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「あたいと一緒に抜け出さないかい?」というお梅のささやきに寅吉は思わず狼狽した。
なんたって春日町のお梅といったら、この界隈では右に出るものがいないってくらいの別嬪だ。その評判どおりの可憐な容姿に寅吉も焦りを隠せない。
風の噂では神谷町の料亭“伊東屋”に嫁ぐことになったって話だ。それにくらべて寅吉はここいら一帯をぷらぷらとしているだけのぐうたら野郎。どう頭をひねくり回したってお梅と寅吉とでは釣り合いが取れない。
「お、お梅……そいつぁ、一体どういう了見だ」
「そのまんまよ。あたいを連れ去っておくんなさいまし」
寅吉はいよいよ悪い汗が出てきた。お梅はいったい何を考えているというのだろう。
恐る恐る、うしろで立ち話をしている女将さんの顔を見やる。どうやら話に夢中でこちらには気づいていない様子。
寅吉はできるだけ声を殺し、神妙な面持ちで再びお梅に問いかけた。
「ここを出て、一体全体どこに行くってんだい」
「決まってるじゃないかい、京の都さ」
「京だって?」
「寅吉さん……あんた、いつまで飼いならされてるつもりだい?」
「お、おいらは」
「京にはもっと自由で雅な暮らしが待っているのさ」
「……し、しかし」
「はっきりしないねえ、男だろ! あたいはね、寅吉さん……あんたと外に出たいのさ」
「お梅」
「あんたしか、いないのさ!」
そのお梅の一言で、さすがの寅吉も腹をくくった。それはまるで、たんまりと湯をはった風呂桶に思いっきり飛び込むくらいの一世一代の大決心だった。
「ええい、おいらも男だ!」
──そうして寅吉が力いっぱい飛び上がり、門扉の錠を押しあげようとした瞬間。
「こらーッ! 寅吉、何してるの!」
「く、くぅーん……」
「お座りッ!」
リードを思いっきり引っ張られ、しゅんとする寅吉。見上げてみると女将さんが真っ赤な顔をして怒っている。
はっと我に返りお梅のほうに視線を戻すと、お梅はすでにどこ吹く風といった様子でそっぽを向いている。そしてそのまま寅吉のことなんて気にもせず、ドッグランの芝生エリアの方へ駆けていってしまった。
「もう寅吉ったら、見てないとすぐにイタズラするんだからッ! 今度やったら承知しないよ!」
「……くぅん」
「あ、ごめんね話の途中で。そうそう、はな組のミキちゃんママなんだけどさぁ──」
──この日、トイプードルの寅吉は、もう二度と他の犬の誘いなんかにのらないと固く心に誓ったのであった。
寅吉の春恋慕 [完]
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