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英司が部屋を出て玄関に向かっていくので、見送るために千秋も後ろからついていく。
靴を履いている間に、改めてもう一度、今日のことについて礼を言うと、
「気にすんな。別のお礼もたっぷりしてもらったしな」
と例のからかい顔で言われて、千秋はカチンとなる。何か言ってやろうにも、例えあんなのでもお礼というのは嘘ではないため、悔しげに唸るだけだった。
「そういえばだけど」
「はい?」
靴が履き終わると、英司が千秋の方に振り向いた。
てっきり、じゃあなと出ていくのかと思ったが、何か言いたいことがあったらしい。またくだらないことを言うなら、今度こそ問答無用力技で追い出すが。
「俺のせいで引越しするつもりなら、俺が引っ越すから」
「……え」
……まさか、ここでその話を出されるとは思わなかった。
路地の時もそんなことを英司は言っていたけど、千秋は元々引越しのことを一切言っていない。でも、あの時とは違って、今回は確信があるようだった。
もしかして、カバンにしまった物件資料が見えてしまったのか。そういえば、適当にしまった後に英司が来て、存在を忘れていた。
「するとしても、それは俺が勝手にやることなんで……」
「じゃあ、する時言って」
「え?」
「もし言わずにしたら、俺も引越しするから」
…………なんだそれ。
英司は言うだけ言うと、千秋の反応を待つことなく「じゃあな」と帰っていってしまった。
パタンとドアがしまって、千秋は英司に言われたことを頭の中で繰り返した。そして、噛み砕けば噛み砕くほど、自分が追い込まれていることに気づく。
……あの人はずるい。ずるい。こんな、脅しみたいな真似、卑怯だ。
千秋はフラフラと廊下を戻っていく。
つまりは、こういうことだ。
もし千秋が引越すと告げたなら、英司が代わりに引越しをすると言い出すだろう。
そして、告げずに引っ越した場合、後に自分も千秋のせいで引越すことになるというのだ。
千秋がそんなことをできるはずがない。俺はそんなことをさせたいんじゃない。英司はわかって言ったのだ。
八方塞がり。まさにそれだった。
「はは……」
千秋はいとも簡単に罠にハマってしまった自分に呆れて、乾いた笑いをこぼした。
それだけじゃない。
実際は迷っていた引越し。とはいえ、すでに答えは出ていたようなものだった。
痛い頭を手で押さえる。
千秋は、自分を思いきり「バカだな」と、笑い飛ばしてやりたい気持ちになった。
それは、退路を経たれて、どこかホッとしている──そんな自分がいたからだ。
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