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13.
「シュンスケさん。これ使って下さい」
掃討戦二日前、一日だけだが休暇が貰えた俊輔は、キルシュタイン家のキッチン裏にある井戸端で、ノアから布地を差し出された。
丁度夕食に使う野菜の皮を剥いていた所で、濡れた手を拭き、彼女から布地を受け取る。
「これって、もしかして鎧の下に着る胴着ですか?」
広げてみると、それは固い綿を使った、袖の無い黒地の胴着だった。
「そうよ。アリシアと一緒に、強化付属の魔法を掛けたの。普通の胴着よりずっと頑丈だから…。シュンスケさんに、使って欲しくて」
今回の掃討戦で、フラウディル軍は兵の数を増やす事よりも、個々人の技術の向上と、強化付属の武器、防具を増やす事を念頭に置いて準備して来た。
それでも付属魔法を掛けた武器や防具は貴重で、掃討戦に出る兵卒の多くは、身に付ける事が出来ない。
「こんな貴重な物を…。ありがとうございます、ノアさん」
付属魔法は金属には掛けやすいが、布地は難しいと聞いていた。
アリシアにも、お礼を言わなければ。
「王都北部に、負傷兵用の仮設病院が設置されていますよね。お二人も、そこに行くんですか?」
ノアは言い辛そうに、声を落とした。
「私はそこで負傷兵の回復を担当するのだけど…。アリシアは、王都を出たもっと先にある、野戦病院に行くみたい」
「ほぼ戦場ですけど、アリシアさん、大丈夫かな…」
心配を口にする俊輔に、ノアも表情を曇らせた。
導官の多くが王都に残る事を希望していたが、ノアとアリシアは、候補者の少ない野戦病院行きを希望していた。
彼女なりに、戦場に出る兵士達の手助けになりたいという想いがあったのだが、ユリウスも俊輔も、アリシアも戦地に向かうと言うのに、ノアは許されなかった。
父であるライアが、反対したからだ。
導官の派遣先は司教が決める。前司教であるライアは、現司教のレーナ・フレイトスに、ノアを戦地に向かわせ無いよう、釘を刺していた。
納得出来なくてライアに直談判に行ったが、
ーオルティニア家の者が、わざわざ戦地に赴いて、武官の為に尽くす必要は無い。
武官には傷病医が居るのだから、戦地に回復目的で導官を連れて行く必要など無いのだ。
と、冷たく言い捨てた。
( いつも、こうだわ… )
怒りを堪え、奥歯をぐっと噛み締めた。
導官の存在が貴重で、重要だと言いたいのは分かる。
だが、魔法の使える導官にも出来ない事は数多くある。
その出来ない部分を補って支えてくれるのが、同じ公職の武官だと言うのに、多くの導官は武官を軽んじている所があった。
ライアの冷たい言葉は、娘の身を案じているからこそなのだろう。
しかし彼女の妻で、武官のユリウスの心配は、微塵も口にしない所に苛立ちが募った。
「怪我人が多く出るだろうし、俺だけでも怪我しない様にしないとなぁ。まじで気を付けよう」
もう明日から王都を出て北上しなければならないと言うのに、緊張感の無い顔で、俊輔は呟いた。
「……」
何やら毒気を抜かれてしまい、彼女は小さく微笑むと、井戸端にしゃがんで、一緒に皮剥きを始めた。
ノアは以前から、時折屋敷の手伝いをしてくれるのだが、貴族の奥方で野菜の皮剥きをしているのは、彼女だけかも知れない。
「ねぇ、シュンスケさん」
手元のナイフを動かしながら訊いた。
「シュンスケさんは、今回の掃討戦が終わったらその後はどうするの?元いた世界に、帰ってしまうの?」
「それは…」
正直今は、任務の事で頭が一杯で、決断するまでには至っていない。
そう答えると、彼女は桶の中で、冷たい水に浸かった次の野菜を手に取り、眺めた。
「…ユリウス様は、8歳の時にご両親を亡くされたのだけど」
ノアは、訥々と話し始めた。
「15歳になるまで、成人を迎えるまでは、お母上の親戚にあたる貴族が、代わりにキルシュタイン家の当主を務めたの」
彼女の話に耳を傾けつつ、胴着を洗濯篭にしまい、俊輔も桶の中に手を入れて野菜を取り上げた。
ぱしゃ、と陽光に反射しながら、水面が銀色に揺れる。
「代理の当主は、その…酷い方で。キルシュタイン家の財宝の一部や、ご両親の形見の品まで、勝手に持ち去ってしまって」
首飾り等に付けられた宝石はバラバラにして、別物の装飾品に造り変えさせ、売り払った。
「それに、長くここに勤めてくれていた執事も解雇して、屋敷を追い出したの」
優しく真面目な執事を、ユリウスは子供の頃から慕っていたが、親戚の行為を咎めた事で怒りを買い、追い出されてしまった。
「酷い、話ですね」
「彼女は運良く、他の家に雇って貰えたのだけど、ユリウス様は自分が当主になったら、もう一度キルシュタイン家に雇い戻すつもりでした。でも当主になる前に、亡くなられてしまって…」
ナイフを動かす手を止め、俊輔は俯いた。
「ご両親を亡くされて、慕っていた執事もいなくなって…。その頃は、一人でとても心細い毎日を過ごされていたそうです。代理の当主は、そんなユリウス様を連日、貴族達のパーティーに連れ出していました。期限のある自分の権力を、周囲に誇示する為に」
水に反射した煌めきが、ノアの瞳の上で揺らめいた。
「ユリウス様は元々人付き合いが嫌いで、気難しい方ではあるけれど…。そうした事があって、更に他人と距離を置くようになったと思います」
敬愛する両親と執事を失い、広い屋敷で一人、孤独に耐えながら暮らして来たのだ。
まだ、8歳の少女が。
時々書斎に飾られた両親の肖像画を、静かに見つめている彼女の横顔を思い出し、ズキリと胸が痛んだ。
そしてふと、隣のノアを窺い見る。
「…ノアさん。どうして、その話を今、俺にしたんですか?」
なぜ、彼女は急にユリウスの過去を話し出したのだろう。
ノアは黒く縁取られた金の瞳を瞬きもせず見て、穏やかな声音で言った。
「ユリウス様は、とてもお強い方です。でも本当は傷付きやすく、繊細な心を奥底に持った方だと、私は思っています」
「…はい」
ノアの言葉は、自然に俊輔の心の奥にまで届き、水の様に吸い込まれた。
ユリウスと接する内に、彼もどこかでそう感じていたのかも知れない。
「普段は冷静な方なのに、こうと決めたら周りの意見を聞かずに、一人で突っ走っちゃう所もあります。でも、シュンスケさんの言う事は、きちんと聞いてくれていると思うんです」
「そう…、でしょうか」
自信無く首を傾げた俊輔に、真摯な表情で頷いた。
「私は、ユリウス様を支え、お守りしたい。でも、私の力だけでは、あの方には…、届かないんです」
ノアの瞳は揺らぎ無く彼を見つめ、清廉な湖面の如く澄んでいた。
まるで、俊輔の本心を映し取ろうとする様に。
やがて彼女は、密かな口調で訊いた。
「シュンスケさんは、ユリウス様の事、どう思っていますか」
一瞬、心臓が叩かれた様に跳ね上がった。
ざあっ、と強く風が吹いて、森林の葉を撫でながら、二人の髪や衣服の裾を揺らす。
風が収まっても沈黙は続いたが、俊輔は一切、彼女から視線を外さ無かった。
その瞳は強い意志を持って鎮まっており、静かに、口唇を開いた。
「俺は……」
夕刻、いつも通り乗馬の練習を終え、ルーンとアスラに厩舎で干し草や、二頭の好きな野菜を与えた。
嬉しそうに食べる姿を見ながら、微笑みかける。
「無事に帰ってきたら、また乗せてくれよ」
装具を片付け終えたユリウスが、厩舎の入り口から声を掛けた。
「そろそろ戻るぞ」
「はい。今行きます」
厩舎を出ると日中の暑さは大分和らいでおり、太陽は沈みかけていたが、まだ外は明るかった。
熟した柿の様な夕日を遠く見つめ、
お腹空いたなぁ…。
等と能天気な事を考えていると、隣を歩くユリウスが、その気の抜けた顔を見上げて言った。
「今の所、シュンスケはいつも通りだな」
思わずギクリとして、彼女に顔を向ける。
「…晩ご飯何だろうって考えてたの、顔に出てました?」
ユリウスは面食らい、何度か目を瞬かせた。
「いや、そこまでは…。というか、食べる事を考えていたのか、お前。掃討戦を目前にしている割りに呑気だな」
呆れた顔で苦笑され、墓穴を掘ってしまったと後悔し、赤くなる。
「すみません。兵として駄目なのは、分かっているんですけど…。今一、実感が無くて」
自分が戦場に出るなんて、元いた世界じゃ死ぬまで経験しなかっただろうし、ぶっつけ本番の特殊任務も未知数だし。
「まあ、そんなものかも知れないな」
意外にも、ユリウスはあっさり納得してくれた。
「ティドロスと同盟を結んでからは、フラウディルは平和そのものだったからな。シュンスケのように、実感が湧かない兵は多いだろう」
フラウディルが平和なのは、盾となるティドロスが隣にあるからだが、周辺の海もかなり特殊だった。
どんなに頑丈で大きな船でも操作不能となり、たちまち海中に沈んでしまう海域が、国土の周りに多数存在している。
その海域が、フラウの力による物なのか定かでは無いが、わざわざ沖に出て魚を獲ろうとする者もいない程だ。
「地の利もあるし、フラウディルの方が有利な状況ではある。だが、準備して来たのは向こうも同じだ」
ユリウスの言葉を、慎重に受け止める。
「もう戦いが始まる事を、向こうも感じ取っているだろう。グアド族は後がない状況だ。全力で来るだろうから、十分気を付けてくれ」
「はい。分かりました」
毅然と返事すると彼女は微笑み、俊輔の背中を叩いた。
庭園に戻るとノアが二人に手を振って、小さな篭を掲げた。
彼女の元に駆け寄ったユリウスは、篭の中を覗き込んだ。
キルシュタイン家で育てている薬草が育ち、沢山摘み取れた様だ。
喜んでいる二人の姿を微笑ましく見つめ、空を仰ぐ。
まだ薄い夕焼けの色と、訪れ出した淡い夜の色の中に、星が小さく瞬きながら、輝き始めている。
遠い星々に想いを馳せ、目を閉じると、やがて小さく、
ごめんなさい。
と、呟いた。
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