2526人が本棚に入れています
本棚に追加
むっつめ
大手投稿型レシピサイトと社の新製品とのタイアップ企画が持ち上がり、櫻木はもちろん、各担当部署も多忙さを増していく十二月某日。
リテイクを繰り返しブラッシュアップされた企画案に目を通していると、風に乗ってふわんと濃い珈琲の香りが鼻先に漂ってきた。
「いい香りがするねえ」
「ようやく気付いてくださいましたか。そろそろ一息入れてはいかがでしょう」
デスクの斜め前には、昔から変わらない真面目一辺倒な鉄面皮。しかし花田は手のひらサイズの玩具みたいな団扇で、櫻木にそよそよと風を送っている。
なるほど、珈琲を置いて扇ぎ、香りをお届けしてくれたのだ。
声をかけても櫻木が動かなかったせいだろうが、堅物男がこうもお茶目な行動に出ているということはすでに休憩時間だ。抱え込んでいた仕事をデスクへ戻す。
「すまないね、いただくよ。……ん、ちょうどいい熱さだ」
「それはようございました」
団扇を引き出しに仕舞った花田は自分のデスクへ戻る。オンオフをきっちり分けたいタイプの彼は、寛ぎモードで自分用のカップを傾けた。
「あなたは昔から、何か思うところがあるとき脇目も振らず勉強に集中するワーカーホリック予備軍のような生徒でしたが」
「うん?」
「最近もずいぶんと躍起になって仕事をされているように思います。何か悩みごとでも?」
静かな部屋に、コチコチと時を刻む音だけが溶けていく。片瀬にも好評な気に入り珈琲店特製オリジナルブレンド豆で花田がドリップしたそれを飲みながら、櫻木は首をひねった。
「なんにもないねえ」
「本当ですか? 最近、休憩時間以外は鬼のように仕事をされていますが」
「当然だろう、僕は早く帰りたいんだ。今日は会社が創立記念日で休みらしくてね、待ってますね、って照れくさそうに送り出してくれたんだよ、本当に一刻も早く帰りたい」
「――」
一瞬にして全てを悟った秘書の顔が、目に見えて死んだ。今にも「めずらしく心配して差し上げたのに理由がゲームを買ってもらったばかりの小学生のようですね」と刺々しい調子で言い出しそうだ。
「……うまくいっているようで」
「そうなんだよ、とってもうまくいっているんだ……!」
花田がこめかみに指を当てた。しかしそんな仕草ひとつでは、片瀬との満ち足りた毎日を誰かに話したくて仕方がない櫻木は止まらない。
「彼を困らせる問題は解決したし、僕を好きだと言ってくれたし、今も変わらず一緒に暮らしてくれて……もうね、素晴らしいよ。幸せいっぱいで、人生ってなんていいものなんだろうと毎日実感しているんだ」
「はあ、そうですか」
「かあわいいんだ、僕のアズくんは……」
三百六十度、死角なく可愛いだなんてずるいにもほどがある。だがそのずるさまで可愛い。櫻木は年下の恋人に文字どおり夢中だ。
想いを通わせた日から、キスは何度もした。毎日のハグも回数が増えたし、より濃厚になっている。
エッチなことはまだ恥ずかしさが先立つらしく、無理強いしないようにときどき触らせてもらうだけに留めているが、少しずつ快感と櫻木の愛撫に身体を慣らして自然に欲しがってくれるのを待つつもりだ。自分が達したあとにこちらの下半身事情を気にする素振りだけで、数日のオカズには困らない。
「アズくんがいるから僕は毎日頑張れるよ。ねえ花田、同棲っていいね。すごくいい。大事な人と気持ちを通わせることができるって、最高だよ」
「はあ、そうですか」
「なんだい、さっきと同じ返事じゃないか。まるで面倒だから適当に返事しておこう、っていう雑さが透けて見えるようだ」
「はあ、そうですね」
「語尾を変えたところで同じなんだけどね」
いつの間にか煎餅の袋を開けておやつを食べていた男が、胡乱げに櫻木へ視線を投げる。
「では、年長者として言わせていただきますが」
「何かな」
「あなた恋愛素人なんですから、ことは慎重に運ばねばいけませんよ」
恋の自覚が遅かった櫻木は立場が弱いものの、穏やかな作りの顔にはありありと不満が広がっていく。
「慎重に運んだものが実を結んだんだよ?」
「いえいえ、これからです。恋愛というものは厄介で、通じ合うまでも大変なのに通じ合ってからも大変なんですよ。あなたは片瀬さんが初恋のようなものですから、浮かれるのはわかりますけどね。十四も年上のおっさんなんですから、丁寧にリードしてあげてくださいよ」
「君は心配性だね。まあ、アズくんとあれから会っていないのだから、いまいち確信が持てないだろうけど……僕とアズくんはいわば運命の出会いを果たした恋人同士なわけだ。つまり並み大抵の絆じゃないってことさ。何も問題ないし、心配いらないよ」
先日の一件で是が非でも片瀬に何も支払わせまいと言いくるめた結果、今後はきちんと生活費を納めるという彼の言い分を櫻木も飲んだ。妥協点を探り、折り合いをつける――これぞ恋人との同棲がうまくいっている証拠だ。
尊敬と思いやりが夫婦円満には必要不可欠なのだと、自他ともに認めるおしどり夫婦な両親は口を揃えて言う。櫻木と片瀬の間には最初からあったものだ。
彼は櫻木のしでかした勝手への謝罪を受け入れて、今でもあのマスコットをつけてくれている。中の機械もそのままだ。いわく、「櫻木さんを信じてますから。破いちゃうの可哀想ですし」らしい。可愛いは罪だ。
「もはや僕たちは新婚だ。花田も早くこの幸せを味わえばいいよ」
「それは追い追い。ところで提案なのですが、片瀬さんと恋人関係――「新婚ね」――失礼。新婚関係になったのであれば、新たなハウスキーパーを手配いたしましょうか」
櫻木の横槍を迷惑そうに受け入れつつ、花田が言う。
「あなたが無駄に顔がよく、無駄に物腰が柔らかく、無駄に親切なせいで惚れた腫れたで面倒なことになってはいましたが、決まったパートナーがいる今であれば問題ないかと思います」
「いや、それは必要ない。うちにはアズくんがいるからね」
「どういった意味でしょう?」
「そのままの意味だよ。僕はアズくんの手料理が食べたいし、彼と二人で暮らす家にはなるべく人を入れたくない」
「それでは片瀬さんの負担が多いのでは?」
「家事の負担を減らすための設備投資は惜しまないよ。ただね、ある程度そうやって役割を与えておかないと、彼はお給料を受け取ってくれないだろう?」
櫻木としては、片瀬はそばにいてくれるだけでお小遣いを貢ぎたい存在なのだが、潔癖な彼は頑として納得しない。であればこれまでどおりハウスキーパーの役割を与えておき、報酬を受け取ってもらうのが一番だ。
彼の懐も潤い、櫻木も満たされる。片瀬から支払われた生活費をなんという名目で給与に上乗せするか考えるのも楽しい。
そう説明するにつれ、秘書の顔がぐんにゃりと崩れていった。
「本気ですか、あなた」
「うん? 僕が君に嘘を話してなんの意味があるんだい?」
「はあ……そうですね。そういう人でしたね。気遣っているようで無神経というか……ボンボン恋愛童貞恐るべし、といったところでしょうか。わたしは片瀬さんに同情します」
何を無神経だと言うのか、何に同情するのか。花田は心配性で口うるさく、未だに櫻木を浅慮な学生だと思っている節があるから、これも年長者の余計な懸念だろう。「まったく最近の若い者は」と口癖のように言う上役と似たようなものだ。
「何を心配しているのかは知らないけど、問題ないよ。僕が幸せにするからね」
「そうですか……応援しております」
「ありがとう。さて、新婚と言えばハネムーンだよね。どこに行こうか……」
年末年始までは一ヵ月もないから、海外旅行の計画は難しい。だから直近は国内旅行に留め、来年の長期休暇に合わせて日本を発つのがいいだろう。
「まずは寝台列車でのんびりもいいし、大型客船も捨てがたいねえ……ただ、海外に行くならヨーロッパがいいと思うんだけど、どう思う?」
「……わたしではなく片瀬さんにお訊ねするべきでは?」
「それもそうだ。ああ、でもその前に、彼のアパートを解約して荷物と住民票も移してしまいたいねえ……クリスマスデートの計画も立てたいし」
全てを一気に叶えるのは難しいが、ひとつずつ二人で腰を据えて過ごせるように整えていきたいところだ。ゆくゆくは籍を入れたいと思っている。いずれ鬼籍に入った後、離れ離れになるなんて耐えられない。
黙々と計画の算段をしていると花田の内線が鳴る。視界の端で応対した男は「お通ししてください」と返し、席を立つと社長室の扉へ向かった。
どこかに行くのだろう、と横目に一瞥した櫻木が再び片瀬を思い起こしていると。
「失礼します」
「え? っアズくん……!」
花田の開いたドアからひょっこり顔を出したのは、櫻木のマイスイートハートその人だった。温かそうな服とマフラーを身にまとい、おずおずと入室してくる。真っ白ふわふわのニットがまるで雪うさぎのようだ。抱きしめたい。
こっそりランドリーサービスに依頼して彼の古びた私服を処分し、買い与えたものを着るよう誘導した甲斐があった――と、和みかけた櫻木はハッとした。
「どうしたんだい、何かあった……? 言ってごらん」
「急にお訪ねしてすみません。これをお渡ししたかっただけなんです」
鬼気迫る櫻木の様子に慌て、片瀬が腕に抱えている茶封筒を差し出した。それは今朝がた櫻木が自宅の玄関に忘れてきたものだ。午前中の会議に使用する予定だったのだが、うっかり留守番させてしまった、と笑ったのは数時間前のこと。
「持って行っても構わないか、メールを入れたのですが……お返事がなかったので、怒られたら謝ろうと思って持って来てしまいました。あの、すみません」
「どうして謝るんだい……ありがとう。僕こそメールに気付かなくてすまない。わざわざ来させてしまったね」
「それは全然……夕飯の買い物に行こうと思っていましたから」
茶封筒を受け取って花田に横流しする。会議は書類の内容を暗記していたため滞りなく進んだし、すんだ会議のための資料はもう必要ない。だが櫻木のために迷いつつも会社までやってきてくれた片瀬の思いやりには、感謝とあふれんばかりの愛を返したいところだ。
「アズくん、座りなさい。せっかく来てくれたんだから、温かいものでも飲んでいって」
「え、っいえ、もう失礼します。お仕事の邪魔をするつもりはないので」
「片瀬さん、お気になさらず。今はちょうど休憩中でしたので上へお通ししたんです。早く帰りたいがために仕事の鬼になっていらっしゃる社長の息抜きに付き合ってくださると、わたしとしてもありがたいです」
ナイスアシストだ。いかにも本心から言っていますといった顔つきでの説得に、片瀬は素直に揺らいでいる。実際の本音は「すぐに帰られてしまったら後々社長が面倒くさいです」辺りの線が濃厚だ。
花田の援護射撃に真正面から被弾した片瀬は、いいのかな、と窺うように櫻木を見上げる。もちろん全力でニッコリ笑ってうなずくと、ようやく緊張気味な顔に微笑みが浮かんだ。
「では、お言葉に甘えて少しだけ」
「よかった。さあ、こっちへおいで」
片瀬の肩を抱き、隣り合ってソファへ落ち着く。しばらくすると珈琲とお茶請けを運んできた花田が、「空気を読んで差し上げますよ」と言いたげに櫻木を見て、退室して行った。
「櫻木さん、仕事の鬼になっているんですか?」
「そうだね、早く帰ってアズくんに会いたいなあって思うから」
両手で持ったカップを口に運ぶ片瀬が、照れくさそうにはにかむ。このたまらない可愛さがあればお茶請けはいらない。
「お……俺も、ですけど」
「え? 俺も、とは……アズくんも僕に早く会いたいって思ってくれているってこと?」
わかっていてすっとぼけて見せると、人を疑うことを知らない純朴な青年はみるみる耳を赤くしてこくんとうなずく。柔らかそうな睫毛がふわっと上を向いて櫻木を窺い見た。
「でも仕事の鬼は駄目です」
「うん? どうして?」
「無理はしないでほしいので……」
窘めるような眼差しには、心配なんです、といじらしい思いが内包されている。
櫻木はうずうずと胸の中をくすぐられている気分になって、無意識に両腕を広げた。
「失礼します」
が、可愛い片瀬を抱きしめる寸前にノック音が響き、花田が申し訳なさそうに扉を開けた。
「……何かな?」
「夢野様の帰国スケジュールが決まったそうで。わたしのほうでリスケしておいても構いませんか?」
「ああ、そういうこと。いいよ、君に任せる」
「承知しました。では、日中の社長室だということをお忘れなきよう」
余計な釘を刺していったせいで、櫻木は広げた腕をそっと下ろすしかない。気持ち的には気にせずゴーゴーなのだが、片瀬が気まずそうに腕を見ているからだ。
「ごめんね、邪魔が入ってしまって。続きは家でしよう」
「は、はい……」
邪魔をされたのは腹立たしいが、予告に恥ずかしがる片瀬が非常に尊いから花田には一応感謝してもいい。狼狽えてしきりに珈琲を飲んで間を持たせる片瀬をこっそり眺めて楽しんだ櫻木は、そうだ、と手を打った。
「さっき花田が言っていた夢野は、うちと同じくグループ傘下の企業でね。海外でアパレルブランドを展開している女社長さんなんだ」
「そうなんですね。今度帰国される……とおっしゃっていましたが」
「ああ。忙しい合間をぬって帰国すると、僕に接待を求めてくるんだよ。まあ、気心知れた相手だからいいんだけど……気持ちよくしてあげないと、すぐ不貞腐れる我儘な子でね。ふふ、そこが可愛いんだけれど」
「――」
これまでは年に一度、都合をつけて会うようにしていたが、今後は顔を合わせる頻度も増える。櫻木は早く片瀬と夢野を会わせたくて仕方がなかった。
夢野は幼少期からともに育った妹のような存在で、表向きの許嫁であり――実際は優秀な片腕・花田の婚約者だからだ。
ようやく櫻木にも大切な人ができたと知れば、夢野も手を叩いて喜んでくれる。
「な、仲がよろしいん……ですね」
「もちろん。一応、許嫁だからね。君にも早く紹介したいよ」
片瀬はぎこちなく笑ってうなずいた。見知らぬ女社長に紹介されるのは緊張するのだろう。そういう控え目なところも、櫻木の心をわし掴みにする。
「やっぱり一度だけ抱きしめてもいい?」
我慢できずにおうかがいを立てると、片瀬は小刻みに首を振った。
「……駄目です」
「そう。わかったよ」
「すみません……」
「いいや、真面目な君はとてもいいと思う。可愛いね」
いつも困ったように心なしか垂れている眉が、今日は一段と八の字を描いている。
うっかり本能のままにぎゅっと抱きしめてしまいそうになって、櫻木はおとなしくカップを手に取った。
***
櫻木の休憩時間が終わる頃社長室に現れた花田に先導され、片瀬はエントランスへ向かっていた。
「大変ですね、あなたも。あのような方に目をつけられて」
「……? もしかして、櫻木さんのことでしょうか……?」
「他にいないでしょう」
いつも背筋が伸びていて髪にも乱れがなく真顔な人だ、と思っていたけれど、片瀬を横目に苦笑する彼はことのほか優しそうに見える。到着したエレベーター内へ片瀬を促し、パネル前にポジションをとる仕草や振る舞いは洗練されていて、秘書というより高級ホテルのホテルマンみたいだ。
「大変だ……と思ったことは、ないです。俺にはもったいないくらい、よくしてくださいます」
「そうですか。何かありましたら、わたしにどうぞ。社長とは子どもの頃からの仲ですから、お助けできることも多いかと」
「そうだったんですね。……あ」
ふと、先ほど櫻木から聞いたばかりの話が脳裏をよぎる。
櫻木は嘘をつくような人じゃない。だけど『許嫁』が本当にいるなんて思いたくないし、思えないのだ。
「さっき聞いたんですが……夢野さんという方は、ご婚約者さんなんですか……?」
広めの箱が一階エントランスへ向かって下りていく。わずかな浮遊感を自覚できないほど、片瀬は緊張していた。
花田は束の間目を瞠ると、困ったように微笑んだ。
「まさか、そこまでお話しになっていたとは。……ええ、そのとおりです。婚約者です」
「――……ッ」
息をのむ。ショックで、その場に崩れ落ちそうだった。花田はそれほど親しくもない片瀬に冗談を吹っ掛けるような人ではない。
つまり、真実だ。
「……どんな方なんですか?」
「そうですね……素晴らしい方だな、といつも思います。少々気が強いのですが、一本芯の通った性格をされております。頑固である分、進む先のビジョンがぶれない方ですので部下にも慕われておりますし、意外と影の努力も惜しまない女性で……深く信頼しております。今は海外にいらっしゃいますが、そろそろあちらを育てた部下に任せ、帰国して新たな会社を設立しようと考えていらっしゃるほど精力的なんですよ。まあ、そうなったらまずは結婚ですが」
「結婚……」
「ええ。念願です」
歌うように饒舌に語る花田を見上げ、片瀬は口を噤む。いや、ただ何も言えなかっただけだ。
櫻木を子どもの頃から知り、今では秘書を務めるほど近くにいる人物がこれほど称賛する女性だ。聞く以上に素晴らしい人なのだろう。
ポーン、と可愛らしい音がして、エントランスに到着したエレベーターの扉が開く。受付に用がある花田とはここでお別れだ。
挨拶を交わすと一礼して踵を返し、広々としたエントランスを突っ切る。
――櫻木には婚約者がいた。
その事実は中々片瀬の心身に浸透せず、肌を伝う水滴のように上滑りしていく。だが理解はしているし、疑ってもいない。
与えられた衝撃をどう実感すればよいかわからず、どの角度から傷つけばいいのかもわからないだけだ。要は混乱している。
(櫻木さんは、どういうつもりで俺に……き、キスとか、してくれたんだろう。俺はどういうつもりでいればいいんだろう……?)
見たことも聞いたこともない食材を渡されて、とりあえずおいしいものを作れ、と指示されるような困惑だ。
しかしそれも、この日櫻木が帰宅するまでのことだった。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」
夕飯の支度をする片瀬を後ろから抱きしめて頭に頬ずりしていた櫻木が、何かを思い出したように切り出す。玄関で思わずお帰りなさいのハグを遠回しに拒んでから、ムッツリとした顔で離れようとしなかった男が両肩を掴んで身体を向き合わせてきた。
「な、なんでしょう……?」
「今日、花田にいろいろ聞いたんだってね。ついあれこれ話してしまったそうなんだが、よく考えれば、君が誤解しているんじゃないかと心配していたんだよ。僕との関係について」
さあ、と冷水を心臓に直接浴びたような寒気がする。
「関係、って……?」
恐る恐る長身の男を見上げると、彼は釈然としない様子で首を傾げていた。
「夢野の話をしたんだろう? 改めて説明する必要もないと思っていたんだけど……君は誤解なんてしていないよね?」
「――」
念押しされて、ぐじゅっと心のどこか、柔らかくてひどく弱いところが押し潰れた。この瞬間、片瀬は櫻木の真実を実感したのだ。他でもない本人の確認によって。
櫻木には婚約者がいて、片瀬とは特別な関係じゃないから、誤解してはいけないのだと。
(なんで……なんで。櫻木さん、……)
子どもみたいに泣き喚いて足を踏み鳴らしたい気分だ。だがそんなことを大人はできないから、自分にとって淀んだ泥水だと知っていて真実を飲み干す。
笹本の言葉を思い出した。彼は櫻木に婚約者がいるとはっきり言っていた。それを櫻木に確認もせず否定し、そばにいていいのだと、彼の気持ちを特別な好意だろうと思いこんだのは片瀬の勝手だ。突き詰めていけば、どう考えてものぼせあがった片瀬の自意識過剰じゃないか。
返す言葉は、この世のどこを探してもひとつだけだった。
「――もちろんです。誤解なんて……しません」
「だよねえ? よかった。いい子だね、アズくん」
大きくて少しかさついた、男の手。それが頭をよしよしと撫でる。子猫を愛でるように、犬を褒めるように。それから優しく引き寄せる動きに逆らって、片瀬は櫻木から離れた。
その手はどんなつもりで抱き寄せようとしてくれたのだろう。どんな意図で、あんなに優しく触れてくれたのだろう。
わかることは、これ以上勘違いして甘えてはいけないことだ。
男の顔を見れないまま、料理を盛った皿で両手を埋めてダイニングへ逃げる。
「ご飯の支度しますね」
頭を撫でてほしい。あの腕の中に埋まっていたい。でも、そうしていいのは片瀬じゃない。
はじめての恋は片瀬を途方もなくふわふわ嬉しくさせたが、はじめての失恋は果てない虚無感を教えた。最低限の衣食住に困りかけたときとは違った不安で、薄っぺらい胸の中がすうすうする。
解けてバラけそうないかだを両手足でつなぎ止めるような不安定さを身の内に押し込める片瀬は、顔いっぱいに困惑と不満を浮かべた櫻木に気付くことはなかった。
――夢野深月、二十八歳、女性。アパレルブランドMimoza(ミモザ)社長。大学時代にブランドを立ち上げる。現在は渡米しニューヨーク支社に勤務――。
基本的なパーソナルデータへ視線を滑らせる。「夢野 アパレルブランド 女社長」と検索すれば一発で情報がヒットした。
早々に弁当を食べ終えた片瀬は、人のいない昼休みの事務所で一人、携帯をぽちぽちと弄る。夢野のことを知りたいなら婚約者の櫻木に訊ねるべきだとわかっているが、どうしてもできなかったのだ。昨夜はショックが先立って、質問どころか櫻木の顔すらまともに直視できなかったのだが。
夢野は生まれも育ちもお嬢様で、櫻木家とは何代も前から親交深く、次男の櫻木大成とは間違いなく許嫁だった。
渡米してからは遠距離恋愛を続けていたが、夏の株主総会で夢野の社長引退が発表されている。即座ではないものの、三年以内には経営権を副社長に移し、自身は筆頭株主として前線を退く意向のようだ。そのため、次の帰国ではとうとう婚約発表するのでは、と――片瀬が読んでいるネットニュースには書いてある。親しい友人N氏とやらがソースらしい。
テレビやラジオ、ネットニュースを見る習慣がない片瀬は、自分に失望していた。これまで娯楽品を購入するという発想すらなかったから、週刊誌なども買って読んだことはない。だが無知は理由にならない。少し調べればわかるような情報を仕入れていなかった片瀬の罪は重い。
きちんとした生まれのきちんとした許嫁がいる男性を好きになり、甘え、そして好かれているのだと勘違いして身体の関係を持ってしまった。口づけ、身体に触れてもらい、浅ましくその手を精で汚したのだ。弁明の余地はない。
(馬鹿だな。想いが通じ合って恋人になれたんだ、とか……本気で思ってた自分が恥ずかしい)
偽りの恋人をやめた。だからって本当の恋人になろう、とは言われていない。ハウスキープの手際や能力は褒めてもらえたが、片瀬を愛していると告げられたことはない。
櫻木と片瀬はただの雇い主とハウスキーパーのままだったのだ。考えてみれば当然だ、給与が発生しているのだから。恋人と同棲している家の掃除や食事の支度をして、賃金が発生するなどおかしいに決まっている。
はじめて櫻木が休日に連れ出してくれた日を思い出す。
なぜ男の片瀬に恋人役を頼んでまで見合いを嫌がるのか、と訊ねた。本当は恋人がいるのか、とも。櫻木はイエスとは言わなかった。その代わり、ノーとも言わなかった。
運命の人にもう出会っているかもしれないね、と笑っていた顔を、はっきり覚えている。くっきりと心に刻まれるくらい思い出深い夜だったからだ。
(見合い話は親戚の人が持ってくるって言ってた。夢野さんっていう婚約者はいるけど、ずっと海外だから……そういう隙を狙ったんだろうな。でももう見合い話は来ないって……つまり、夢野さんが帰国して、結婚する準備がはじまるってことだ)
複雑な事情や思惑が一本の線でつながったような気がした。片瀬はどうしようもない恥ずかしさに、額を押さえて項垂れる。
(どうして櫻木さんはキスとか……してくれたんだろう)
そこが不可解だ。片瀬はキスや抱き合う行為を、恋人同士がするものだと思っているのだが、違うのだろうか。
「片瀬くん、大丈夫……?」
「え? っあ、はい、大丈夫です」
声をかけてきたのは四十半ばの専務だった。唸っていた片瀬は彼が事務所に戻って来たことに気付かなかったらしい。
専務は片瀬の咄嗟の返事を信じていないのか、眉をひそめている。
「本当に? 今日はずっと暗い顔になってるぞ。最近は顔色もいいし元気そうだったのに……何かあったなら話してごらん」
彼は社長の娘婿で、子どもに恵まれなかったからと夫婦そろって一番下っ端の片瀬を可愛がってくれている。大物家電を買い替えの際に譲ってくれたり、いただきものの野菜や銘菓などをおすそ分けしてくれていた。
幸せそうな体格と渋い顔立ちの彼は、今でこそ妻に逆らえない穏やかな男性だが、若い頃はそれはモテてモテて大変だったのだと妻の経理事務員がぼやいていたのを思い出す。
「……ちょっとだけ、お訊ねしたいことがあるのですが、いいでしょうか」
「おお、いいぞ。なんでも」
たくさんモテてきた専務なら、片瀬の疑問への答えを持っている気がした。
「その、何も聞かず、率直に教えてほしいのですが……」
「ああ」
「婚約者のある男性が、自分に気のある人にキ、っキス、とか、するのは、その……どうして、でしょうか」
「……片瀬くん」
「ち、違いますよっ、知人……知り合いの話なんですけど。俺はその、そういう経験がないので、全然わからなくて……」
「そうか、片瀬くんのお知り合いの話か。そうだよな。なるほどな……」
難しい話題なのか、専務は早くも寂しくなりはじめた後頭部の髪を撫でつける。
「うーん、あー……その、妻には」
「もも、もちろん言いません。男同士の秘密というか……ぜひ、正直に意見を……」
他に頼れる人などいない。男性社員は他にもいるが、女性関係に明るそうなのは――専務の妻には申し訳ないけれど――彼しか思いつかなかった。
男は事務所を見回して、誰も戻ってきていないのを確認する。そうして腰を折り、片瀬と内緒話の距離まで近づいた。
「そのだな……どうしてもキスしたくなるくらい、可愛いと思ってしまった、とか……」
「は、はい」
「あとは気持ちに応えてあげられないのが申し訳なくて、せめて……ってのもあるかもしれないな」
「つまり、可哀想で……?」
「そりゃあ、まあ。だってそうだろう。自分には妻になる人がいるけど、その子は自分のことをたいそう好きでいてくれる。可愛いし、可哀想だ。キスくらい減るもんじゃないし、なあ?」
誰にともなく同意を求めるように「なあ」と再度呟き、専務はそわそわと事務所の外を気にする。そろそろランチにでかけた女性陣が戻ってくる時間だからだろう。
「専務、ありがとうございます。今の意見参考にします」
「ああ。くれぐれも妻には……」
「言いません。約束です。専務も俺がこんな相談をしたことは……内緒で」
小さな秘密を共有した男は、そそくさと自分のデスクへ戻っていく。そのすぐあと、かしましい女性陣が戻ってきて事務所は一気に賑やかになった。片瀬もお土産のオヤツをもらい、目まぐるしく話題の変わるおしゃべりに巻きこまれたり、聞き役に徹して昼休みを終える。
(そっかあ、可哀想に見えたのか)
専務の意見を聞いて納得した。
片瀬が櫻木への恋を自覚したのは借金問題と笹本の件が解決した日だが、櫻木は敏い。その前から片瀬の秘めた想いに気付いていたとしてもなんら不思議はない。
そしてあの人は、とんでもなく優しいのだ。それはもう、ほぼ初対面の片瀬を心配して仕事を作り、部屋を貸し、服や食べ物を与え、さらには悪徳業者とストーカーまで炙り出して片をつけるくらいに。どれだけ片瀬に金と時間をかけたのか、考えただけで眩暈がする。
キスも、身体に触れることも、最大限の優しさなのだ。哀れにも手の届かない人へ恋をした片瀬へ、自身を少しだけ恵んでくれたのだ。
もう十分じゃないか――と、奇妙に落ち着いた気持ちが込み上げてくる。本当なら柔らかさすら知らないままだった唇の感触を知れた。裸で抱き合う温もりと、肌の香りを知った。
櫻木と夢野嬢の関係を知ったあとで、未来を邪魔しようなんて気にはならない。できない。
櫻木が好きだ。そばにいたい。そう駄々を捏ねる自分が、心の中にいるのも確かだけれど……。
(おんぶに抱っこの俺と、海外に自分の会社があって教養もある夢野さんと……どっちが櫻木さんのためになるかなんて、比べるまでもない)
頼み込んで男女の性差を抜きにしてもらったとしても、片瀬では櫻木の隣に並べない。「俺を選んでください」なんて言えない。
初恋にしては頑張ったな――と、自分に声をかけてやるのが精いっぱいだ。
それに、落ち込んでいる暇はない。
夢野が日本へ戻ってくるなら住み込みハウスキーパーは不要だし、邪まな感情を抱く片瀬が近くにいてはいけない。早めにアパートへ戻れるよう、少しずつ準備をはじめていかなければ。
(櫻木さんにいただいたものは、どうしたらいいんだろう……とりあえず今不要な私物から、運んだほうがいいか)
無心になって事務作業に没頭しながら、片瀬の脳裏にはさよならの準備ばかりが渦巻いていた。
朝に荷物を持って出勤し、帰宅前に自宅へ寄ってそれを置き、櫻木宅へ向かう――そうやって少しずつ私物を運び戻しはじめて一週間が経った。
基本的に片瀬より先に家を出る櫻木だがこの間は遅めで、通勤リュック以外の荷物に不思議そうな顔をしていた。それも「不要なので、アパートに」と言えば納得顔をしていたから、案の定住み込みの解消は近そうだ。
片瀬の家は駅から歩いて三十分。駐輪場代を省くため徒歩通勤の片瀬には少々不便な立地だが、格安物件の1Kだ。
本来は青と白の清潔感あふれる色味だったであろう外壁は剥げて色褪せ、ひと雨きそうにくすんだ曇り空みたいな色になってしまっている。入居者募集の看板すら錆びてボロボロと赤茶色が目立つそのアパートは、近所の子どもの間では「幽霊が出る」「妖怪が棲む」とある意味評判なのだそうだ。
手すりに触ると手に錆びがつくため、いつものように手を使わず階段を上がっていく。上がり切ったところで一直線に伸びる二階廊下を見ると――驚くべき人物が、一番奥の片瀬の家の玄関前に佇んでいた。
思わず息をのむ。
そこにいた人物が、目を丸くしてこちらを見た。
「片瀬くん……」
どうして、笹本がここに。
ざ、っと血の気が引く。路地裏でされたこと、言われたこと、それからカバンの中の大金、片瀬が知らない間に行われていた不正にストーカー行為……様々な事柄が頭に浮かんで、無意識に後ずさった。
「ま、待ってくれ。お願いだ、何もしない、約束する……っ」
笹本は片瀬を引き留めるため足を踏み出そうとして、そっと両手を上げた。その場で一歩下がり、逃げても追いかけないことをアピールしている。
だからといって警戒は解けない。それでも、よく見知った人の悲しそうな顔に背を向けて、一目散に逃げることがどうしてもできなかった。
「……何か、ご用ですか? その……笹本さんは……」
「ああ、昨日保釈請求が認められて……本当は君に接触してはいけないってわかっているんだ。けど、どうしても顔を見て、直接謝りたくて……すまない。話だけ、聞いてもらえないだろうか」
櫻木がストーカー行為の証拠を集めて被害届を出したため、笹本は片瀬に接近禁止命令が出ている。片瀬が逃げて警察に一言通報すれば、保釈は即座に取り消されるだろう。そのリスクを負ってまで、笹本は面と向かって謝罪がしたかったのだという。
足は一歩ずつ、前へ進んだ。
「……ありがとう。そこでいい。それ以上近づくのは……怖いだろう?」
「……はい」
二メートルほどの距離を開けて立ち止まる。笹本は両手を上げたまま奥の手すりまで後退し、片瀬は自宅と隣家の間くらいに立った。
「それで、話とは……?」
「怖い思いをさせて、嫌な思いをさせて、申し訳なかった」
体格がよく長身だと思っていた笹本は、憔悴しきって頼りない風体に思えた。そんな様子を覆すように潔い一礼は、身体をきつく二つに折ったように深い。
「年甲斐もなく……君に一目惚れだった。素直で、表情豊かで、年若いのに人一倍苦労していて……少しでも助けになりたいと思っていたのは、本当なんだ」
「……そう、ですか」
「それなのに、だんだんと君を俺だけのものにしたくなって……最低だった。男としても、大人としても、君に恋する一人の人間としても。許してもらえるとは思っていない。この告白も、忘れていい。ただ……」
男は胸ポケットから、紺色のハンカチに包まれた何かを取り出した。
「これだけ、受け取ってくれないか」
開いた布の真ん中に埋もれていたのはネクタイピンだった。片瀬の名前が入っているのは知っていたが、櫻木に言われるままスーツと一緒に返したのだ。
「スーツは結局受け取ってもらえなかったけど……でも、これだけは」
「いえ、いただけません」
「受け取ったあとで捨てるなりしてくれればいい。お願いだ、後生だと思って、これだけでももらってくれないか」
片瀬は戸惑い、必死な笹本とネクタイピンを交互に見た。
笹本に対して、恐怖を感じている。だが同時にやるせなさや罪悪感があるのもたしかだ。
笹本が最初は親身になってくれたのは嘘じゃない。こうなってしまったのは自分にも落ち度があったのかもしれない。思わせぶりだと思わせる何かが、あったかもしれない。
もらって困るのも本当だが、受け取るだけで構わないと言うなら、それくらいは受け入れるべきなんじゃないだろうか。
「……じゃあ、それだけ」
「……! あ、ありがとう、片瀬くん」
差し出されたタイピンをそっとつまんで受け取る。こんなに小さなものなのに、いやに重い。ハンカチが隔てた肌の体温は、ついぞ触れ合うこともなかった。
「これで悔いはない。あとは自分のしでかしたことを、きちんと償ってくる」
「はい……あの、いろいろ心を砕いてくださったことがあるのも、事実です。その節は……ありがとうございました」
頭を下げると、目を丸くした笹本は困ったように目を逸らした。
「そういう素直さが、愛しいのと同時に怖いよ。君も……気を付けて」
「え?」
「櫻木だよ。騙されて傷つく前に、距離を置いたほうがいい。君は知らないのかもしれないが……」
「いえ、知ってます。騙されていません。だから……大丈夫です」
これ以上人の口から櫻木の許嫁について聞くのも、櫻木を誰かが悪く言うのも嫌だった。虚勢を張る片瀬に、笹本はそれ以上何も言わず、静かに去っていく。もう二度と会うことのない別れだ。
こんなふうに、櫻木ともいずれ無関係になってゆくのだろうか。うまく想像できない片瀬は、自分がいかに甘ったれか実感していた。
(想像できないんじゃない。したくないんだ。この期に及んで、俺は)
櫻木は笑顔で「またね」と言ってくれるだろう。だが片瀬はその「またね」を実現させることができない。顔を見れば、言葉を交わせば、きつく閉じた想いの箱がパッカリと壊れて開いてしまう。中にあるものを、決して誰の目にも触れさせるわけにはいかない。
だから――本当に、あと少しだけ。
そのときが来たら綺麗に終わる。表面的には静かに、穏やかに、最初から何もなかったみたいに、波打つことなく。
その水面の下で、どんなに激しく切なさが渦巻いていようと。
最初のコメントを投稿しよう!