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ななつめ
――アズくんの様子がおかしい。
仏頂面で言い放った櫻木をちらりと見た花田は、壁の時計を確認してから手のひらで「続きをどうぞ」と示す。定時を迎えてからの私語には目くじらを立てない男だ。
「ハグもキスも嫌がるんだ。恥ずかしいのかな? と思っていたんだけど、そういうわけじゃなくてね……」
「喧嘩ですか」
「いいや、していないよ。するはずない。僕たちはずっと仲良しだ」
「ああそうですか。ちなみに片瀬さんの様子がおかしくなりはじめたのは、いつからですか?」
腕を組み、う~ん、と首を捻る。最初に違和感を覚えたのは、彼が抱きしめた腕の中からするりと逃げたように思ったときだ。
あれは、たしか……。
「アズくんが忘れ物を届けに来てくれた日の夜……? かな……?」
キラン、と秘書の目に剣呑な刃が現れる。
「あなた、きちんと夢野との関係を釈明されたんでしょうね。まさか誤解させたままですか?」
「失礼な。きちんと話したよ。アズくんも、誤解なんてしません、と笑っていたし」
「それならいいのですが。彼を見送ったあとになってから、片瀬さんはあなたと夢野が婚約者だと思っているのではないかと気になって……」
「ありえないね。僕はアズくんにたくさんキスをしたし、身体にも触れた。婚約者がいたら絶対にそんなことしないだろう?」
「あなたの感覚が良識的でよかったです。しかし、となるとなぜでしょうね……」
難しい顔で考えこむ花田を見るともなしに眺めながら、櫻木もここ一週間の片瀬を思い返す。
「毎日、ちょっと帰って来るのが遅い気がするんだよねえ。僕の帰りのほうが遅いから、はっきり断言はできないんだけど。僕が帰ったとき、心なしか急いで夕飯の支度をしているような……手際のいいアズくんはいつも僕の帰る頃に合わせて仕上げてくれるから」
「違和感がふわっとされてますね。そういえばあなた、片瀬さんに持たせたGPSと盗聴器を回収していないのでは?」
活用しなさい、と目で言われ、困り果ててしまう。櫻木を信じているからと、片瀬はそのまま機器入りマスコットを通勤リュックにつけてくれているのだ。それなのに小狡い手を使ったら、彼からの信頼を裏切ることになる。
そう説明するが、秘書は呆れ顔だ。
「ではGPSだけ確認なさったらどうです? 盗聴器はまあ、盗聴ですから、あまりよろしくないとして……GPSは問題ないでしょう。彼を疑って確認するのではなく、心配で確認するのですから」
「ものは言いようか。大人になるってこういうことなんだね」
「では大人らしく延々と酒でも飲んで管を巻いていればよいのでは」
絶対零度の睨みを受けながら、櫻木は携帯端末で登録した片瀬の位置情報を取得した。子どもの見守りサービス目的の製品だから、アプリで即座に場所がわかる。
「……んん?」
「何かありましたか?」
「アズくんの……アパート、だね、これは」
怪訝そうな顔にそう返し、地図上の赤い点を注意深く見る。間違いなく住所が彼のアパートだ。
一体なぜか。思い浮かぶ理由はひとつだ。
「花田、アズくんは僕との生活が嫌になったんだろうか……生活に必要なものは全部買い与えたし、今さら取りに行くものなんてないはずなんだ。この間だって、不要だからアパートに持って行くって、荷物を持って出ていたくらいで……」
「わたしにはお答えできません。何を取りに行っているか訊ねてみては?」
「そうだね……」
「もしくは、あなたの家なんですから、部屋を検分すればよろしいかと」
「馬鹿を言わないでくれ。勝手に部屋へ入るような無粋な真似はしない。……ふう」
花田に見守られる中、数秒ほど額を押さえて目を閉じる。次に目を開けた櫻木は、迷いや困惑を払拭していつものように微笑んだ。
「うん、早めに帰ってアズくんと話をしてみるよ」
早速会社を辞した櫻木は、急いで自宅へ帰った。
向き合って、ひとつずつ疑問を解消していきたい。アパートに帰っている理由、最近櫻木を避ける理由。前者は必要なものがあるなら手配するし、後者は全力で彼の意に沿うよう努力する。
何はともあれ、片瀬の言葉で近頃の不審な様子を説明してほしい。
考えながら自宅玄関を開けると、中から「え」とかすれた声が耳に届く。櫻木は瞬いて、目の前――廊下に佇む愛しい恋人を認識した。
きゅう、と嬉しさで収縮する心臓の妙な鳴き声は、片瀬と出会って聞き慣れたものだ。
「アズくんただいま、お帰り」
「あ、お、お帰りなさい、ただいま……です」
「今帰ってきたところ? 奇遇だね、僕もだ」
「ああ、えと、はい」
櫻木が思っていたよりも片瀬は早くアパートをあとにしたようだ。彼もまさか、靴を脱いですぐ背後で玄関が開くとは思わなかったのだろう、いつになく大きく見張った瞳を困惑気味にぱちぱちしている。
今なら、ただいまのハグができそうだ。
呆然としている今がチャンスと、狡い櫻木は片瀬へと一歩踏み出した。背後で玄関が閉まる。オートロックのかかる音がする。
胸の真ん中に、そっと櫻木の動きを遮る手のひらが置かれた。
「……アズくん」
広げた腕は、また何も抱きしめられず身体の横へとさみしげに落ちた。
「すみません。こういうのは……」
「嫌……?」
片瀬は一歩下がって口を引き結び、気まずそうに斜め下へ目線を逃がす。オロオロと言葉を探している様子が、拒絶をはっきり示していた。
どんなにオブラートに包んだ説明をもらっても意味はない。中にあるものは結局、拒絶だ。
それでもショックを受けている場合じゃない。今夜の目的はハグすることではなく、彼と話をすることだ。
「アズくん、話がしたいんだけど、いいかな?」
できる限り優しい微笑みで語りかける。焦ってはいけない。相手に心を開いてほしければ、こちらがまず歩み寄るべきだ。
靴を脱いで廊下へ上がり、じっと考え込んでいる片瀬を怖がらせないよう、慎重に彼の握った拳へ指先を伸ばす。
そのときだった。
「……っ」
櫻木の動きを見ていなかった片瀬は驚いたのか、拳に触れた途端にビクッとうつむき加減の頭を跳ね起こす。同時に握りしめていた手から、何かがカランと足元へ落ちた。
見下ろした櫻木は眉を寄せる。
焦燥を浮かべた片瀬はそれを慌てて拾おうとするが、すかさず名前を呼ぶと、諦念をあらわに静かに唇を噛んだ。
「どうして、君がこれを?」
櫻木は身を屈め、落ちているネクタイピンを手に取る。Azumaと名前が掘られた、彼のためのもの。そして、ここにあるはずのないものだ。
「スーツと一緒に返したはずだ」
片瀬は何も言わない。いや、何か言おうと口を開きはするのだが、言葉を見つけられないで迷子みたいにさ迷っている。
ネクタイピンはいつから握りしめていたのか、片瀬の体温が移って温かかった。
「笹本に――会ったんだね」
「……はい」
わかりきったことでも、本人の言葉で肯定されるとカッと頭に血が上る。これほどまでに自分で抑えがたい激情に襲われるのは、記憶にある限りはじめてだった。
「……ッどこで会った? 何を言われたの? 何もされてない……ッ!?」
「ま、……ッ待って、くだ」
「油断してたよ、あの男がまた君に近づくなんて……きっと保釈金を払って出てきたんだろう。ああ、なんてことだ。すぐ警察に連絡しないと!」
笹本の執着を舐めていた。接近禁止命令を無視してまで会いに来ると予測していなかった自分が情けない。
櫻木は狼狽える片瀬から、ポケットの中の携帯へと意識を移す。しかし――端末を握る前に、手首を掴んで止められた。
「待ってください……お願いします」
こんなときなのに、片瀬が自ら触れてくれたことが嬉しいと思ってしまう。
だが、それとこれは別だ。
「どうして待つ必要が……? 君に危害を加えられたんだ。僕は黙っていられない」
「く、加えられていません。改心したご様子で……何もされていません。ただこのネクタイピンを渡して、直接謝罪がしたかったのだと言っていました。それだけなんです」
気が遠くなりそうだ。
この子は、一体何を言っているのか理解できているのだろうか。
「アズくん……君はもしかして、それを信じて謝罪を受け、これを受け取って帰って来たの?」
「そ、そう、です。だからどうか警察には……大丈夫ですから」
「――」
頭に上ったまま下りてこない、心配でぐつぐつ煮え立った苛立ちの感情に、焼けた石を放り込まれたようだった。
片瀬を自宅へ招いたことも、調査したことも、あちこちに手をまわして彼の憂いを晴らそうとしたことも、全て櫻木が勝手にやったことだ。片瀬を責めるつもりも、恩を着せるつもりもない。
だが、わかってくれていると思っていた。心の底から片瀬を案じていると。何者にも害されてほしくないのだと――櫻木の願いは片瀬自身の幸福だけなのだと。
それなのに。
(どうして君は、そんなにも無防備なんだ……!)
まるで徒労だ。ふらりと嵐の夜に出かけてしまう猫を、閉じ込めておく以外に守る方法はない。
「何が大丈夫?」
「っ、櫻木さん……?」
ネクタイピンを打ち捨てるように廊下へ放り、目の前の頼りない両肩へ手を乗せる。恐る恐る見上げてくる片瀬に、出会ってからはじめて苛立ちを覚えた。
(僕が怖いの? あれだけ君を怖がらせた笹本のことは、庇うのに?)
自分が自分じゃなくなっていくような感覚だ。普段の冷静沈着な櫻木が沈黙している。己への無頓着が過ぎる困った恋人へ、自覚を促すことで頭がいっぱいだった。
「君は大丈夫、大丈夫って思いこんで長くストーカー行為を受け続け、とんでもない目に遭わされたことをもう忘れたのかな。またあんなふうにどこかへ連れこまれて……卑猥な行為をされても、同じことが言える?」
とん、と肩を壁へ優しく押しつける。片瀬の視線が泳いだ。
「そんなこと……っ笹本さんは、もうしないって」
「その素直さは君の美徳だけれど、そのままじゃいけない。ねえ、わかるかい? ――ここ」
「ッえ、……ッ!?」
右手を肩からするりと下ろし、心臓の辺りで止める。柔らかく物静かで可愛い色の突起がある場所を探ると、そこはたちどころに形を変えた。性的な触れ合いをするときに率先して触っていた小さな感じやすい乳首は、回数を重ねるごとに敏感に成長している。
「ぁ、……っあ、だめ、ですっ……」
「こんなふうに触られたら、君はすぐ動けなくなるじゃないか。力が抜けて、震えて、こんなに可愛く縋って……」
「っあ、あ」
「少しの愛撫で感じて、そうやって甘い声を出して男を誘うのに……どこに大丈夫な要素があるのか教えてくれないか」
「あっ、……やっ、や、さくら、ぎ……さん……!」
櫻木の腕に縋り、乳首をカリカリと引っかく指を止めようと片瀬は必死だ。上背が違えば幅も厚みも違う体格に、経験は雲泥の差。敵うはずもないのに抵抗する獲物が男の性を揺さぶることを、彼は知らない。
(嫌になるよ。君が無垢すぎて。可愛すぎて。魅力的すぎて。どうにかしたくなる。どうにかなりそうだ!)
苛立ちともどかしさに、一週間もまともに触れさせてもらえなかった欲情の反動が混ざり合う。指先に力がこもり、堅くしこった乳首をより強く捏ねまわしていた。
「ひッ、っ、ひん、……ッゃ」
与え続けられる愛撫のせいで震えていた片瀬の膝が、ガクンと芯が抜けたように頽れる。
しかし壁と櫻木に支えられて座りこむこともできないまま、彼はか細く悲鳴を上げた。
「ごめ、なさ……っんん、や、櫻木さん……っ」
「やめてほしい?」
ガクガクと半泣きでうなずく片瀬は、悲痛な表情の隅っこに安堵を浮かべている。謝れば許してもらえる、櫻木なら大丈夫、そう信じているのだ。
愛しい、と思う。……愚かだ、とも。
「やめないよ。謝ってやめてくれる男なんて、いないに等しいんだから」
「ッ――……!」
右手で代わる代わる両の乳首を刺激しながら、櫻木は左手で彼の股間をまさぐった。ただでさえ生まれたての小鹿みたいになっている片瀬の脚は、櫻木が間に割り入れた膝を軽く揺するせいで、いっそう可哀想なほどガクガクと震えている。それでも崩れることも、逃げることも叶わない。
快感のせいで手にも力が入っておらず、パンツと下着の内側へ櫻木が侵入するのはひどく容易かった。
「駄目、ですっ」
「そう? ここは嬉しそうに濡れているけど」
「ぁあっ」
角度のついた肉芯は櫻木の手にすっぽり収まる。勃起すると顔を出す張り詰めた先端のぷりんと濃いピンクが可愛くて、幾度もくすぐるようなタッチで時間をかけて虐めたものだ。
しかし今日はそんな温いことはしない。
いかに考えが甘いのか、いかに害のある男の手が危ないのか、片瀬に知ってほしいからだ。
「よく感じなさい。こんなふうに弱いところを虐められたら、どれだけ自分が抵抗できないのか」
「んんぅ、う、あっそこ、そ……ッ、あ」
いつもなら限りなく力を抜いて小刻みに扱くところを、加減なく手に包んだまま上下させる。過分な快感を受け止めきれない片瀬は目を見開き、ひっ、ひっ、とかすれた悲鳴をこぼす。
敏感なうえに自慰も滅多にしない片瀬には刺激が強すぎて、暴れることも、達することもできないのだろう。櫻木はそうわかっていて、手の動きを止めなかった。
「大丈夫だと言うなら、僕を殴ってでも押しのけて。できるね? 梓真」
「で、ぅ……っでき、な……っあ」
「……君は優しすぎるんだ」
「ぃあっ!?」
一際、片瀬の声が哀れに濡れた。
剥き出しの果実みたいな先端の割れ目に指の腹を押しつける。ジェルをぶちまけたようにあふれる先走りが濡れた音を立てた。馴染ませるようにくちくちと動かすと、華奢な身体が壊れた玩具みたいにガクガク震える。
「い、く、いく、でちゃ、ぅうっ」
櫻木を止めようとしていたはずの片瀬の手は、いつしか甘えて助けを求めるようにスーツを握りしめている。その縋る仕草に息を詰めた櫻木は、射精を促すように手の動きを早くした。
「あ、っあぁ、あーっ……」
ぶるりと腰が震え、手の中へ熱い白濁が吐き出された。勢いをつけて飛び出してくるそれを受け止めながら、残滓をも絞るように根本から先端へと締めつけつつ指の輪を動かす。
その動きひとつひとつに震える片瀬は、じっくりと長い絶頂を終えると完全に脱力した。
「――ッ……はぁ、は……っは……」
「……」
ずるりと壁伝いに落ちていく身体を、櫻木は汚れていないほうの手で支えながら見送った。すっかり乱れた様相で、息を荒げてうつむく小さな旋毛をじっと見つめる。
大丈夫だと豪語するくせに、駄目だと抗うくせに、気の毒なほど非力だ。それなのになぜ、片瀬はこんなにも無防備で危機感がないのだろう。握った拳を振るうどころか、縋るような真似をするのだろう。
櫻木にはわからない。わからないことが不自然に思えた。運命に導かれて出会い、惹かれ合った二人だというのに、なぜこんなにも思考が汲めないのだろうか。
「……こういうのが好きなわけじゃないね?」
跳ね上げるように顔を上げた片瀬が、こぼれ落ちそうになるまで瞳を瞠った。きゅっと眉を寄せ、震える唇だけが笑みの形をとる。
絶望以外の何も、そこには浮かんでいなかった。
「やっぱり、そう見えるんですね」
「ッ――」
ハッと我に返る。自分がいかに心ない発言をしたか気付いたからだ。
どうかしている。片瀬がそんな貞操観念のない男だなんて、本当は欠片ほども思っていないのに。嫉妬と己の未熟さで吐いた暴言を、櫻木は深く恥じ入った。
「すまない。今のは僕が悪い。本心じゃない……見えないよ。見えるはずない。君がそんな子じゃないことは、一緒にいてよくわかっている」
「…………」
聞こえているはずなのに、聞こえているかどうか不安になる。片瀬の双眸は無感情にこちらを見ているが、どうにも視線が絡んでいるように思えなかった。
(カッとなって責めすぎた。危機管理については追々自覚してもらうとして……今日はもう休ませよう。笹本に会った上に僕に追い詰められて、きっとアズくんは疲れきっている)
納得はいかないが、今回限りは笹本も様子を見てやろうと決める。片瀬に特例だと言い含めて身元引受人の家族にだけ注意を促すことを告げると、小さな頭がコクンと上下した。
「アズくん……お願いだから、僕の言うことを聞いてね。もう心配させないで」
「……はい」
片瀬をバスルームへ行かせ、ふうと息をつく。
恐ろしいほど順調だった蜜月に、不穏な影がある。だがそれの全体像が見えてこない。
(僕はただ、これ以上アズくんを傷つけられたくないだけだ。誰にも何もさせたくない。これまで苦労してきたぶん、これからは幸せだけを味わっていてほしい……そうさせてあげたい)
一体、あとは何を与えてやればよいのだろう。
考えつくものはなんでも手配して贈っているつもりだ。それでも何かが足りていない。
櫻木はここに来て、片瀬との噛み合わなさに深く悩むこととなった。
クリスマスイブ前日の今日、二十三日は、アメリカから夢野が帰国する。すでに迎えに行った花田が空港で彼女を拾い、櫻木宅へ向かって来ているだろう。二人はここで片瀬と顔合わせをすませてからデートに行く予定だ。
目も舌も肥えた夢野が満足してくれるよう、今年もホテルの部屋やディナーは最高のものを手配した。帰国初日のおもてなしはもう毎年のことで、櫻木を僅かにも悩ませることはない。
悩ましいのはただひとつ、恋人の様子についてだ。
(今日も顔が暗いな……)
夢野たちが到着したときに出すお茶や茶菓子の支度をしている片瀬は、キッチンで黙々と動いている。動かない表情は一見すると集中しているだけのようにも見えるが、彼の無表情が櫻木との会話中以外デフォルトになっていると気付いてからは事態の重さを実感するしかなかった。
声をかければ、笑顔が返ってくる。普段通りにくるくると動く姿は働き者で可愛い。
だが一人のときはロボットじみた堅い顔をしているし、そもそも家にいることがぐっと減った。休日もあれだけ手持ちぶさたに掃除ばかりしていた片瀬が、この間の土日は朝から夕方まで出かけて家にいなかったのだ。
どこに行っているのか、何をしているのかは訊かなかった。花田に促されて会社でGPSを確認して以降、あのアプリは一度も起ち上げていない。櫻木と片瀬は大人同士だ。全てを共有する必要もなければ暴く必要もなく、そして何かあれば話してくれると信じている。
しかし――ハグもキスも、最近では手さえ触らせてもらえないのが、つらい。夜のマッサージは変わらず一生懸命してくれるが、櫻木から手を伸ばすと顔を強張らせて逃げてしまう。
先日、無理に廊下で無体を働いたことで怯えさせてしまったに違いない。何度でも謝りたいが……それすらも怖がらせるかもしれないと思うと、迂闊に近づけなかった。
片瀬との間に横たわる気まずさは、傍若無人に二人の空気をぎこちなくさせていた。
「アズくん、何か手伝うことはある?」
会話や接触を増やそうと、声をかけるようにしている。空気がおかしくなる前は申し訳なさそうにはにかんで他愛ない用事を与えてくれたものだが、今の片瀬は頑なだ。
「いえ、休んでらしてください。これは俺の仕事ですから」
「そう……」
にっこりと笑顔なのに、分厚いアクリル壁に隔てられているかのようだ。どれだけ食い下がっても首を縦に振らないだろうとわかるだけに、追う言葉が出てこない。
櫻木よりずっと威圧感をまとった他社の会長や、重箱の隅を楊枝でほじくるようにこちらのミスを待ち望む輩、甘い汁を吸おうと群がる有象無象のほうがずっとやりやすい。欲しいものと欲しくないものが明確だからだ。
もどかしい。このままでいけないことは肌で感じていた。
「ねえアズくん、提案なんだけど……」
「はい?」
「そろそろ君のアパートを解約してはどうだろう?」
心に距離があるとき、物理的距離を作るのは避けたい。その場合、櫻木にとって回避したいのは彼がアパートへ帰ってしまうことだ。
その可能性を潰したくて提案すると、洗った手を拭いていた片瀬は即座にぶんぶんと首を横に振る。考えるまでもない拒否だった。
「そんなことできません」
「どうして?」
荷物はほぼここにある。あのアパートを残しておく理由はないはずだ。
「どうしてって……さすがに、真冬に野宿はちょっと」
困り果てたように愛想笑いを浮かべながら言われ、ぎょっとした櫻木はすぐ返事ができなかった。片瀬が何を言っているのかがわからない。
(まただ。考えていることがわかりやすくて、素直な彼のことなのに……わかれない。どうして解約イコール野宿になるんだ)
これは櫻木が思う以上に状況が悪いに違いない。早急に話し合わねば取り返しのつかないことになる気がする。
「ちょっとこっちに来なさい、アズくん」
「どうかされましたか?」
「話がしたいんだ。これからのことも」
ふっくらとした唇がきゅっと引き結ばれる。うなずいた片瀬は、何か重大な決意をしたように顔を強張らせた。
けれど彼が櫻木のいるソファへ来る前に、部屋にインターフォンの音が鳴り響く。
「あ……花田さんたちが到着されたようです、けど」
「……そうみたいだね」
間が悪い、と八つ当たりに似た気持ちを抱くが、よくよく考えれば花田たちが去ったあとのほうがゆっくり時間がとれる。
「話はあとでゆっくりしよう。いいね?」
「わかりました」
気持ちが急く。一分でも早く花田と夢野にはデートへ出かけてもらい、すぐに片瀬と腹を割って話がしたい。これまで歯がゆく思いながらも様子を見ていたが、そんな悠長に構えていられないことに、遅ればせながら気付いた。
ひとまずは来客の対応だ。
櫻木は斜め後ろに控えるようにそっとついてくる片瀬を気にしながら、幼なじみ二人を迎えるため玄関へ向かった。
***
明るく広々とした見慣れたリビングに、今は見慣れない美女がいる。淹れたてのダージリンティーを上品に飲む姿は、茶葉のコマーシャルみたいだった。
「あら、おいしい」
いつも櫻木が腰掛ける位置に、美人――夢野深月が座っている。艶やかな黒髪は肩の位置ですっきりと切り揃えられ、細くたおやかな首筋が美しい。シンプルながら女性的で華やかな自社ブランドMimosaのスーツは、清純な白をベースに淡いオレンジがアクセントになっていて、少女の可憐さと女性の美を感じさせる。控え目ながら質のいいアクセサリーは、彼女のなめらかな白い肌にあつらえたようにぴったりだった。
「よかったです、お口に合って」
ローテーブルを挟みキッチンに近い位置に立つ片瀬は、ニッコリと笑いかけてくれた夢野に微笑み返す。
花田とともに櫻木宅を訪れた彼女は、親しげに再会の挨拶を交わすと、人懐こく片瀬にも自己紹介をしてくれた。見た目はきつめの美人だが威圧感はなく、ニコニコ笑顔は愛嬌がある。ハウスキーパーにも丁寧に接してくれる、初対面でも警戒心を抱かせないフランクな女性だった。
家主の櫻木は、花田に仕事の話があると言われて別室にいる。よってリビングには片瀬と夢野の二人きりだ。
給仕をしているべきか、片瀬こそ席を外しておくべきか、どちらのほうがよいのだろう。不安は無意識に、視線を廊下のほうへ向けさせる。
櫻木に早く戻って来てほしい。いくら――どんなに何度も、何十回、何百回と自分に言い聞かせても、好きな人の許嫁と笑顔で接し続けるのは、酸素供給のない小部屋に閉じこもっているかのようだった。
「――ねえ、片瀬くん?」
「あ、っはい」
ソーサーへ音を立てずにカップを戻した夢野は、長い睫毛に縁どられた瞳でリビングを見回した。
「ここにあなたも住んでいるのよね?」
「はい。諸事情でお部屋を一室貸していただいています。平日の昼間は会社務めですが、それ以外はこちらでハウスキーパーとして雇用していただいているので」
「そう……住み込みのハウスキーパー、ね……」
検分するような視線が室内を撫でていく。アパートの掃除も急ぎしなければいけなくて櫻木宅を空ける日も増えたが、それでも夢野に不快さを与えまいといつも以上に丁寧に掃除した。しかし素人の片瀬には気の付かない部分もあったかもしれない。
ハラハラと夢野の様子を窺っていると、彼女はやがてニッコリと片瀬へ顔を向けた。
「なら、恋人じゃないのね?」
笑顔で油断したところに落とされた爆弾は、片瀬をひどく動揺させる。おくびにも出さずかぶりを振れたのはファインプレイだ。
「奥様の心配なさるようなことは何もありません。それにわたしは、見てのとおり男です」
「……。よかったわ」
間はあったが、夢野の顔がほころんだ。片瀬はほっと胸を撫で下ろす。奇妙な緊張感のせいで、背中に汗が流れた。
「ごめんねさいね。ついに男まで彼のお金目当てに寄って来たのかと焦っちゃったの、何もないならいいのよ」
「いえ……」
「そうよね、あなたはそんなタイプに見えないもの。彼に買い与えられたものや、外出に必要だったものも、弁護士費用や鑑定費用……その他諸々、きちんと返すつもりでいるに決まっているわよね」
「――」
世間話のようなトーンで言われたものだから理解が一瞬遅れてしまった。動き出した心臓が、ここから早く逃げたそうに駆けている。
夢野はおいしそうに焼き菓子を咀嚼し、細い指先をペーパーナフキンで拭いた。そうして優雅に立ち上がり、立ち尽くす片瀬の前へやってくる。
目線は片瀬のほうが高い。だが持ち合わせた威圧感は勝ち目がない。逆らうことを許さない、女王のようなオーラだった。
「使わせるだけ使わせて、逃げる気なんてないわよね?」
夢野は怒っている。笑顔の下で、深く憤っている。
櫻木が片瀬に使った金の用途を、夢野が知っている理由はたいした問題ではない。彼女は櫻木側の人間だ。夫になる人の自宅に何がいて、何をしていて、どんな生活をしているのか知る権利があるし、櫻木も話すことに躊躇いはないだろう。
片瀬にできるのは真摯に向き合い、彼女の心配を宥めることだけだ。
「もちろんです。わたしのせいでかかったものは何年経ってでもお返しします。逃げるつもりなんて一切ございません……!」
気持ちの上では跪きながら、深々と頭を下げる。その頭上に、粉々に打ち砕いた氷みたいな声が落ちてきた。
「じゃあ彼とキスをしたことや、いやらしい行為をしたことは……どう説明してくれるのかしら?」
身体を折ったまま頭が真っ白になる。きっと顔色も紙のようになっているだろう。急転直下の雨樋を流れていくように血の気が引いた。
(櫻木さんは、それも、話したんだ)
ならば否定の意味はない。そんなことをしても夢野の気持ちは晴れないし、櫻木が不倫男のように思われてしまう。
(そうだ……櫻木さん。このままじゃ駄目だ。あの人は悪くないって説明しないと)
一番に思いつくのは片瀬が金目当てで櫻木に近づいたと説明することだが、それは先ほど返金すると頭を下げたため使いにくい。
ならば、と色のない顔を上げた。
眉をひそめた夢野が何かを口にする前に、片瀬は先手をとる。
「わ、わたしは……男性が好きです」
「……それで?」
「親切にしていただき、のぼせ上りました。櫻木さんに泣き落としで迫ったんです。婚約者のある方だとわかっていました。迷惑がる櫻木さんの優しさに付け込んで、思い出をいただいてしまいました」
「思い出……? じゃあ大成くんは、しぶしぶあなたに触れてあげたとでも? 本当は困っていたけど、追い出すのは可哀想だからクビにできなかったと?」
首がちぎれても構わないと思いながら縦に振った。
片瀬はこの家を出てひっそりと金を返していける。元の生活に戻るだけだ。でも櫻木は違う。これから夢野と生涯をともにするのだ。二人の仲をこじらせる置き土産は、ただのひとつもあってはいけない。
「そうです。ですから櫻木さんは、」
何も悪くない――そう続くはずの言葉は、けたたましく開いて壁にぶつかった扉の音で喉奥へ引っ込んだ。あまりの激しさに驚愕した片瀬が振り向くと、バウンドしてきた扉をさらに強く押さえた櫻木が顔をしかめて立っていた。
その背後では、困り顔の花田がこちらの様子を窺っている。
「大成、ちょっと落ち着いて……」
「梓真ッ!!」
小さな子どもなら涙を浮かべそうな鋭い声だった。櫻木は腹心の制止がまるで聞こえていないように、ただまっすぐ片瀬を咎めている。
片瀬は肩を竦めてまばたきも忘れ、いつも優しく微笑んでいる男の顔が苦しげに歪んでいくのを見ていた。
「あの部屋はなんだい。どうしてあんなにがらんどうなんだ。僕の贈ったものが箱に詰められているのはなぜ……? 荷造りはなんのためか、説明してくれるかな」
別室で話すと言った二人はどうやら、片瀬の借りているゲストルームを覗いたようだ。
櫻木は家主といえど勝手に部屋へ入るような人ではないはずだが、見られたところで文句はない。ただ、彼がどうしてこんなにも感情を昂らせているのかはわからなかった。
前は夢野、後ろは櫻木……身動きできない片瀬の視界に、オレンジと白の華美なスーツが横切った。
大股で櫻木の元へ向かう夢野の顔が、美しい鬼が如く怒り狂っている。
「待ってくださいッ!」
脳内で喧しく警鐘が鳴り響き、頭で考えるより早く櫻木と夢野の間に身体を滑り込ませていた。背中に感じる男の視線よりも、夢野の振り上げた右手の行方のほうが一大事だ。
降り下ろさせたくない。彼の明るい未来を壊したくない。その一心で、片瀬は頭をめぐらせる。
「本当です、櫻木さんは被害者で……お叱りなら俺に」
「梓真……?」
肩に置かれた手を身じろいで振り落とし、後ろ手に櫻木を押し戻す。
夢野は下ろした右手を巻きこむように腕を組むと、見下げるように顎をつんと上げた。
「あなたに、ね。つまりわたしがどこに訴え出ても構わない、ということかしら」
「もちろんです。いかようにも償います。ハウスキープのお給料もお返ししますし、すぐに出て行きます。だからどうか……罪のない人を責めるのだけは」
突き刺さる視線からは絶対に目を逸らさなかった。彼女の怒りを全て片瀬へ向けないことには、二人の未来が危うくなる。それだけは避けたい。
「申し訳ありません」
床に膝をつくことに、躊躇いはなかった。
「――駄目だよ、梓真」
「……ッ!?」
だが、揃えた両の指先は床へ辿り着けない。腹の下に硬い腕がまわり、身体がぐっと持ち上がった。吊り上げられるような感覚のあと、馴染んだ体温と、愛おしい香りに包まれる。
羽交い絞めにするみたいに片瀬を後ろから抱きしめた櫻木は、首元に頭を埋めて、もう一度「それは駄目だ」とつぶやいた。
「そんなことをしてはいけない。それは君がすることじゃない」
「さ、くらぎ、さん……?」
夢野の前でなんてことをするんだろう、という落胆はたしかにあった。だが今、胸を占めるものの大半は、こんなときでも抱きしめてくれる男への尽きない愛しさだ。
どうしてくれようか。好きになってはいけない人をこんなに好きにさせて、どんどん恋しくさせて、一体彼は片瀬になんの恨みがあるのだろう。
行き場のない睦言みたいな悪態を抱いて固まる片瀬の面前で――くしゃ、と夢野が申し訳なさそうに顔を歪めた。
「――これ以上は無理よ。わたしにはできない……」
「だろうね」
返事をしたのは櫻木だ。一人意味が飲みこめていない片瀬を置き去りに、刺々しい声色で夢野を責める。
「大体は読めたよ。何か企んだね?」
「そうよ。ごめんなさい片瀬くん。わたしたちが悪かったわ……わたしは櫻木の婚約者じゃないし、なる予定もないの。ただの幼なじみだから」
「お……幼なじみ、ですか? でも、……え?」
思わず肩に乗る男の頭へ目を向ける。すると櫻木も目許を覗かせ、恨みがましくそれを眇めた。
「そのとおりだ。そんなことより、あの部屋は何? どうして出て行くつもりだったんだい。第一、君が何を償う必要が? もう僕に嫌気がさした?」
「あ、っあの」
「落ち着け大成。そんなに怖い声で質問責めにしては片瀬くんが可哀想だ。一旦座って、状況を整理しないか?」
目を白黒させる片瀬を見かね、花田が助け船を出してくれた。櫻木の背後から聞こえる声は呆れを含んでいる。
しかし片瀬をひしっと抱いたままの男は首を振った。
「すまないが今日は帰ってくれ。僕はアズくんと話をするから」
「それはもちろん。だがとんでもない誤解が発生しているようだし、第三者がいるべきだ」
「お願い大成くん。わたしたちからもちゃんとわけを話したいし」
「……わかった」
低く淡々とした声は変わらないものの、説得された櫻木はうなずいた。
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