ホウセンカ

1/1
前へ
/1ページ
次へ

ホウセンカ

思い出せないことがあるんだ。 僕に教えてくれないかな。 君は知ってると思うんだ。 あの、花の名前なんだけど。 学校からの帰り道、坂を上った角の家… そうそう、あの少し大きな家だよ。 高級そうな車がいつも車庫に入ってる家。 そのフェンスの内側に、赤い花が咲いてるだろう? 緑の生い茂る葉っぱに埋れて、たくさん咲いてる小さな花。 その名前を知りたいんだ。 はっきり覚えていないんだけど、小さなラッパみたいな形だったかな。 吹くと音がするんだっけ? …そんな音はしない? そうか、じゃあ僕の記憶違いだ。 でも、なんだか楽しい花だったんだよ。 僕はその花が大好きで、たくさん咲くとワクワクしていたんだ。 そのことだけは覚えていて、だからてっきり、音がするんだと思ったんだけどな。 …ああ、そうか。 種がたくさん取れるんだ。 小さな黒い種が、面白いくらい取れるんだっけ。 それに、変な形をしているんだよね。 そうだ、思い出してきた。 ああ、懐かしいなぁ。 僕はその花の種を、意味もなく集めていたんだ。 取れるだけ取った両手いっぱいの種を、誇らしげにおばあちゃんに見せに行った。 庭で育てることもなく、なんにもなりはしなかったけど、それは確かに、僕の宝物だったんだ。 ああ、そうだ。 小さな花は、ホウセンカ。 確か、そんな名前だった。 ありがとう。 君のおかげで、思い出したよ。 大人になって、すっかり忘れてしまっていた。 僕らの家が、古い木造だった頃。 坂の上には空き地があった頃。 隣のおじさんが、現役でフォークリフトを動かしてた頃。 夏休みには、近くの井戸で歯を磨いた頃。 あの頃の僕は、まだ何も知らなかった。 だから大人になりたかった。 だけど実際大人になっても、知ってることはふえないんだね。 僕はそれすら知らなかったよ。 今日、君に逢うまでは。 確かに僕は、君よりいろんなことを知っている。 けれども君は、僕よりたくさんのことを知っている。 例えば、僕が忘れてしまった、とても素敵で大事なことだ。 君は、全てのことを知っているんだ。 風の匂いも 雨の色も 夕焼けの青も 闇夜の明るさも 君はちゃんと知ってるだろう? 当たり前? うん、君にとってはそうなんだね。 だからどうか、そのまま歩んで行って欲しい。 君のまま君らしく、生きていければそれでいい。 君の未来は、果てなく広がっているんだから。 時には不安になることもあるだろう。 でも、心配しなくて大丈夫だよ。 君は宝を持っている。 そんなものは持っていない? ふふ、そうか。 それがかけがえない宝だということ、君はまだ知らないんだね。 そのことがわかるのは、僕が大人だからだろう。 それじゃあ、君に教えてあげる。 そっと両手をみてごらん。 そこに君だけの宝がある。 そう、君がにぎっている黒い種。 それは君の笑顔の種だ。 不安になったら思い出して。 夢中で集めた宝物。 君が育てる、たくさんの種。 君が育てる、君の未来。 君だけの、決して変わらぬ宝物だ。 話が長くなってしまったね。 僕はそろそろ帰らなくちゃ。 君も家に帰るだろう? 今日もたくさん取れたって、おばあちゃんに報告しなくちゃ。 それじゃあ、またね。 もう会うことはないかもしれないけど。 どうか、元気で。 君がいつでも笑っていられるよう、僕はいつでも願っているよ。 おばあちゃんによろしく。 …さようなら。 遠くで聞こえる電車の音。 窓から漏れ出す、夕餉の香り。 空を横切る鳥の影。 夕日に溶けてく小さな背中に、僕は小さく手を振った。 胸いっぱいの想いをこめて、僕に向かって手を振った。 ありがとう。 ありがとう。 どうか今を忘れないで。 小さな小さな、あの日の僕。 思い出したことがあるんだ。 君が教えてくれたんだ。 本当は僕も知っていた。 小さな小さな赤い花。 花の名前は、ホウセンカ。 今も心に咲き続ける、 決して消えない笑顔の種。 あの日の僕が夢中で集めた、小さな小さな宝物。 Fin.
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加