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9.
午後三時前、やっと大量の報告書を片付け終えたユリウスは、軽く伸びをした。
いつもなら午前中に片付くはずなのに、今日は会議に加えてあちこち呼び出されたせいで、遅くなってしまった。
兵宿舎の奥、自分の執務室の扉がノックされ、彼女の近衛隊隊長であるテオドール・ファランが入室し、敬礼した。
「閣下。オルデール・ラヴェル殿がお見えになりましたが、いかが致しましょう」
「オルデールが、ここに?」
「はい…。出来る事ならば、取り次いで欲しいと」
彼女の訪いに思い当たる節の無いユリウスは、指先で軽く机を叩いた。
「大丈夫だ。通してくれ」
「かしこまりました」
テオドールが退室したのを見送って、山の様に報告書を積み上げた机から立ち上がる。
事前に連絡も無く来るなんて、彼女らしく無いと思った。
何か、あったのだろうか。
執務室には、応接間に直接繋がる扉がある。
開けると、猫足の優美なソファで、オルデールが長い脚を組んで既に寛いでいた。
「お前がここに来るなんて、珍しいな」
ユリウスも彼女の向かいに腰を下ろす。
「丁度、喉渇いてたしね~」
テオドールから紅茶を受け取り、応接間に二人だけになったのを確認してから、オルデールは視線を戻した。
「シュンスケの事で、少し話があるんだけど」
いつになく真面目な表情を浮かべる彼女に、躊躇いつつも頷く。
「思い詰めた顔で、私に相談に来たんだ。お昼位だったかな」
「…シュンスケが、お前に、相談?」
意外な内容に、柳眉が微かに上がった。
「うん。何か、女の子の事でかなり悩んでるみたいだよ」
オルデールの言葉は、彼女が予想した以上に、ユリウスを動揺させたらしい。
「あの子が、女の子の事で、悩んでいる…?」
ますます訳が分からなくて、痙攣する眉間を抑えた。
今朝までいつも通りだったはずなのに、どうしたのだろう。
「うーん…。急に、恋愛の相談なんてして来るからさ、同じ部隊内に、好きな子が出来たのかなぁと思ったんだけど。戦場に向かう前に、その子に告白しておきたいのかなって…。ユリウスは、何か聞いてない?」
訊かれて頭を振る。
「私は、何も聞いていないが…」
今日はミュレイから特殊任務の内容を告げられる日だが、俊輔が覚悟を決めねばならない程の、内容だったのだろうか…。
「シュンスケ、凄く悩んでるみたいだったよ。まだ入軍したてなのに、いきなり戦場に出て大丈夫なのかなって、何だか心配になっちゃってさ」
「そうだな…」
そこはユリウスも、一番心配している点だった。
温かい紅茶のカップを手にしたまま、異世界からやって来た彼を想う。
…シュンスケは、不思議な子だ。
初めて会った時は、自分に自信があるのか無いのか、良く分からない不躾な奴だと思った。
でも接する内に、シュンスケは誰に対しても真っ直ぐで、裏表が無い、素直な子だと気付いた。
彼のそういう所を、ずっと好ましく思っている。
それに、やたら頑強な身体をしているとは言え、自分とここまで何度も手合わせしてくれる兵士は、彼以外にいない。
彼は自分を過小評価し、気弱だと自負しているが、まだ場馴れしていないだけで、とても気骨のある子だと思っている。
第一、何の準備も無く異世界に連れて来られて、戸惑いもせずに現実を受け入れているだなんて、気弱な子に出来る事では無い。
自分がいきなり異世界に召喚されたら、どうするだろうか。
考えただけで、頭がおかしくなりそうだ…。
以前オルデールも言っていたが、彼は少し、変な子なのかも知れない。
心からフラウディルと、そこに住む人々の心配をしてくれて、有難いとも思う。しかし、
あの子は、優しすぎる…。
だから心配なのだ。いきなり戦場に放り出されるのが。
彼は軍人として、誰かを殺めた経験がまだ無いからだ。
そして特殊任務の細かい内容を、なぜかミュレイは頑として教えなかった。
元凶である女王の調査、らしいが。
彼とどう、関係があるのだろう。
それに、現司教の娘で変わり者の才女、ウユラ・フレイトスを抱え込んで、隠れて何かをしているのも以前から知っている。
無体な事でも思い付きで実行するミュレイが、彼をどう扱うかずっと懸念していたのだが……。
オルデールは、紅茶のカップをソーサーに静かに置いた。
「それに…。掃討戦が終わったら、シュンスケはどうするんだろうね。もう、帰っちゃうのかなぁ」
寂しそうな声に、ユリウスは手にしたカップの中を覗き込んだ。
「…それは、あの子が決める事だからな」
シュンスケが屋敷を出て独り立ちしたいと言えば、いつでも支援するつもりでいる。
しかし彼には両親がいるし、やはり元いた世界に帰るのだろうか?
それとも、ここでその好きな相手と、結婚したいと考えているのだろうか。
すっかりぬるくなった紅茶を飲んで、ぽつりと呟く。
「彼ももう、大人なのだな」
「そりゃ17歳だもんね~。色々あるよ」
まだまだ子供みたいだと思っていたが、今朝、見守っていて欲しいと真剣に言われた事を思い出した。
二月程前の出会った頃と比べると、彼は一気に大人びてより逞しくなった。
綺麗で力強い輝きを持つ、あの金の瞳に見つめられると、自分でも時々射竦められる時がある。
成長を頼もしく思うと共に、手元を離れていく切なさを感じて、チリッと胸が痛んだ。
レメディに指摘された通り、自分は今まで、過保護だったのかも知れない。
カップから目を離し、顔を上げた。
「私は、シュンスケの邪魔にならない様に、見守る事にする。オルデール。教えてくれて、ありがとう」
「う、うん」
突然押し掛けておいてお礼を言われるとは思ってなかったのか、オルデールは頬を染め、ぷいと顔を逸らせた。
( シュンスケ…。お前が何を抱えているのかは分からないが、支えたいと思う人は、沢山いる )
胸の前で、ぎゅっと手を握り締めた。
その日の夜、宿舎の二段ベッドの上。
カーテンをキッチリ閉めた状況で、俊輔は二冊の恋愛術指南書に、瞬きもせず釘付けになっていた。
枕元には小さなランタンが置いてある。
その明かりで、歯の浮く様な恥ずかしいセリフや、裸体で絡み合うカップルの挿し絵を見つめ、様々に顔色を変えた。
( あああああ~っ!こんな事、本当に俺に出来るのか…!?もう、不安しか無いんだけど…!! )
真っ赤に血走った目をぎゅっと閉じ、ぼすっと枕に顔を埋める。
下でイビキをかいて寝ているリナを起こさぬ様、じたばたした。
悶々とする心と体を抱えながら、悩ましい夜が更けて行った。
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