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賢木が電話を終えて席に戻ってきたのは、それから30分後の事だった。
「すまない。ちょっと取引先と話が弾んでしまって」
電話に出る前とは打って変わって上機嫌な婚約者の顔に、驚いた。
「随分儲かってるのね」
皮肉を込めて言ったつもりだが、相手は言葉通りに受け取ったようだ。
「ビジネスが上手くいくのは良い事だ。こうして美しい妻と良い酒が飲めるんだから」
しばし黙った後、「そうね」と言った。
「近いうちにシンガポールに行く事になりそうだ。向こうで大きな商談がある。君にも来てほしい、千香」
「えっ?」
千香は驚いて、ワインをこぼしそうになった。
「先方に君のことを話したら是非会いたいと言ってるんだ。事務所には俺から話しておくからかまわないだろう」
「で、でも-」
「この際だ。先の見通しが立たない芸能界なんて引退して主婦業に専念するのも手かもしれないぞ?なにも自分が表に立ってアピールするだけが仕事じゃないと思うが」
わずかに剣のある言葉が気にかかった。
「どういう意味?」
「自分は一歩引いて夫を引き立てるのも妻の役目だって事だ。立派なPRになるぞ」
絶句する千香をよそに、賢木はボルドーの最後の一滴を飲み干した。
「とにかくシンガポール行きは既定路線だ。事務所には俺が話す。仕事は全てキャンセルしろ。―いいな」
有無を言わせぬ口調に、膝の上に置いた手のひらを握り締めた。
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