もう離さないでね

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 もうじき二歳になる娘は、よく歩く。周りをあまり気にせずただひたむきに小さな足を動かしている様子を見ていると、いったいどんなことを考えながら歩を進めているのか気になったりもする。  幼い子どもにとっての散歩は、きっと不思議に溢れている。世界はどこまであるのかとか、見慣れないものに気を取られてしょっちゅう足を止めたりとかがメインで、目的地に向かって懸命になるものではないはず。  手首を握っている手に意識を戻すと、娘が顔を上げた。 「おかあさん、こっちにいくの?」  生まれたときより少し濃くなった栗色の髪はようやく肩につきそうなくらいに伸びている。ざんばらなその毛先から、くくれることになるのはいつの日かという思いが脳を過ぎった。 「こっち……」  改めて周囲に意識をやると、いつもは踏み切りを渡ってそのまままっすぐに太い道を行くのが、無意識に右折していたようだ。用水路沿いに続く細い道の上を県道が走っていて、トンネルにさしかかるところで娘が問うてきたのだった。  まだ盆には早いけれど、娘と二人、私の実家に帰省している。自分の家の近くにはない、幅一メートルほどの暗い道に驚いたのかもしれない。娘の目に、不安げな色が見える。  繋いだ手と反対に差している日傘をくるりと回して、私はクマゼミのシャワーと共に怯えを弾き飛ばすように笑いかけた。 「そうだね、いつもは太い川に向かうけど、今日はちょっとこっちに行ってみようか」  まっすぐ進めば、ヌートリアがドボンと飛び込むところに出合うかもしれない田園沿いの川に出るコースだった。何を隠そう小中学生の頃に好きだった人の家の側を通るので、いつもほのかな期待を胸に、ついつい足が向いてしまっていた。  今更姿を見かけたからといって、何があるわけでもないのに。  苦笑しながら、日傘がコンクリに当たらないように気を配りつつトンネルを進んでいく。  それなりのスピードで流れていく水と完全な日陰ということも相まって、かなりの気温差に産毛がそばだった。  こっちに行くと確か――  ぱあっと視界が開ける。右手に用水路、左手は坂道。坂道の途中には二つ下の妹の同級生の家があるのを思い出した。  そうだ、それに――  進む先、坂道と合流したところで左に行くと、少しだけ坂道をのぼったところに古い家がある。 「けいちゃん」  黒い壁に黒い瓦、中に入れてもらったことはなく、けいちゃんと遊ぶときはいつも私の実家に近い山の中でだった。  幼い頃に数度見た程度だが、けいちゃんの母親は子どもの年齢にそぐわずいつも前屈みで痩せぎすで柄物の割烹着とモンペ姿だった。丸い眼鏡と出っ歯が印象的で、ネズミのキャラクターみたいと思ったものだ。  けいちゃんは、当時全員参加が当たり前だった子ども会に入っていなかった。母親が入れてくれなかったらしい。当時は平日にもフットベースボールやソフトボールの練習をしていたのもあり、町内では少し鼻つまみ者扱いされていたように思う。  女子全員が読んでいると言って過言ではない少女漫画の話もできず、「漫画ってどう読めばいいの?」と尋ねられたときには真底驚いた。  私だって教えられて憶えたわけではなかったけれど、コマを見る順番を教えた記憶がある。  そんなけいちゃんと私が遊ぶときは、山道を登る。といっても山の中にはあちこちに墓地があり、そこそこ整備がされている。道なき道を進んだとしても、下ればどこかの民家に辿り着く、そんな程度の小高い丘だ。  ロープを木に結んで、山肌を滑り降りて楽しんだり、竹を組んで秘密基地を作ったりした。 「わたしたちっ、おんなのこっ、たんけんたーい♪」  私が作詞作曲して歌い始めると、けいちゃんは嫌そうにしながらもしぶしぶ一緒に歌ってくれた。 「きょーうもげんきにたんけんよ〜♪」  納屋から持ち出したブルーシートを敷いて、葉っぱの屋根の下、二人で折り紙をしたりあやとりをしたり。  そういえばあのロープなんかはちゃんと元に戻したのかしらと、今更ながら心配になったけど、本当に今更だ。  けいちゃん、どうしているかなぁ。  坂道を上がっていく気にもなれず、ただ少し見上げる形で、その下の道を進んでいく。  私がけいちゃんと遊んでいたのは、確か一年から四年の間だけだ。五年生でフットの副キャプテン、六年生ではキャプテンに選ばれて練習に忙しかった。  受験すればどこからともなく噂が伝わる昭和の時代だから、そのまま同じ中学校に上がったのだと思う。けれど、私は校内で一度もけいちゃんを見かけたことがないと気付いた。 「え? なんで……」  二つの小学校区から一つの中学校に通うから、人数が増えた分だけ出会う確率は低くなるとは思う。けれど、体育会や登山、修学旅行と学年で行動する行事は多い。  なのにどうして一度も会うことがなかったんだろう。  無意識に足を止めていたらしく、娘が手を引いて意識をそちらに向けると、けいちゃんの家の方から飛んできたとんびが、私たちの頭上を掠めるようにして用水路に滑空した。  反射的に首を縮こまらせる私には見向きもせず、とんびは用水路からフナを掴んで舞い上がっていく。風にまかれて手放しそうになる日傘の柄を握り、私は呆気にとられてそれを眺めていた。 「ごはんのじかんなんだねー」  娘が笑っている。 「そうだね、お昼ご飯かな」 「おひるごはん、なにー?」 「何にしようかな?」 「なんでもいいー」  にこにことご機嫌な娘は、本当に好き嫌いがない。採れたての野菜ならなんでも生でかぶりつくので、トウモロコシを剥くのを手伝ってくれるときには注意が必要だ。 「こっちにいく?」  そのまま進むとヤクザの事務所に近付いてしまうことを思い出し、私は踵を返した。 「そっちは大きな道路に出るから危ないね、こっちへ行こう?」 「じゃあこうえんいくー」  確かに公園はこっちの方向だけれど、ここまでの距離の倍は歩くことになる。お昼までに帰れそうにないなと思いながらも、私たちは公園を目指した。  坂を越えたら小学校という場所にある公園は、下がグラウンド、上に大型遊具が並ぶなかなかに広い遊び場だ。但し、少子化に向かっている昨今、利用者の殆どは犬の散歩をする人だ。私たちが夢中になって何往復もしたローラー滑り台は錆付き、丸太ブランコやトンボシーソーは撤去され、新しく設置された木製のアスレチックがあるのみだ。  ときおり呼びかけてくる娘に手を振りながら、私はけいちゃんのことを思い出そうとしていた。  たぶん、いつものように山で遊んでいて……そうだ、墓地から少し離れたところにある井戸を見付けたんだ。  井戸のある家はそこそこあったけれど、竹やぶに埋もれるように放置されているその井戸の持ち主が誰なのかわからなかった。あってないようなぼろぼろの木戸を開けて近付いていったけれど、太い竹はないものの地面には枯れ葉が降り積もりほかには何もない窪地だった。  もしかしたら、墓参りの人が水を汲めるようにと作られたのかもしれない。  二人でしげしげと眺めたけれど、滑車もポンプもなく、今はもう使われていないことは明白だった。子どもでも覗ける高さ、そしてかぶせてあるのはトタンの切れ端。載せてある石をのけて、二人でそうっと井戸を覗き込んでみた。  当たり前だが、暗すぎて何も見えない。元々竹やぶの中は薄暗い。しかも整備されていない場所には殆ど光が入ってこない。夏場に少し涼しくはあるけれど、ヤブ蚊と戦いながら長居したい場所でもない。 「水、ある?」 「わかんない」  私の問いにけいちゃんは首を振ったけれど、すぐに興味を失った私とは違い、後ろ髪を引かれるように何度も振り返る素振りをしながらその場をあとにした。  今度来るときは懐中電灯を持ってこようねと約束をして。  それから――それから……?  日傘越しとはいえ、日に当たり過ぎたかもしれない。頭痛がし始めたこめかみを指先で押さえて、一度深呼吸する。  クマゼミに混じって、少しだけ聞こえてくるアブラゼミの声。  シャワシャワシャワ。ジージージー。  ああ、うるさい。考えがまとまらない。 「おかあさーん! たかいよ! みてー!」 「見てるよー!」  ブランコを漕ぎながらご機嫌の娘に手を振る。ああ、明るい方は目がチカチカする。そろそろ帰らないと。  そうだ、確か、次にそこを通りかかったとき、木戸が直されていて鍵がかかっていたんだ。  でも、その時一緒にいたのはけいちゃんじゃなかった気がする……? 「もう! おかあさんってば」  娘が、私に手を――  手を振ろうとしたんだろう、手を放して。 「だめ! 危ない!」  日傘を放り出して、私は駆け寄った。  まるでスローモーションのように、ぽーんと小さな身体が宙に舞う。懸命に腕を伸ばして、足を踏み込んで、私は。  砂まみれで帰宅した私たちは、まずはお風呂に直行して、しみるしみると悶えながら体を洗った。 「良かった〜頭打たなくて。もう手を放しちゃダメだからね?」 「うん、おかあさんもね」 「そうだね、ずっと隣にいれば良かったね」 「そうよ、めもはなしちゃダメなのよ」 「そうだね、気を付けるね」  幼児からは手を離すな。児童からは目を離すな。大きくなっても心を離すな。  子育ての約束だ。うっかり思考の海に沈んでいた自分を戒めて、娘と笑い合う。 「おかあさんは、わたしをみてなくちゃダメなの」  少し色素の薄い娘の目は、少し違うところを映しているように見えた。      了
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