 「そんなはずないです」 「あれは僕が安心したいがために、君の安全を買っただけ。僕が自分のために使ったお金なのに、君に請求するなんておかしいだろう?」  片瀬は息をのんだ。男が一切合切の支払いをうやむやにする気だと察したからだ。  真っ白になりそうな頭をどうにかこうにか稼働させ、櫻木を納得させられる理由を探す。 「い、いえ、でも結果的に俺が助かったんですから、やっぱり俺が生活費と併せてお支払いするべきです」 「うーん……アズくんがそこまで言うなら、支払ってもらおうかな」 「っはい!」 「アズくんが払うんだよね。だったら僕は、、契約書にないマッサージや買い物、休日の外出に同行させた分を算出して支払うことにしよう」 「は――」  完全に頭が働かない。ニコニコ笑顔の櫻木は動かない片瀬の頬を、指先でつんと突いて楽しそうだ。 「明日にでも花田に計算しておいてもらうね。たぶん君の支払う分と同額だから相殺できて楽だ。それでいいね?」 「――」  勝てない。どう考えても櫻木の主張はおかしいし、片瀬のためでしかないのだが、何を言っても予想外の角度から球を打ち返され続けて、立ち尽くすように力が抜ける。 「櫻木さんって……穏やかなのに、結構押しが強いですよね……」 「うん、よく言われるよ」  ご満悦な男を見つめ、片瀬は小さく溜め息を吐いた。彼が全力で片瀬のためを思って言いくるめにきてくれているのはわかる。だから「請求してほしい」は聞き入れられないだろう。  でもその優しさに甘え続ける理由はない。 「では……俺、すぐにでも自宅へ帰ります。お世話になりました」 「……え」  ぴし、っと櫻木が真顔と笑顔の間みたいな顔で固まった。 「今、なんて……どうして」 「もう部屋に侵入する人もいませんし……櫻木さんにこれ以上の負担やご迷惑をおかけする理由がありません。ハウスキーパーのお仕事は、元々通いのお約束でしたから」  声ににじみそうな寂しさは、必死で隠す。  いくら櫻木との生活が幸せだったからといって、いつまでも続くものだとは端から思っていない。そのときが来ただけだ。 「――駄目だよ」 「え? ……っ?」  しかしむっすりと眉を寄せた櫻木は、二人の間の数十センチを嫌がるように片瀬を再び抱き寄せた。膝の間に仕舞いこむと、ぎゅうぎゅうと長い腕で包んでしまう。 「ここにいて。帰るだなんて言わないで……お願いだよ。アズくんがいないと、困る」  一瞬、ドキッと大袈裟に跳ねた心臓が口から飛び出しそうになった。なんだか熱烈な告白を受けているような気になったからだ。  でも、そんなはずはない。片瀬は男の広い背中をそうっと撫でる。 「大丈夫です。ちゃんと恋人役も務めさせていただきますから」 「それはもういいんだ。見合いを勧めてくる親族はもういない」 「え……?」 「そんな理由なしに、僕は君がここにいてくれたらいいのになって思うよ」 「それは……どうしてですか……?」  二度目の「どうして」を、恐る恐る差し向けた。ごくりと喉を鳴らす。  片瀬は自分の中に期待の感情があるのを感じていた。恥ずかしくて口にはできないけれど……櫻木の口から、片瀬への好意があふれてくれるのではないか、と期待している。  櫻木は頬を片瀬の髪へ擦り寄せると、ゆっくりとした口調で言い聞かせた。 「君は料理の腕もいいし、よく気が付くし、何より笑顔に癒される。そばにいると幸せで、離れているとさみしくて……そう思っているのは、僕だけ?」 (――ずるい)  願っていた言葉ではないけれど、そんな甘い声で、切なそうに、嬉しいことばかり言わないでほしい。触れれば溶ける雪のように頼りなく、全身が形を失いそうになる。  ぎゅっと男の服を握った。握ったら、今度は手離し方がわからなくなった。  ――櫻木のことが、特別な意味で好きだ。  同性だけど、年は離れているけれど、雇用主と被雇用者だけれど……どうしようもなく惹かれている。ハグやキスが嬉しくて、彼のそばにいたくて、離れたくない。二十一年間生きてきてはじめての感情でも、これが恋だと本能でわかった。  櫻木も片瀬に特別な好意を抱いてくれているのだと思う。キスや甘い言葉は、その証拠のはずだ。  笹本は櫻木に婚約者がいると言っていたが、そのような気配はないし、櫻木は不誠実な男ではない。だから片瀬が彼の想いに応えることは、問題ないのだ。 「俺も……俺も、好き……です」  本心を言葉にするのは緊張したが、言ってしまえば清々しいほど幸せになれた。好きな人へ好きだと言えることが、こんなにも心地よいのだと知らなかった。 「ああ、アズくん……」  苦しいくらいの抱擁にかすかに喘ぎながら、片瀬は男の首筋へ顔を擦り寄せる。 「引き続き、ここにいさせていただいても、構いませんか……?」 「もちろん。ありがとう……嬉しいよ」 「俺も……」  ひっしと抱き合い、しばらくして顔を見合わせ二人で照れる。  はじめての恋人を前に舞い上がる片瀬の額に、櫻木はコツンと自分のそれを重ね合わせた。 「アズくん」 「はい……?」 「これからは……好きな服を買うとか、休みの日に出かけるとか……なんの意味もなくおいしいものを買って食べるとか、流行りの曲を聴くとか……恋をするとか。そういう普通の生活を送ってほしい。それが僕の願いだよ」 「……はい」  まばたきのたびに、そんな生活をする自分が浮かぶ。そのどれにも、隣には櫻木がいた。ただの願望だが、片瀬はそれが自分の未来だと信じて疑わない。 「キスをしようか。君の唇に触れたい……」  潔く直截な物言いに、神経が灼き切れそうなほど鼓動が高鳴る。うるさすぎて櫻木に聞こえてしまわないか、気が気じゃないくらいだ。  片瀬は油をさしていない機械みたいにぎこちなくうなずくと、唇を引き結び、ぎゅっと目を閉じる。  柔らかな感触が口の斜め下辺りをちゅうっと吸った。 「え?」  唇へのキスじゃなかった。  思わず目を開けると、ほろりとほころんだ笑みが広がる。  櫻木はポカンと半開きになった唇をすかさず奪った。 「ん……!」 「ふふ、ごめんね。ここの黒子が色っぽくて気に入ってるんだ。それに、あんまりにも緊張してるから」 「い、いえ、すみません、慣れてなくて……」 「はじめて?」  二十一にもなってファーストキスもまだなんて、きっと未熟だ。そう思ったが、片瀬は櫻木に嘘をつけない。  小さくうなずいて「すみません」と小声で謝ると、こめかみの辺りで男の唇が感嘆の息をこぼす。 「謝らないで、すごく……どうしようかなって思うくらい、嬉しい」 「変じゃないですか……?」 「変じゃないよ。本当に嬉しい。はじめてにこだわるような考えは持っていないはずなのに……君にはじめて口づけたのが僕だなんて、光栄すぎるよ。ああ、アズくん……可愛い。僕のアズくんだ。これから少しずつ、僕のやり方を覚えてくれる?」 「はい、覚えたいで、っん……」  啄むように上唇と下唇をそれぞれ交互に吸われている。一体こちらは何をするべきなのだろう。恋愛ドラマのひとつでも見ておけばよかった、と後悔してもどうにもならない。  不慣れな行為に強張る背中を一定のリズムで撫でる櫻木は、吸われてぽってり赤らんだ唇を今度は食べるように覆うキスで優しく噛んだ。  途端、ぞくんと腰のほうへ何かが駆け下りていく。スイッチが切り替わったかのように、濡れた表面をこすり合わせる動きにぞわぞわと身体が落ち着かなくなってきた。 「っん、ぁ、あの」 「ん……?」 「なん、か、変……っぁう、ぅんん」  訴えている途中なのに、ぬるりと唇のあわいから濡れたものが口内へ侵入してきた。それはうねうねと動き、熱くて、それからどことなく甘い。片瀬はぎゅうっと目を閉じ――櫻木の舌を受け入れる。  まるで生き物みたいに動く舌は味わうように口の中をあちこち舐めていく。歯の並び、舌の裏、上顎……ざらざらとした表面も。くすぐったくてビクッと肩が跳ねたところは、しつこく何度も舐られる。するとだんだんと、くすぐったいところはじわじわとした気持ちよさを孕みはじめた。 「んっ、んん……ッんぁ、あ、待って、ンん……っ」  夢中になって櫻木の舌の動きを追っていると、脚の付け根にそっと手を這わされた。驚いて顔を離しても追ってきた唇に捕らわれる。その間に、櫻木の手はさわさわと片瀬の股間を妖しい仕草で撫でた。 「ふ、ふぁっ、あ、なんで……っ」 「ここ、硬くなってるね。僕のキス、気持ちいい……?」  首を縦にガクガクと振る。いいです、と言葉にするのが恥ずかしかったせいもあるが、一番の理由は中心に与えられる快感で変な声が出てしまいそうだったからだ。  風呂で慰めてもらったときは、明らかに何かおかしなことになっていたから、まだいい。でも今は――あのときとは違い、冷静だ。なのに恥ずかしい声が出てしまうなんて、羞恥でどうにかなってしまう。 「すみません、あの、そこ触らないでください……っ」 「どうして?」 「駄目になっちゃう、ので……あの、ホントに」  大きな手のひらを押しのけようとするのに、男は片瀬の抵抗などものともせずそこをカリカリと爪先で引っかく。布越しに撫でる刺激が唐突にピリッとした甘辛さを含み、意図せず腰がビクンと震えた。 「な、なんで、そんなことするんですか……っ」 「可愛いね……理由なんて単純だよ。ここを可愛い形にしたのは僕だからね。だったら僕が可愛がって、気持ちよくさせてあげないと」  櫻木が耳元に「嫌?」「いいって言って」とバリトンボイスを吹きこんでくる。低い声と熱い吐息が、煽られた身体には毒だった。 「や……じゃ、ない……っ」  持て余すような重苦しさが腹の奥にぐるぐると集まっている。すっかりジーンズの中が窮屈になるほど育った屹立を揉みしだかれれば、ひとたまりもなかった。 「いい、です……っあ、あ、……!」 「ありがとう……たくさん気持ちよくしてあげようね」  膝の上へ引き寄せられてからは、まさしく官能の世界だった。  櫻木の指先はひどく巧みで、直接大きな手のひらに包まれ、優しく指先で弱いところを撫でこすられると、片瀬は簡単に欲を散らす。最後の一滴までしぼり出すように丁寧に扱かれ、柔らかくなった幹を可愛がるように転がされ――甘い悲鳴を上げる唇はおいしそうに食べられた。  身体がバラバラに千切れ溶けてしまうかのような快感。途中から片瀬は自分が何を口走ったのか、どれだけ啜り泣いたのかわかっていない。  そうして若い身体を性的に目覚めさせた櫻木は、片瀬のそこから先走りすら出なくなるまで時間をかけて果実を可愛がった。
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