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「私は夢か、幻を見ているのだろうか。永遠の美を司る女神でさえ、貴方を前にしては恥じて天界の奥処(おくか)へと逃げ隠れてしまうでしょう。姫、貴方が夢か幻となって消えてしまう前に、今すぐここから連れ去ってしまいたい」 血相を変えてテラスまで駆け付けた俊輔の耳に、(つむ)ぐようにして愛の言葉を囁く、王子の低い美声が届いた。 人知れず舌打ちし、臍を嚙む。 ( 王子も例の恋愛術指南書(エロ本)を参考にしてるのか! クソッ、先を越されてしまった…!) 猛スピードで脳内の原稿用紙5枚分の告白内容を書き換える俊輔の耳に、今度はユリウスの冷ややかな声が響く。 「随分と酔いが回っておられる様子だが、手を離していただけますか。第一私は姫ではなく、軍人だ。何度も同じ事を言わせるな 」 怒気が混じった突っ慳貪な物言いも、微醺状態の王子には心地よく感じるらしい。 冷たくあしらわれてもめげるどころか、見つめる眼差しに熱情が重なった。 「あぁ…。素気無い態度もまた美しい。我が国にも美姫は星の数ほどいるが、貴方の様な気高い女性は初めてだ。その愛らしい口唇が私の名を呼び、求めるようになるまで、寝台(ベッド)から下ろしはしませんよ、姫。暁が私達を迎えても、片時も離れずに愛し合いましょう」 ( うわっ…。初対面で凄い事言うなこの人 ) 露骨な誘い文句に面食らう俊輔の目の前で、白い手の甲にさっと口唇を落とす。 口付ける音が暗夜に響いた瞬間、ユリウスは傍目には分からない奮えを身体から放った。 「……そうか」 キスされた手を薙ぎ払う。 深く息を吸い込んだユリウスから嗅ぎ慣れた鉄錆の匂いと、周囲を軋ませる程の殺気を感じ取った俊輔は、声を限りに叫んでいた。 「ユリウスさん、動かないで下さい!」 ドレスに隠れて上げた右足が、その声でぴたりと止まる。 「両手を上げて、余計な動きはせずにそのまま…。右足を床に、降ろして下さい」 「…シュンスケ。ちょっと待て」 丹精込めて彫り込んだ彫刻と見紛う身体に、緊迫した空気を纏わせて近付く彼を憤然と睨む。 「私は、酔客の目を覚ましてやろうとしただけだ。右足を上げただけで、どうして私が犯罪者みたいな扱いを受けるんだ」 「王子の目が一生覚めなくなったら、フラウディル(うち)が困るからですよ。この人はこれでも同盟国の王族の一員なんです。ユリウスさんがミンチにした貴族の件は笑い話で済みましたけど、相手が王族じゃ流石に笑えませんって。みすみす国際問題に発展させる訳には行かないでしょう」 ユリウスの怒りなど物ともせず、王子を庇う形で立ち塞がる。 過去の惨劇に思い当たる節がある彼女は、それでも苦し紛れの反論をした。 「人聞きの悪い事を言うな。あれは…、ただの峰打ちだ」 「峰打ちならセーフみたいに言わないで下さいよ。ミンチはどう考えてもアウトでしょう。何言ってるんですか」 俊輔の正論(つっこみ)にぐっと喉を詰まらせると、 「……少年。君は、何者だ?」 二人のやり取りを見ていた王子が、訝る声音で問うた。 問われて振り返った拍子に、鋭く光る鳶色(とびいろ)の双眸と、黒く縁取られた金色の輝きがぶつかり合う。 「変わった瞳と髪色をしているが、その顔立ち…同国(ティドロス)人の学生か?」 「いえ。私は…」 向き直り、畏まって名乗ろうとした俊輔を掌を向けて制する。 「ああ失敬。最初に尋ねた方から名乗るのが礼儀だな。私はカルロス・タンクレド・デ・アウストリア。フラウディルには昨日、到着したばかりでね。身分を伏せた私的な滞在だから、楽にしてくれて構わないよ。少年、君は?」 じっと見透かそうとする視線を、逸らさずに受け止める。 「俺はキルシュタイン家でメイドをしている、異世界人の守屋 俊輔と言います」 「メイドで、異世界人…?」 ますます訝りながら整えられた髭をなぞる。やがて、豁然(かつぜん)と悟った様子で指を鳴らした。 「なるほど。我が国が譲った魔法書で召喚された英雄と言うのが、君なのだな」 ー英雄とか英傑とかそんな大袈裟な存在じゃなくて、単なる助っ人だった気がするけど…。 少し気を良くして頷くと、カルロスは眦の下がった甘い容貌に一瞬だけ、苦みを走らせた。 「召喚した異世界人は、五将の一人が引き取ったと聞いていたが…それが姫だったとはな。君と仲睦まじくしているのも、王の命令なのか?」 「…んっ? どういう意味ですか?」 主旨が掴めず、聞き返す。 それに答えたカルロスの言葉の端々には、ありありと苛立ちが含まれていた。 「言葉通りだよ。姫が君に気を許しているのは、フラウディル王から大命を受けたからではないのか? でなければ、男性である君がこの国の女性に好かれるはずがない。この私を差し置いて、姫が他の男と親しげにするだなんて…許し難い…!」 「え」 嫌な予感に口元を引き攣らせた俊輔へ、燃え盛る激情に駆られたカルロスは指を突きつけた。 「モリヤ。姫を賭けて正々堂々、勝負したまえ。私の恋路を邪魔する輩は、例え英雄だろうと、異世界人のメイドであろうと、容赦しない。愛する姫を奪い返し、今宵必ず…我が胸に抱いてみせる」 「なっ、何言ってんだあんた! そんな事したら…!」 「フッ……顔色が悪いぞモリヤ。英雄ともあろう者が恐れをなしたか。君も、姫に並々ならぬ想いを抱えているのだろう? 潔く、ティドロス式の決闘を受けたまえ」 「いやそうじゃなくてさ…。て言うか、なんで王子にも俺の気持ち速攻でバレてるんだよ」 たらたらと脂汗をかいている俊輔の腕を引き、ユリウスが一歩、進み出る。 「私の弟子まで愚弄するとは、随分と舐められたものだな。…シュンスケ、決闘は私が受ける。王子はふざけた人物だが腕は確かな様だし、あの国の剣術は間違いなく…大陸最強だ」 「ユリウスさん」 白い手を包み込むように握って引き留めると、宵闇の中で、彼女の耳飾りが白銀に煌めいた。 「俺に、受けさせて下さい」 「シュンスケ……」 それより尚強く輝く金色の輝きに圧され、ユリウスはそれ以上、一歩も動けなくなってしまう。 強張っている蒼い瞳に優しく微笑みかけ、首元に巻いたクラヴァットを外し、長袖のコートも脱いでユリウスに手渡した。 「ユリウスさんの貞操と王子の命は、必ず…この俺が護ってみせます」 「何言ってるんだ、お前」 表情を引き締め、酷薄な笑みを浮かべているカルロスと対峙する。 互いの視線が遠慮なしにぶつかり合い、今度こそ火花を散らした。 「…いい目だ。全力で来るがいい、モリヤ」
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