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23.
テオドールはその日、自室の南側にある三連の半円アーチ窓に凭れて、手紙を読んでいた。
もう何度も読み返したそれを、物憂げに落としたため息と共に折り畳む。
側近くのデスクには、同じ差出人から届いた、謝罪と愛の言葉が書き連ねられた手紙が、何通分か重ね置かれてある。
最初に届いた手紙の返信に迷い、無視していた間にも届けられた物だ。
何となく処分出来ずにいるその上に、畳んだ手紙を置く。
( どうして彼女は、こんなにも私の心を掻き乱すのだろう )
視線を上げ、窓辺から広大な庭園を眺める。
今日は朝から生憎の曇り空で、鈍色の雲に覆われた空を背景にした庭園も、同じ色に溶けて朧に見えた。
寒さを凌ごうと巣に籠っているのか、普段なら聴こえて来る鳥の囀りも無く、辺りは閑寂としている。
それとも、もっと暖かく過ごせる居心地の良い場所まで移動してしまったのだろうか。
頬にかかった髪を払おうとして、ふと動きを止める。
( この香り… )
彼女が使っている香水と同じ香りが、指先に仄かに残っている。
手紙を読む度、身を焼く様な感覚に辟易しながらも、それを処分出来ずにいる理由まで、気付かされた気がした。
彼女の香気が残る人差し指で口唇に触れ、
( 魔法ではなく、形として残る手紙を、私も… )
突き動かされる様に、デスクの隅に置かれたペンを取ろうとした時だった。
「テオドール。入るわよ」
勝手知ったる調子で、義姉のアイリスがノックも無しに入室して来た。
「あなたに話があるの。少し、いいかしら」
アイリスは窓辺に立つ美しい義妹を、足元からじっくりと見つめ、眦を下げて微笑んだ。
テオドールの自室は、アイリスの要望で作らせた特別な部屋だ。
清楚で柔らかい印象を与える、白藍色の腰羽目板が巡らされた部屋も、天井の細やかな漆喰装飾も品の良い家具も全て、彼女がこの屋敷を気に入る様に考え、手配した。
その特別な部屋にテオドールが佇んでいるだけで、アイリスの胸は悦びと、密かな独占欲に満たされるのだった。
当のテオドールは淑とした美貌を強張らせているが、義姉の口から続く言葉を、静かに待っている。
「こっちに来て。座ってお話しましょ」
革張りのカウチソファに腰を下ろして手招くと、遅れてテオドールもそろりと腰掛けた。
「この前の、返事が聞きたくて。…あなたったら、たまの休みでも朝からずっと鍛練通しだもの」
アイリスは身体を乗り出し、濃紺の瞳を覗き込んでいる。
こうして向かい合う事を、テオドールが意図的に避けているのを…暗に責めているのだ。
「すみません、義姉さん…」
反射的に謝る彼女に苦笑し、腿の上に置かれた手を取る。
「アイリスでいいわよ。それより私のプロポーズ、受けてくれる気になった?」
「それは…その」
「…そんなに、私が嫌?」
覗き込む目に、薄く涙が浮かんでいる。
慌てて、青みがかった黒髪を左右に揺らした。
「嫌ではありません。でも結婚はまだ、考えられなくて…」
いつもの煮え切らない返答に焦れたアイリスは、白い指の間に自身の指を通し、深く手のひらを重ねあった。
「なぁに? 他に好きな人でもいるの? …でも言えないって事は、相手は既婚者とか?」
そう冗談めかして言われた瞬間、テオドールの目の前を、鮮麗な紅い色が掠めた。
「そんなの…いません!」
物静かな義妹が声を荒げたのが意外過ぎて、一瞬呆気に取られたアイリスだったが、
「……それなら、いいわよね。私もう、待てないもの」
声に抑え続けた情欲を滲ませ、顔を傾けながら、テオドールに口付けた。
「!」
咄嗟に退こうとする身体を、組み合わせた手できつく留め、浅く啄むキスから、深く貪る様に舌を絡める。
「…っ」
呆然と、されるがままでいるテオドールをカウチに押し倒すと、我に返ったのか、困惑の表情で抵抗した。
「義姉、さんっ! やめ…」
「お父様もお母様も、あなたと私が結ばれる事を望んでいるのよ。名前も言えない相手なんて、忘れてしまいなさい。私なら、あなたを大事に、幸せにしてあげられるわ」
「……」
動揺で揺らめく瞳が時間をかけ、瞼と長い睫毛で覆われて、抵抗する力が弱まって来ると、アイリスは組んだ手のひらを離した。
「…いい子ね。全て、私に任せておけばいいのよ」
満足そうに微笑み、ブラウスの釦を外して行く。
絖の様に薄く、光沢を放つ滑らかな肌が現れると、うっとりと胸元に口付けを落とした。
一層狼狽を深め、押し付けられた腰を捩ると、
「アイリス、テオドール! 二人とも、談話室までいらっしゃい」
突然扉の外から、母に声を掛けられた。身体を起こし、揃って扉に視線を向ける。
「…何かしら」
思わぬ邪魔が入った事にアイリスは口唇を尖らせたが、普段は穏やかな母が妙にはしゃいだ様子だったのが気になった。
カウチを滑り降り、乱れた衣服を掻き合わせているテオドールを振り返る。
「先に行くわ。落ち着いたら、あなたも談話室に来てね」
ろくな返答も出来ぬまま、一人部屋に残され、力無く項垂れる。
アイリスの愛を受け入れる事が最善であると、頭では分かっていても…。
どうしても、心が拒絶してしまうのだ。
「オルデール…」
名前を呟くと、一層胸が締め付けられる思いがした。
「ん? どうしたの? テオドール」
「ぎぃぁっ?!」
背凭れから本物のオルデールがにゅっと顔を出し、今まで出した事のない声が出た。
「なッ…! なななんで、ここに、あなたが居るんですか?!」
「なんで、って。この家のご当主に呼ばれたんだよ。君の誕生日プレゼントに、馬を贈りたいからってさ。私も君に直接渡したい物があったし、姉さん達に任せて来ちゃった~」
オルデールは室内の薄暗さまで吹き飛ばす様な、明るい笑顔を浮かべている。
「渡したい物…?」
小首を傾げたテオドールの目の前に立つと、ラヴェル家の紋章で封蝋された封筒を、勿体ぶった仕草で差し出した。
「来月ラヴェル家でダンスパーティーを開くから、私のパートナーとして参加して欲しいんだ。私と勝負してズタボロに負けたユリウスも、歯軋りしながらドレスで来てくれるよ」
いまいち状況が飲み込めないまま封筒を受け取り、ぱちぱちと瞬く。
やがて、
「閣下が、ドレスでパーティーに?」
主催者のパートナーとして招待を受けた事よりも、ユリウスのドレス姿に興味をひかれたらしい。
勝負には勝ったのに結局彼女に負かされた気がして、オルデールは内心複雑だったが…。
「少し、じっとしててね」
咳払いして気を取り直し、はだけた胸元に手を伸ばした。
「あ…」
アイリスに外された真珠の釦が、オルデールの手で一つずつ、留められて行く。
「……怖かった」
一番上の釦まで留められると、テオドールの口唇から素直な言葉が溢れた。
「大丈夫?」
言葉通りに受け取ったオルデールに、首を振る。
「違うんです。あの時…あなたにされたのと同じ様に、義姉にキスされて、触れられたのに…。私、何も…感じなかったんです」
今度はオルデールが、ぱちぱちと瞬く番だった。
「義姉のプロポーズも、受けるつもりでいました。なのに、あなたの姿がちらついて、決心が揺らいでしまったんです。自分の身体と心なのに、全然思い通りにならない事が…私は、怖かった」
いつだったか、初めて彼女を見掛けた時から、そうだったのかも知れない。
自分とは真逆の、相容れない人物だと頭では解っていても、気付くと目で追っていた。
「君って大人しそうな顔して、時々すごく大胆な事を言うよね」
とんでもなく恥ずかしい事を言った自覚はあったが、正直に告白した相手にまで言われ、居たたまれない気持ちになる。
「私は、真剣なんですよ」
つい恨めしく睨め付けると、ぎゅうっと暖かな胸に抱かれた。
「…ごめん。君がこんなに嬉しい事言ってくれるなんて、思っていなかったから…驚いちゃって」
思い做しか、オルデールの声が細かく震えている。
「大胆な告白をしたついでに…。ちゃんとした言葉も、テオドールの口から聞かせてよ」
どきりとして見上げた顔は見ぐるしく、朱に染まっていた。
ーきっと、今の自分も、同じ顔をしているのだろう…。
「あなたを、愛しています」
どちらからともなく、口唇を求め合う。
想いの深さを競う様な口付けと抱擁は息苦しかったが、それ以上の多幸感に、二人は充たされていた。
喘ぐ様に忙しなく息を継ぎ、顔の角度を変えて再び口唇を重ねた、その時だった。
ドアの前で、あ然としているアイリスとオルデールの肩越しに目が合い、石膏に覆われた様に固まってしまう。
「!」
「いくら待っても来ないから、見に来てみれば…。テオドール、これはどういう事なの?」
「義姉さん」
だが、困惑気味に詰め寄るアイリスに臆さず、毅然と対面した。
オルデールの手を握り、勇気を奮い起こす。
「私はこの人と、愛し合っているんです。だから…義姉さんのプロポーズを受ける事は、出来ません」
「えっ…」
はっきりと言い切ったテオドールに、アイリスは面食らっている。
それから、感激して今にも踊り上がりそうなオルデールへ視線を移した。
「そんな、まさか…。あなたの両想いの相手が、オルデール様だなんて。本当に、本当の話なの?!」
「はい。私とオルデール………さま?」
語尾の音が跳ね上がる。
独特な熱っぽい視線は、つい最近にも何処かで見た気がする。
「義姉さん、まさか…」
嫌な予感に頬を引き攣らせると、アイリスは感極まった様子で、オルデールに握手を求めた。
「きゃ~~~っ! それじゃあ、テオドールがオルデール様と結婚したら、オルデール様も私の義妹になっちゃうって事ぉ!? やだぁ、嬉しすぎてどうにかなっちゃいそう…!」
熱狂的なファンと、にこやかに握手を交わしたオルデールは、
「これからは、家族としても仲良くしてね。アイリスお義姉さま!」
キラッキラのあざとい笑顔で、アイリスを悩殺した。
「ちょ…っと、オルデール! どういう事なんですか、これは」
昇天した義姉を慌てて支え、カウチソファに座らせる。険しい顔で説明を求めたが、オルデールの答えはあっさりとしていた。
「どうもこうも。ファラン家は君以外全員、私のファンクラブの会員なんだよ。ちなみにご当主は、会員ナンバーが一桁の筋金入りだよ」
「そんな事は訊いてません! なぜそれを、私に言わなかったんですか? 養親達があなたのファンなら、一人で悩んで来た私が馬鹿みたいじゃないですか」
ー養親の顔色を窺い、迷ってばかりいた自分も悪いが、それをもっと早く言ってくれていれば、こんなに悩む事も、遠回りもしなかったはず。
非難を籠めて醜聞の権化を睨むも、
「この国の女性は会員じゃ無くても、全員漏れなく私のファンだからね! 一部例外はいるけどさ」
と、全く悪びれず自信たっぷりに返した。
( 煮え切らないままでいた方が、良かったのかも知れない… )
太陽の様に眩しい美貌を前に、反発する気力までもが溶かされて行く。
テオドールは、これも惚れた弱みと諦め、がっくりと肩を落とした。
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