やっつめ

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やっつめ

 抱き竦められ、かろうじて爪先が床につくくらいまで持ち上げられたままの片瀬は、がっちり巻きついた男の腕をタップする。 「櫻木さん、あの、下ろ」 「下ろさないよ。僕は今、君を捕まえていないと頭がおかしくなりそうなんだ」  弾き飛ばすように強く言い切られ、二の句が継げない。だが人前で抱きしめられて平然とできるほど片瀬は図太くない。  しかし櫻木はすたすたとソファへ向かい、さらには片瀬を膝に乗せて腰を下ろしてしまった。  花田はローテーブルを挟み、対面する位置で直接カーペットに胡坐をかき、夢野はその隣に座る。成人男性が膝抱っこされている光景など見るに堪えないだろうに、二人とも気にする様子がない。おかげで死にそうな羞恥はほんの少々ましだった。 「まずは……そうだな」  ぎゅっと腕ごと抱きしめられている片瀬は身動きできないまま、男の恨みがましい声を耳元へ吹きこまれた。 「アズくんは深月が僕の婚約者だと勘違いしていたの?」 「そうです、けど……本当に違うんですか……?」  ついつい花田を見ながら問うてしまう。  すると気に入らなかったのか、櫻木は片瀬の顎に指を添えて自分のほうへ向けた。 「当然だよ。どうしてそんな勘違いを……」 「櫻木さんがそうおっしゃっていたので……」 「僕が?」 「社長室で……許嫁だと。そのあと花田さんにもお訊ねしたら肯定されましたし……」  おずおずと話すにつれ、テーブルの向こう側で花田が頭を抱えていく。 「……~ッあれほど片瀬くんに誤解をさせないよう弁解しろと言ったのに……! ちゃんと確認をとったんじゃなかったのか?」 「とったさ」 「あの、弁解って?」 「片瀬くん……申し訳ない。この件は俺から説明させてもらう」  長い溜め息を吐き出した花田は、一から丁寧に説明をしてくれた。 「大成と深月が許嫁だったのは事実だ。ただ、これはあくまで表向きで、実際はただの幼なじみなんだ。というのも、二人は学生時代から見合い話が多くてな、あまりに煩わしいから互いを許嫁だということにした。これを知っているのは親類のみだ」 「あ……あ、だから櫻木さん、お見合い話を持ってくるのは親戚の方だけって……」 「そうだ。そこで本題だが、俺は君が社へやってきたとき、大成が俺と深月の婚約関係を話しているものだと思っていた」 「……え!?」  夢野は櫻木ではなく、花田の婚約者だった。  片瀬は目を剥くが、なるほど、隣合っている二人の距離は近い。ただの幼なじみなら、狭い部屋でもないのに肩が触れ合う位置に座らない気がする。 「だから君の質問にうなずいてしまった。しかし、もしかすると深月を大成の婚約者だと勘違いしているかもしれないと思って、よくよく弁解しておくようにと言い聞かせたんだが……」  きら、と眼鏡の奥の瞳が光る。すると耳の傍で、心外そうに不貞腐れる声がした。 「きちんと聞いたさ。僕との関係について誤解なんてしていないよね、と。アズくんはうなずいてくれたよ」  ずきっと胸が痛い。そう問われた夜の切なさが刺さったまま抜けていないせいだ。  片瀬がきゅっと唇を閉じたとき、夢野が難しい顔で、大きな溜め息を吐き出した。花田はこめかみを痛そうに押さえている。 「その訊き方は盛大な誤解を招くだろう……」 「そうよ。勘違いしている片瀬くんには、まるで大成くんと片瀬くんの関係自体、恋人だと勘違いしないでね、って言っているようにも聞こえるわ。……そうよね、片瀬くん」  たっぷりと同情を乗せた二対の視線を一身に浴び、背後の不満そうな気配を感じながらうなずいた。そのとおりの解釈をしたからだ。  それに対し、櫻木は鼻息荒く反論する。 「アズくん待って、それはおかしい。深月を婚約者だと言ったけれど、ちゃんと『一応』とつけた。それに僕は君に、恋人同士がするようなことをしたね? もし僕に婚約者がいたなら、そんなことはしないはずだ。違うかい?」  恋人同士がするようなこと……キスや、身体に触れる行為だろう。  片瀬の眉は一段と困った様相になる。櫻木の主張もまた、片瀬の解釈と相違ないからだ。 「俺もそう思っていたんです。でも……夢野さんを気持ちよくしてあげないと、とおっしゃっていたので、櫻木さんにとっては、その、そういうことは、あまり特別な行為じゃなくて……俺に同情してくださったんだと」 「なんてことだ……」 「それはわたしの台詞よ! 変な言い回ししないでちょうだいっ。セクハラで訴えてやろうかしら……!」  どうどうと花田に宥められる夢野の声が聞こえていないかのように、櫻木は痛ましげな声をしぼり出す。 「同情であんなことはできないよ。君もそうだろう?」 「……ですけど、会社の方に相談してみたら、可哀想だと思ったらできる……と教えてもらったので……」 「はあ……」  大きな溜め息が片瀬の肩に染みこんだ。櫻木の腕により一層力が籠る。 「いいかい、少なくとも僕は同情で恋人みたいなことはできない。ここまでは理解できたかな?」 「はい……」 「それじゃあ次だ。どうして部屋を出る支度なんてしたんだい?」 「訊かずともわかるだろうが」  すかさず答えたのは花田だった。櫻木を咎めるように眉を寄せ、肩をひょいと竦める。 「婚約者が帰国すると知って、のうのうと同じ部屋に住んでいられるような図々しい人じゃないだろう。片瀬くんは」 「……そのとおりだ。僕のアズくんは謙虚でまともだからね」  ハグは骨が軋みそうな強さになっていたが、片瀬は呻き声を喉で殺した。締めつけのきつさが、そのまま片瀬を求める強さに思えたからだ。 「さっき聞いたとおり、深月は幼なじみだ。僕にとっては妹みたいなものだよ。帰国したらあれこれ我儘を叶えてあげるのがいつもの流れでね……まあ、許嫁関係に信憑性を持たせるためっていう意味も多少はあるけど、実際は花田の件で詫びているだけなんだよ」 「……? 花田さん?」  疑問符を浮かべる片瀬に、夢野が困ったように笑いかける。 「海外行きが決まったときにね、わたし……花田を連れて行きたかったの。秘書として公私ともにそばにいてほしくて。それを拒んだのが、大成くんってわけ」 「それで『お詫び』……」 「そうさ。手のかかる妹は可愛いからね」 「今手がかかってるのは大成くんだけどね」  櫻木の顔は見えないが、夢野と言葉を交わす声色はさっぱりとした優しさがある。もしも花田が夢野の隣におらずとも、二人に男女の情がないことはわかるだろう。  しかも夢野たちへ見せつけるように手のひらを片瀬の頬へ添える辺り、仲を疑う必要は欠片ほども感じなかった。 「それで――花田と深月は何を企んでいたんだい?」 「っちょ、櫻木さん、そんな言い方……!」  醸し出される兄妹感にほっこりしていたところに、冷ややかな男の態度は心臓が縮み上がる。思わず櫻木の腕の中から窘めようとするが、夢野が「いいのよ」と言う様子はケロッとしていた。  櫻木も彼女の威勢に怯まなかったから、幼なじみたちの間ではこれくらい日常茶飯事なのかもしれない。 「花田から片瀬くんの話を聞いたとき、いつになく大成くんが夢中で貢いでるって言うから……お金目当ての子に騙されているのかもって思ったの。自分の目で見て確かめて、危ない男だったら追い出すつもりだった。大事な幼なじみだから」 「俺も共犯だ。最近大成が萎れているから……ある程度金目のものを貢がせたから捨てるつもりなのかと疑った。俺が大成を離している間に、深月に片瀬くんから言質を引き出させようとしたんだ。部屋を改めようと入らせてもらったら、大成の買い与えたものが整頓されていて……さっきの激昂というわけだ」 「ずいぶんときつい言い方で責めてしまったわ……ごめんなさい、片瀬くん」 「すまない」  二人は崩していた足を正座に直し、折り目正しく深々と頭を下げた。背後では溜め息交じりに櫻木が「わかった」と言っているが、片瀬は悲鳴を上げそうに焦る。 「やめてください、頭を上げてください……! お二人が櫻木さんを心配するのも、俺を疑うのも当然のことです。ですから……」  頭は基本的に下げるもので、下げられる経験などほとんどない。いたたまれなさが脳天を突き抜けて高い天井にぶち当たりそうな片瀬は、せめて膝の上から下りなければともがく。  だが足掻けば足掻くほど締めつけてくる櫻木の腕に息が上がりそうになった頃、花田と夢野は頭を上げてくれた。 「話していると、ああこの子は大成くんを騙くらかせるような子じゃない、ってわかったの。口だけの謝罪をするでもなく、誤魔化すわけでもなく……全部自分の責任ですって、あんなに潔く言うとは思ってなかった。手を出したのは大成くんなのに」 「それは……俺は櫻木さんにもらいっぱなしの助けてもらいっぱなしで、これ以上、迷惑をかけたくなくて……」 「アズくん、恋人は自分だと言ってほしかったよ。君は僕を責めてよかったんだ」 「そんなことできません。責める気持ちはありませんし……お給料をいただいて家事をしている身ですから、恋人だなんて烏滸がましいです」 「――、待ってアズくん、僕たちは恋人同士だよ?」 「え? っ……」  顔をぐりんと櫻木のほうへ向けられる。そこには男泣きする寸前のような顔があった。 「君のことが好きだからなんでも買ってあげたかったし、家にいてほしかったし……給料だって本音は一緒にいてくれるだけで渡したいものを、受け取ってくれないだろうと思ったから仕事という形にしただけだよ。僕は君をハウスキーパーだと思っていない。本当だ。信じてほしい」  余裕なさげな櫻木は貴重だというのに、めずらしさを味わうだけの余裕が片瀬にもない。 「……好き?」  今、気のせいでなければ、そう言われた。  この素晴らしい人が、自分を好きだと。  心臓が破けそうだ。胸を内側からどんどこ叩くそれを押さえるように手を当て、片瀬は頬を上気させる。 「俺のことですか? 本当に……?」 「当然だろう……何度もそう伝えているよね……?」 「いえ……はじめて、言われました、けど」  櫻木の顔が、生き返った死人を見るかのような驚愕を浮かべた。  その瞬間、人が四人もいるリビングなのに不自然極まりない静寂に包まれる。たった二秒程度だが、怖いほど緊張感を帯びた沈黙。  夢野が突如パンッと打ち鳴らした手の音に、片瀬と櫻木は同時に飛び上がった。 「誤解の大元がわかったようで何よりよ……。大事な話は二人きりでしてもらうとして、お暇する前にひとついいかしら」  花田が「俺の分も頼んだ」と言って彼女の背中をポンと叩く。  バトンを受けた夢野は、固まったままの櫻木と片瀬へ向かって上品な艶のある赤い唇をニコッと笑みの形にした。 「あのね片瀬くん。ご存じのとおり、大成くんは見た目だけじゃなく仕事はできるし優しいし、いい男よ。だけどね、恋愛面では駄目男なの」  櫻木が小さな声で「それは言いすぎじゃないかな」と抗議するのを、彼女はあえてスルーする。 「ボンボンで、なんでも卒なくこなす器用さを持ってしまったせいで、恋愛面では挫折らしい挫折を味わっていないんだもの。痴情のもつれ……どころか、恋人と喧嘩すらしたことないんじゃない?」  それは一般的に『よいこと』ではないのだろうか。そう思って櫻木の顔を見ると、彼も不可解そうな面持ちをしていた。  額に手を当てるリアクションで呆れを訴える夢野は、まるで覚えの悪い生徒に頭を悩ませる教師のようだ。 「二人してわかってないのね……」 「喧嘩しないのは、僕がきちんと恋人と丁寧に過ごしていた結果だと思うんだけれど」 「違うわ。大成くんはとにかく金にものを言わせてプレゼントをして、機嫌よくいてくれたらオッケーだと思っているだけ。そんなのは恋愛とは言えないのよ。これまでに、喧嘩なんてどうしてするんだろう、億劫じゃないんだろうか、って思ったことない? 一度でも腹が立ったり苛立ったら、ああ駄目だったなってあっさり別れたことはない?」 「……」  無言はわかりやすく肯定を示す。  片瀬が密に接したことのある夫婦や恋人といえば、亡き祖父母、それから会社の専務夫婦くらいだ。祖父母は喧嘩などしているところを見たことがないものの、専務は妻にほぼ毎日お小言をいただいている。  それは楽しそうな様子とはほど遠いはずなのだが――ふと、専務夫婦が毎年お互いの誕生日と結婚記念日を必ず祝っていることを思い出した。一を言えば十が伝わる、魔法みたいなやり取りも。 「喧嘩は大切なコミュニケーションなのよ」 「喧嘩するほど仲がいい、という、あれですか……?」 「そうよ、片瀬くん。それを億劫だと思ったり、歩み寄らず別れを選んだりする時点で、相手を丸ごと愛する努力を放棄してるの。それから、本当にあげなきゃいけないものは、お金じゃ買えないわ」 「……深月のお説教は効くねえ」 「でしょ。あとね、片瀬くんにもひとつ」  凛とした夢野に見据えられると背筋が伸びる。  彼女は微笑で花田と目を合わせると、お茶目に櫻木をちょんと指さした。 「そんななりで恋愛初心者なんて、面倒なことこのうえないけど……大成くんをよろしくね。これはわたしたちの総意よ」  ほんの束の間、喉の入り口がきゅっと狭くなる。涙が込み上げてくる前兆の反応を、片瀬はか細く長い溜め息で掻き消した。  自分は彼に相応しくない。何も返せない。彼が幸せになってくれるならいい――この恋は上出来だった。  そうやって心の奥の奥に押し込めたものを今、取り出していいよと許された。他でもない、櫻木を大切に思う二人に。  嬉しくて、光栄で、櫻木のそばにいる権利をもらえたことにお礼を言いたいのに口を開けられない。唇が震えないように引き結んでいるからだ。 「さっき片瀬くんが大成くんのために嘘をついてるって気付いたとき、本気で大成くんを引っぱたいてやろうと思ったの。だけど迷わず間に入ってきたあなたになら、この貢ぎ癖のあるおじさんを預けられる」 「どうかそばにいてやってくれ。君が飽きるまででいい」 「できればそれが、ずっとずっと先であればわたしたちも嬉しいわ」  膝の上で握った手に、大きな手がかぶさった。このタイミングで手を握るだなんて、櫻木はズルいにもほどがある。 「そうしてもらうための努力は惜しまないよ」  片瀬は男の手を握り返す。たくさん言いたいことがあるはずなのに、胸がいっぱいで何も言えなかった。  花田と夢野が出かけていき二人きりになった途端、櫻木は片瀬を隣に座らせる。座面に片脚を乗せて向かい合うと、正面からぎゅうっと抱きしめられた。  肌触りのいい服の向こうから、じんわりと伝わるほのかな体温。深みのあるウッディ系の香り。いつもどおりの、片瀬が恋をした、櫻木大成だ。 「好きだよ、アズくん、大好きだ。こんな大切なことを言わずにいて、ごめんね」  彼に出会ってから何度も埋まった腕の中で、不足のない幸福感がどんなものかを知る。何も足りないものがない、という感覚は恐ろしい。歓喜に沸き立つ細胞が端から幸せ中毒に罹患して死に絶えていき、己を失いそうだ。  腕を伸ばし、広い背中を抱き返す。夢野との許嫁関係を知った日から、こうしたいのを懸命に堪えていた。どこんどこんと賑やかな音がする胸を押しつけて、皮膚と筋肉に隔たれた別世界にある男の鼓動を探ろうと躍起になった。 「俺も……俺もちゃんと、訊けばよかったんです。ごめんなさい……」 「それよりも、もっと聞きたいことがあるよ。何かわかる?」  後頭部へやってきた手のひらが、髪の生え際をすりすりとなぞって言葉をねだった。  わからないはずがない。片瀬が一番欲しくて、さっきもらえたばかりのものだ。 「俺も、櫻木さんが、大好きです……」 「ああ……久しぶりに聞けた。嬉しいよ……」  深々と長く吐かれた安堵の息が、すりこむように片瀬の耳元やこめかみを這う。ぬるく湿った呼気をすぐ近くで感じられるのが嬉しくて、片瀬は「すき」「だいすき」と、熱に浮かされたみたいに繰り返す。言っていいのだと思うと止まらなくなった。 「好きです、櫻木さん……ホントに、すごく好きで」 「アズくん……僕もだよ。好きだ。君が愛しくて仕方ない」 「嬉しい、です」 「僕の好きは、キスや、その先のことがしたい意味の好きだけど、同じでいい……?」  こくこくとうなずき返すと、「言葉でちょうだい」と低い声に甘えられる。耳穴から入り鼓膜を震わせた睦言が、櫻木の気持ちを欲しがるあまりカラカラのスポンジみたいに欲張りになっている脳みそへ、じゅわあ、と染みこんだ。抱き合って本音を明かし合っているだけなのに、愛撫されているみたいに気持ちがいい。 「ぁ……あ……俺、も……櫻木さんと、キスとか、その先……え、エッチなこととか、恋人同士がすること、したいです……ッ」  素っ裸で一緒にシャワーを浴びたことも、ベッドの中でじっくりと性器を愛されたこともあるのに、今が一番恥ずかしい。顔から火を噴きそうだ。  抱きしめる腕を解いた櫻木は片瀬の顔を覗きこみ、とろける笑顔を浮かべた。 「よかった、今度こそ僕たちは同じ気持ちで、恋人同士だ」 「今度こそ……」 「そう。君とすれ違って愛し合える時間を無駄にしたのは、もったいないことをしたな……と思うんだけど、こうして君の本心を聞けた今は、僕たちが愛し合うための必要な誤解だったのかなとも思うよ」 「……喧嘩はコミュニケーション、ですもんね」  夢野のアドバイスは片瀬にも十二分に効いている。疑問も不安も、逐一言葉にするべきだった。  言えなかったのも、自己完結して家を出て行く準備をしていたのも、直截な言葉で切り捨てられるのを無意識に回避しようとしたからだと、今ならわかる。 「俺、自分に自信なんてないですし……今でも櫻木さんに返せるものがないなとか、夢野さんみたいに素敵な女性のほうがいいんじゃないかなとか、思うんですけど」 「アズくん」 「で、でもっ、櫻木さんが俺を好きって言ってくれたから……これからはちゃんと、なんでも話します」  片瀬自身を卑下する物言いを咎めるために潜められた眉間のしわが、ふわっと解けた。  櫻木を知るにつれ、堅いものとなっていった信頼は今も変わらず心の中にある。誤解してすれ違ってしまったが、根底にある彼を信じる気持ちは傷ひとつついていない。  一朝一夕で自分に自信は持てないだろうが、息するように信じられる櫻木の愛情があれば、もう怖いものはないと思うのだ。 「だから……恋人として、よろしくお願いします」 「……もちろんだよ。はじめての喧嘩で、はじめての仲直りだ。ちょっと照れるねえ」 「ですね」  額がこつんと触れ合うと、軽くうつむいている櫻木の髪が数束落ちてきた。くすぐったい感触に吐息を漏らすように笑う。ほころんだ唇に湿って温かいものがくっついた。  キスだ。気付いてから固まる片瀬の腰を緩く抱き、ぼやけそうな近さで男が目を閉じる。つられてまぶたを下ろすと、唇のあわいを濡れた舌が窺うようにちろりと舐めた。  ここを開けて。ここに入らせて。  櫻木は何も言っていないのに、そう言われた気がした。頭で考えるより早く本能的な部分が悦び、閉じた唇を開いていく。 「んン、ん……」  櫻木は決して無理に押し入ってこなかった。気恥ずかしさからゆっくりとしか口を開けない片瀬を根気強く待ち、濡れた粘膜を徐々に自分のものに変えていく。唇の内側から少しずつ、口の中が櫻木の味になっていくのが嬉しい。 「さく、……さくらぎさ、ぁう、ん」 「怖くないよ。あ、って開けてごらん。この中を全部僕に舐めさせて」  なんて恥ずかしい言い回しをするのだろうか。キスがはじめてというわけでもないのに、うなずくことが恥ずかしくてまごついてしまう。  するとしっとりと湿った唇を啄みながら、櫻木が両手で片瀬の側頭部をすっぽりと覆った。途端、手のひらの内側で籠る乾いた音と、半開きになった唇の中を舐める濡れた音が頭の中で反響する。ゾクゾクッと腰の辺りがむず痒いみたいに痺れ、思わず詰めた息を吐いた。 「いい子だね」 「ぁ、うんん……ッ」  そんな隙を見逃さない櫻木は、すかさず開いた唇の間へ舌を差し入れた。厚ぼったく、生き物みたいにうねるそれが口内で狼狽える片瀬の舌にぬろぬろと挨拶している。来客前に飲んでいた珈琲の味がかすかに残っていて、つい味わうようにざらりとした表面を舌先で撫で返した。  粘膜の触れ合いが気持ちいい。もっと欲しくて、餌を強請る雛のように顎を上げては櫻木の唇に吸いつく。 「梓真……っ」 「んぇ、ん、……ッン」  何が櫻木の理性を揺さぶったのかはわからない。突然がばっと片瀬の頭を抱きこんだ櫻木は、食らい尽くさんばかりの激しさで唇を貪った。  巧みな舌先に、口内を本当に全部舐められている。歯列ごと歯茎を、舌の裏側を。強く吸われて痺れた舌は気まぐれにあやされ、ふわふわとした頬の内側までも丁寧に。  あふれる唾液を掬い啜られたかと思えば、代わりにどうぞと彼からあふれたものを注がれる。ほのかに甘く感じる恋人の体液を従順に飲み下すと、櫻木は満足そうに口角を上げた。 「君はどうしてこんなに可愛いのかな。実は天使だと明かされても僕は信じるよ」 「そ、れは、言いすぎだと……」 「いいや、可愛い。たとえ今の僕と同じ歳の頃になったって君は可愛いよ。大好きってすごいねえ。君の何もかもが好ましい」  そんなわけないです、と言いかけた片瀬ははにかんだ。  いつかは髪が薄くなったり、しわが増えたり、体型が変わったりするだろう。そんな自分を見て彼が「可愛い」と言うとは思えない。だが今より老けた櫻木を前にした片瀬は、「今も素敵ですよ」と言う自信があった。  だったら、そんなわけがあるのだ。 「言ってほしいです。今の櫻木さんと同じ年になった俺にも、可愛いねって」 「ああ、梓真……どうしよう」  泣くんじゃないか、と思うくらいに男の顔が歪んでいく。  何か変なことを言ったかと焦る気持ちは、櫻木の困り果てた嘆きを聞いて溶けた。 「本当にあげるべきものは買えないと言われたばかりなのに、何かプレゼントしたくて堪らないんだ……可愛い、愛しいって思うと、なんでもあげたくなってしまう。僕はどうすればいいだろう。君は何も欲しがってくれないから、この気持ちをどうすればいいかがわからないんだ」 「夢野さんは……櫻木さんがそうやって贈り物をするのは、恋人を機嫌よくさせておくため、っておっしゃってましたけど、本当は違うんですね」  贈り物は彼の愛情表現だったのだ。そう微笑ましく思ったがしかし、櫻木はあっさりと首を横に振った。 「いいや、深月の言ったことは合っているよ」 「……?」  片瀬は首を傾げる。好きだから、可愛いから貢ぎたいと、たった今その唇で告げたばかりだというのに。 「彼女たちに対する尊敬や愛情は嘘じゃないけれど……口うるさく言われないよう、無用な争いを避けるために贈り物を用意していたんだなと気付いたんだ。君に何を贈ろうか考えていたときの気持ちが、これまでとは全然違ったから」  高く形のよい鼻梁が、片瀬の頬に触れる。肌の匂いをかき集めて嗅ぐようにあちこちへ鼻先が移動するから、くすぐったくて肩を竦めた。  その反応に満足そうな笑みを浮かべ、櫻木は片瀬の頬を吸いつくみたいに食む。このまま食べられてしまいそうだなと思ったが、それはそれで悪い気分じゃなかった。 「僕が恋人に何かを貢ぐのは、それが一番手軽だったからだ。相手の喜ぶ顔が見たいなんて考えていなかった。僕はとても心ない恋人だった。だけど君への贈り物を考えているとき、僕はいつも君の喜ぶ姿が見たいと思っていたよ。打算もなく、単純にね」 「そんなふうに言われたら、嬉しくて有頂天になっちゃいそうです」 「なってほしい。僕に心底愛されていることを自覚して、自惚れて。ああ、もう――本当に、君がそばにいてくれるなら、僕の持っているあらゆるものを贈りたい……」  切ない溜め息が唇のすぐそばへ吹きかけられた。至近距離すぎてぼやけていても、櫻木が途方に暮れているのがわかる。  変わった人だ。片瀬に物を贈れないだけで、こんなにしょげ返って。可愛くて、格好よくて……片瀬だって、あらゆるものを捧げたいほどに愛おしい。 「ありがとうございます。でも俺はなんにも――いえ、やっぱりひとつだけ……おねだりしてもいいですか」 「……! もちろんさ。なんでも言って」  すりすりと触れ合わせていた顔が離れていき、肩をがっちりと両手で掴まれる。紅茶色の瞳が、念願叶って玩具を買ってもらえた子どもみたいにキラキラ輝いていた。  食い入るように見つめられ、片瀬は己がこれから言う我儘に彼がどんな顔をするだろうかと緊張する。  それでも言わないでいる選択肢はなかった。 「他には何もいりませんから……あなただけ、ください」  期待に満ちていた男の表情が、泣き笑いのそれへと柔らかく崩れてゆく。 「――……ほんとうに?」  たどたどしい問いは、片瀬に不思議と庇護欲を抱かせた。立場も年齢もずっと上の立派な紳士を、片瀬なりに守ってあげたいと思う。「本当です」と彼の頭を撫でたのは、そういった心境からだった。 「何もいらないって、例えば車がなかったり、家が1DKでもいいのかな」 「いいです。車がなければ二人で一緒に歩いたり、電車に乗って出かけられますね。家が1DKだったら、いっぱいくっついていられそうです」 「誕生日くらいしかプレゼントを渡せなくても? おいしいものを食べさせてあげられなくても?」 「誕生日は一緒にいてくれたらそれが一番嬉しいです。おいしいものは、俺が頑張って作ります。節約料理のレパートリーなら、いっぱいあるんですよ」  クスクスと男が笑う。片瀬を信じていないわけではなく、単に言葉で愛を感じるのが嬉しいのだろう。そうやって喜んでもらえるなら、どんな屁理屈も打ち返せる。  しかし櫻木はもう満足したのか、再び片瀬を腕の中に抱きこんだ。 「アズくん」 「はい」 「結婚しよう。愛してる」  本気か、言葉のあやか。どちらか測りかねたが、どちらでもいい。この男のそばにいたい気持ちは変わらない。  片瀬はふんわりと微笑んだ。 「俺でよければ、喜んで」 「ふふ、嬉しいなあ……! 君じゃないと嫌だよ。もうあのアパートは解約しようね。荷物はすぐにでも運びこみたいけど、それは年明けから動くのでもいいか……部屋は今のまま使ってくれて構わないけど、眠るときは僕のベッドだ。いいね?」  矢継ぎ早な提案には口をはさむ隙もない。否を唱えさせる気は毛頭ないといった様子だ。恐らく片瀬が首を横に振る気がないのも、隅々まで見越しているのだろう。 「はい、俺もそうしたいです」 「はあ……怖いくらいに幸せだ。どうしようね」 「えっと、じゃあ、訊いてもいいでしょうか」 「なんでもどうぞ」  頭や頬など、あちこちに弾むようなキスが繰り返される。くすぐったさも片瀬にとっては幸せな感覚だった。 「櫻木さんは何か欲しいものとか……俺にしてほしいこととか、ないですか?」 「気を遣ってるのかな」 「違います。その、俺はいっつも、たくさん櫻木さんに幸せにしてもらってるので、何かお返しというか……いえ。単純に、あなたの喜ぶ顔が見たくて」  そう言ってから、片瀬は聞き覚えのありすぎる台詞の出どころに気付き、思いきり吹き出した。櫻木も理由を察し、柔らかい笑みで頬を頭にすり寄せてくる。 「僕らは似ているのかもしれないね。したがりだ」 「はい……俺は櫻木さんみたいに、なんでも叶えられるわけじゃないですけど……できることはなんでもします」 「そんなこと言っていいの? 僕はアズくんと違って我儘で強欲だから、欲しいものは遠慮なくおねだりするよ」  こくんとうなずいた。遠慮なんかされたくない。しかし彼は片瀬に用意できるものしか言わないのだろう。そういう人だから、こんなにも安心して身を預けられる。  案の定、櫻木のおねだりは用意のし甲斐がないものだった。 「僕は君が欲しいよ。アズくん」 「それは……無理です。俺はもう櫻木さんのなので」 「そうだね。けど君が思うよりずっとずっとたくさんの全部が欲しいんだ。――ここの中も全部、僕が触って、僕の形にして、僕の匂いをつけたい」  男が「ここ」と言いながら指先で叩いたのは、片瀬の下腹部だった。なぜそんなところを指すのかわからず、曖昧に首を振る。 「中……って」 「ああ、わからないかな。そうだよね、君はとってもウブだから。あのね、アズくん」  男はどこか嬉々として耳に唇を寄せてきた。形のよいそれが、囁き声で「君を抱きたい」と告げる。  みるみるうちに紅潮する頬を隠す余裕もない片瀬は、目を大きく見開いた。 「お、俺、男なのに……?」 「そうだよ。僕は男の子のアズくんを抱きたい」  へそのすぐ下辺りを優しく撫でられる。そんなはずないのに、内側が彼を欲しがってうねるような感覚を覚えた。 「くれる?」  戸惑いはあった。櫻木の言うように、そこに――胎の内に、男を迎え入れるなんて考えたこともない。だがやっぱり片瀬は、彼の欲しがるものを全て捧げたかった。  目の前の首に抱きつき、「どうぞ」と小さな声で言う。 「お、俺の全部は……もう櫻木さんの、です」  最も欲しかったものを与えられた櫻木は、片瀬の細腰をぐいっと抱き寄せる。 「ありがとう……もう返さないからね」  心なしか、そう宣言する声には焦燥がにじみ、低くごろついていた。  いつぞやと同じように抱き上げられ、一歩も床に足をつけることなく櫻木の寝室へと運ばれる。  これからこの部屋で、彼が毎日使っているベッドで抱かれるのだと思うと、緊張と羞恥と、それから少しの怯えで、心臓が口から飛び出してしまいそうだ。 「……あの」 「ん?」  ふかふかのベッドへ下ろされ、すぐそばに腰かけた櫻木がそっと手を握ってくれる。  片瀬の緊張をほぐすように、やわやわと両手で優しく揉まれると、無意識にきゅっと上がっていた肩に気付いた。  大きく息を吸い、吐く。そうしてから、微笑んでいる恋人を見上げた。 「う、うまくできるかどうか、自信はないのですが、その、頑張りますから、呆れないでもらえると……」 「何を可愛いことを言ってるのかな。頑張らなくていいし、呆れるだなんてとんでもない」  握っていた手を持ち上げ、甲にキスをされる。幼稚園の先生が読み聞かせてくれた絵本に出てきた、金髪巻き毛の王子様みたいだ。 「僕が君に何もかもを教えても構わない?」 「面倒でなければ……。何をどうすればいいか、わからないので……」 「面倒だなんてありえないな。ふふ、教えてあげるよ。僕がどれだけ、君にこうして触れたかったか」 「ぁ、……んっ」  顎を掬い上げられ、唇が重なった。微笑みの形がよく似合う薄い唇は、食いしばった片瀬のそれを何度も啄む。彼のキスの心地よさを身体が思い出した頃には、片瀬の服はほぼ脱がされていた。 「え、……え? あれ、服……?」 「可愛いね。そのままうっとりしておいで」  軽く肩を押されただけでベッドに背中から転がってしまう。後頭部を受け止めたのはマットレスでも枕でもなく、支えてくれている手のひらだった。 「もう一回キスしようか。舌を出してみせて……?」  恥ずかしい、と思った。だが彼にねだられることは、全て叶えたい。  今にも灼けつきそうな視線から逃げたくなる羞恥を堪え、薄く開いた唇から舌をちろりと伸ばす。すると男は「いい子だねえ」と褒め、舌先同士をぬるぬるとこすり合わせた。 「は、ぁ……ぅん」 「アズくんの舌は小さいね。いつもうっかり食べてしまいそうだなって思っていたんだ」 「んんっ」  ジュッ、と吸いつかれ、舌が彼の口内に招き入れられていた。温かくて甘い唾液に包まれ、ぐちゅぐちゅと揉みしだかれる。角度を変えて何度も口づけられるうち、胸の辺りでぴりっとした刺激が走った。  慌てて喉を締める。そうしないと、甘えた声がこぼれてしまいそうだったからだ。  啜るように片瀬の唾液を取り上げて喉を鳴らした櫻木が、名残惜しそうに唇を解放する。 「君のことを口で愛してもいい?」 「くち……?」 「そう。こうやって……」  はぷ、と首筋を櫻木が食んでいる。動脈の上、人間の急所だ。硬く形よい歯が軽く食い込む程度に当てられ、気まぐれに吸いながらもぐもぐされている。  ぞくっと不思議な感覚が全身を震わせた。好きな人に味わわれる恍惚は、癖になりそうに気持ちがいい。 「う、っん……」 「どこもかしこも可愛いねえ……特にここは小さくて、ふわっとピンクで、見ているだけで堪らないよ」 「……っ!」  鎖骨や胸骨の凹凸も唇と舌でたどり、やがて櫻木は大きさも色も控えめな乳首に到達した。薄く色づいた部分を舌でくるくるとなぞり、息を詰める片瀬を上目に見つめながら肌を吸う。その舌が徐々に小さな突起に近づくと、身体が勝手に期待で戦慄いた。  ぎゅっと歯を食いしばる。  ちょん、と柔らかなそれが、かすめるように乳首を舐める。途端、さざ波に運ばれるように全身へ快感が伝播した。 「ふ……っ……」  顎に力を入れていなかったら、きっととんでもない声が出ていたに違いない。あんなに小さな、なんの役にも立たない粒だというのに、櫻木の舌にあやされたそれは嬉しそうにぴんと硬くなっている。  これまで何度も彼の指で弄られたが、舌がくれる気持ちよさは尋常じゃなかった。触れられてもいないのに、下半身がじんじんと熱い。 「ふ、っふぅ」 「気持ちいいね。こっちもしてあげよう」 「……っ!?」  頭を支えていた手が離れ、ついさっきまで舌が弄んでいた乳首をつままれる。そればかりか、櫻木は放っておいた反対側の尖りへ舌を移し、そこを少しばかり強めにちゅうっと吸った。 「ん、う」  シーツから背が浮いてできたささやかなトンネルに、櫻木が片腕を通す。そうして抱え込まれれば、片瀬は満足に身動きできなくなってしまった。 「や、ぁ、櫻木さん……っ」 「コリコリしてて可愛い。いつまででもしゃぶっていたくなるよ」 「ひぅ……っ」  肉厚な舌に押し潰されたり弾かれたり、指の腹で挟まれてすりすりとこよりを作るようにすり合わせられたりと、左右の乳首に与えられる刺激はバリエーション豊かだ。そんな愛撫に櫻木との性的経験しかない片瀬が耐えられるはずもなく、身体がむちゃくちゃにのたうった。  顔の両脇で枕をわし掴み、爪先はこの場から逃げたそうにシーツを蹴る。だが腰は抱えられているし、脚の間には恋人が陣取っていて無意味だった。  ――もう無理だ。こんなに気持ちがいいことをされたら、駄目になってしまう。 「さ、櫻木、さ」 「ん?」  胸粒を甘噛みされる快感に限界を覚えた片瀬は、そろりと恋人の頭に手を乗せる。整髪料でラフに整えられた髪に指を通すと、どうにかそこから離れてもらうため頭を剥がそうとした。 「そ、そこは、もう」 「ああ、そうだね」  今の今まで淫猥に乳首を舐めていたとは思えない、さわやかな微笑みだ。  ニコリと笑う櫻木を見て、片瀬はほっと胸を撫で下ろすが……。 「ここばかりじゃ、こっちのアズくんが可哀想だね」 「え? っ……」  乳首を捏ねていた手が、下腹のさらに下へ添えられた。淡く生えた毛をつまんで軽く引っ張られ、慣れない感覚に息をのむ。 「乳首が気持ちよかったんだね。こんなに可愛い形になってる……」 「っ……ちょ、あの!」  思わず櫻木の手を掴んでいた。そうでなければ、大きな手のひらは片瀬のはしたなく勃起したそれを包んでいただろう。 「どうかした?」  不思議そうな櫻木は、きっと思うように片瀬の手なんて振りほどけるだろうに、おとなしく待ってくれている。ひとつひとつ片瀬を怖がらせないよう、丁寧にことを進めてくれる優しさが愛しい。  だから、そこは駄目なのだ。 「そこは……あの、いいですから」 「……? どうして?」  なんと言えばいいのか、迷いに迷って口ごもる。  すると櫻木はおもむろに隣へ横たわり、片瀬を優しく抱き寄せた。 「言ってごらん。嫌だったかな。僕はアズくんの嫌なことはしないし、急く気もないよ。君の考えていることが知りたい」  話している最中も、頭や顔中に弾むようなキスが降る。だんだんと身体の力が抜け、心地よさが満ちていった。  だが、それに甘えてばかりはいられない。  乳首ですら、喉を締めて息を詰めていないと、おかしな声が飛び出しそうだったのだ。男の身体でもっとも弱い中心を好きな人の手に触られたら、今度は我慢なんてできるはずがない。彼の手管に何度も追い詰められたことのある片瀬にはわかっていた。 「えっと、もう……抱いてもらうのは、駄目ですか?」  頭上から不自然な息遣いが聞こえる。何かを言おうとしてのみこむようなそれに顔を上げるより早く、穏やかな声がした。 「……ん、そうだね、準備しないと」 「それは何をすればいいですか? やりますから、そろそろ教えてもらってもいいですか……?」 「――……」  肩を抱く腕にぐっと力が入った。片瀬が顔を上げると、男が切なそうに眉を寄せている。さっきまで幸せそうだったのにどうしたのだろうかと、片瀬は櫻木の頬を撫でた。 「櫻木さん……?」 「アズくんは僕に触られるのは嫌だった?」 「え……? いえ、そんなことはありません。櫻木さんが大好きです」 「よかった、僕も大好きだよ。ならどうして、触れることを止めたり、すぐに進めようとするのかな?」 「そ、れは……」  話すまで待つよ、とばかりに、櫻木は片瀬を抱え直す。ゆったりと髪や背中を撫でられるのは心地がいいけれど、このままでは困る。  櫻木は中まで片瀬を自分のものにしたいと言ってくれた。そうされることを片瀬も望んでいる。だから、早く先に進みたい。 「あの、俺……身体がいやらしい、みたいで」 「……え?」 「すみません、俺もその……知らなくて」  笹本が片瀬の反応を淫らだと笑ったのを覚えている。あのときは櫻木が状況のせいだと教えてくれたし、納得もしている。  けれどその後も櫻木に触れられると、あの乱れた夜と変わらないくらい、いや、もっといやらしく反応していた。何度も彼の手の中に白濁を吐き出し、何も出ないときだって身体はオーガズムを感じ、聞くに堪えない声が止まらなかった。  笹本と会ったことで櫻木を怒らせてしまった夜、いつになく激しい手淫で達した片瀬を見下ろし、彼が言った言葉は真実なのだと思う。 『こういうのが好きなわけではないね?』  ――そう見えてしまったのだ。片瀬にそんなつもりはなくとも、身体の顕著な反応で。  彼はすぐに謝罪と撤回をしてくれたが、咄嗟に飛び出す言葉とはつまり、核心なのだ。 「淫らだから、あんまり触られると、変な声が出てしまうんです」 「アズくん……」  途方に暮れているような声だった。櫻木を落胆させたただろうと思うと申し訳ない。 「これまで、俺ばかり触ってもらって、変な声を聞かせてしまいましたよね。俺我慢できなくて……えっと、だから、触るのはなしでお願いしたいんです。抱いてもらう準備は、全部教えるって言ってくれたので、ちゃんとできると思います。だか、っ」  唐突に、締め上げるような加減で櫻木の腕の中へ取りこまれた。
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