紳士的な男と、アリスと呼ばれる少女の話

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「まさか、本当にお忘れに······。左様ですか、致し方ありません。」 彼は力なく半ば自嘲的に、ふ、と笑みを零す。 「それならば、あなたが好きな飲み物をご用意いたしましょう。······些か、私はセンチメンタルな気分になってしまうのですが。」 この男、一言多いな、と思う。 何せこちらは右も左も分からず、目の前の男の素性も分からない。ただ、齟齬が生じていることは確かと言えた。 「どうぞ此方へ。」 彼は恭しく私の手を取ると、氷の上を滑るように歩き、座席へと案内する。ガラス製、空色の椅子。瞬く間に海の青、水色、桃色、橙色、深い青、漆黒の月夜へと色を変える。とうやら空を映しているようだが、何処の空なのかは皆目見当もつかない。 彼が手にしたティーポットから、何やら白い、液体らしきものが注がれる。紅茶だとしたらミルクティーかもしれないが、それにしては随分ととろりとしていて、ミルク色が濃いような。ほんのり香るバニラの甘い香り。 「あの、これは?」 「お好きでしょう?バニラシェイクで御座います。」 「紅茶じゃないの!?」 「ティーポットから淹れる飲み物が紅茶でなければいけないと、誰が決めたのでしょう?」 「え、うーん、確かに?」 「嗚呼、アリス。やはりご理解頂けるのは、あなただけ。」 私の曖昧な同調に、彼は安心したように頬を綻ばせる。 「しかし明日は何でもなくなくなくない日。」 「何でもないの?何かあるの?というか今日じゃなくて明日?」 私の疑問をよそに、彼は身に付けている古ぼけた小さな懐中時計に目をやり、また哀しそうに微笑む。 「あと五分······。アリス、私の話を、どうか最後まで聞き届けてください。」 なびく風が、呼吸さえも攫っていく。 「あなたが私のことを、この世界のことを覚えていらっしゃらなくても、私はあなたと出逢えて···幸せです。」 「ねぇ、ちょっと、なんのこと?」 「少し早いのですが······おめでとうございます、アリス。記念すべく一万回目のお誕生日。」 「えぇっ!?私まだ────」 そんなにおばあちゃんじゃない、と言いかける私に構わず、彼は言葉を紡ぎ続ける。 「別の世界でも、どうかお幸せに。」 ぐるり、と視界が反転し、"また"真っ逆さまに落ちていく。これが夢なら私の思う通りに話を創れないのは何故なのか、そんな思いが過った。 残された森の中、男はぽつりと呟く。 「···なぜ私は、あなたを愛してしまったのでしょう?そんな自問自答を膨大な年月の間繰り返し、未だ答えが出ないのです。こうして独りごちることにも慣れてしまった。」 ガラスの花瓶に飾られた、二本の黒い薔薇にそっと触れる。 「私の特別な言葉に気付いてくださらないと、また繰り返してしまう。伝われば崩壊を免れない世界で、一体何が正解なのでしょうね。」 花びらをちぎり、口の中へ。シュガーレースのように、さらりと溶けていく。 「別世界で生きるあなたを巻き込む訳には···いえ、もう後の祭りですね。来年、一万一回目の誕生日に······。」 そうしてカップのバニラシェイクにチョコソースを掛け、飴細工のティースプーンでこっくりと混ぜる。 晴れ間にパラパラ降り注ぐ金平糖の雨は、願い。 彼女は、今度は何を忘れてしまったのだろう。
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