37. 御挨拶に今日は伺いました。

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「ああ、待ってください。今日は挨拶に来たのですから」 「挨拶だと?」  トワは手を止める。 「ええ、そうです。隣に越してきた、その御挨拶に今日は伺いました」 「え、でも、隣は空き部屋になってますよね……?」  チトセがいなくなって以来、誰かが越してきた形跡はない。  すると、チトセは少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「前の部屋ではなく、あちらの部屋に」  チトセの指が、前に住んでいた部屋とは反対隣の部屋を指差す。 「あの部屋は賃貸でしたので、今回は思い切って分譲を、ね」  片目をぱちりと閉じ、チトセは茶目っ気たっぷりに言った。  賃貸から分譲って……つまり、買ったってこと!? 「ち、チトセさんってお金あるんですか? も、もしかして……あとで葉っぱになっちゃったり、なんてことは……」  チトセは吹きだした。 「柚姫、私は狼ですよ。それは、狐か狸の十八番(おはこ)です」  笑いながら、狼の尻尾を楽しげに揺らしている。  トワがふんっと鼻を鳴らした。 「柚姫、こいつの力なら通帳の記載を誤魔化すことくらい簡単だぞ」 「おやおや、人聞きが悪いですね。真面目に働いてこつこつと蓄えた財産を、そんな風に言われるなんて、心外です」  すっと柚姫の方へ視線を移し、 「あのビル……」 「え?」 「こう長く生きていると暇で、ちょっと働いてみたことがありました。柚姫を連れて行ったあのビルには、昔 老舗(しにせ)の呉服屋さんが入っていました。最初は小さなお店でしたが、私の働きぶりのお陰で商売繁盛、やがて大きなビルを建てるまでになりました。働いていたのは、二百年ばかしですが」 「に、二百年!?」  軽く人間の一生の二倍はある……。  しかしそれも、永遠という途方もない時間の前では、瞬くような時間に過ぎないのだと思うと、永遠の果てしなさを思い知らされる。  あのときは、トワの問いにすぐ頷いてしまったけれど、トワが考える時間を与えてくれた意味と、その想いが、今は痛いほど分かる。  柚姫が永遠の長さを実感していると、ふと疑問が湧いた。  どんなに年をとっても容姿が変わらないのでは、同じところに長く居座るなんて、できないのではないか? 「もちろん、年をとらないと怪しまれますね」  柚姫の疑問を感じとったチトセは、にっこりと笑う。 「ですから、怪しまれないように、ちょっと力を使いました」 「力……?」 「そうです、こんな風に」  言うなり、チトセは瞳に銀色の光を宿した。 「え、あれ……?」  柚姫の思考が、突如揺らぐ。  眠いような、宙に浮いているような感覚に、柚姫の足がふらふらと地面を彷徨う。 「柚姫!」  ぼーっと何も考えられなくなる柚姫を、トワの声が正気に戻した。  はっと我に返った柚姫は、きょろきょろと辺りを見回す。 「え、今、私……?」 「お前は今、こいつの魅了(チャーム)にかかりかけてた」 「魅了(チャーム)……?」 「そうだ。相手の心、記憶を意のままできる、吸血鬼の能力だ」  意のまま? 操るってこと……?  混乱しながら、けれど今の感覚には何となく覚えがあった。  チトセさんと一緒にいるとき。今みたいに不思議な感覚に(おちい)ったことが、あったような気がする。  チトセは、悪戯を見抜かれた子供のように笑った。 「ああ、気づかれてしまいましたね。でも、そうでもしないと柚姫は中々靡いてくださらないので」  見るからに淋しそうな表情を浮かべ、迫るように顔を近づけてきた。 「わわわ、もういいですよ。あ、いえ、あんまり良くはないですけど!」  慌てる柚姫を見て、チトセは離れてくれた。と思ったら、トワが猫の首根っこを捕まえるように、チトセの身体を柚姫から引き離していた。 「柚姫に近づくな、狼」 「全く、無骨な方ですね」  先ほどの悲しげな表情は何処へやら、チトセは楽しげな笑みを浮かべながら、トワに触れられた首をこれ見よがしにはらってみせる。 「ふん、魔力で柚姫の心をどうにかしようとする不作法者に、言われたくはないな」 「私はどんな手を使っても、柚姫を手に入れて見せますよ。そう言うわけですので、覚悟なさい、柚姫」 「え……」  再びチトセの関心が柚姫へと戻ってきて、柚姫はびくっとする。向けられた銀色の瞳に危さを感じ、さっと顔を背けた。  あれ、でも……?  チトセさんがその気になれば、私の心なんて簡単に支配して、思い通りにできた筈なのに、何でそうしなかったんだろう……  チトセの顔色を窺うようにして恐る恐る顔をあげると、彼は手に提げている割と大きな紙袋を、柚姫に差し出した。 「ああ、そうでした。これはお近づきの印です。良かったら」 「え? えっと……」  眉間にしわを寄せるトワが気になり、すぐには受け取れずにいると、チトセは柚姫の手をとり、袋を握らせた。 「あ……」 「それでは良い夜を、柚姫」  チトセはふぁさっと尻尾を揺らし、以前とは反対方向の部屋へと戻って行った。
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