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鐘の音が響く中、足早にお館に近づく。
黒のワイヤーワークの美しい門扉は閉ざされているけれど、その奥へと続く短い石畳は綺麗に手入れされていて、今もここであの家族が暮らしているであろうことを告げていた。
毎週押していた外壁のインターフォンをそっと押す。
私のことを覚えていてくれるだろうか。
長いこと不義理をしてしまったから、忘れられていても仕方がないとはいえ、あの穏やかな家族に忘却されているかもしれないという想像は私の胸をぎゅうっと締め付けた。
じっとインターフォンのカメラを見つめて反応を待つ。
数秒間の静寂がもどかしい。
どんな反応をされるだろうかといろんな想像が頭の中を駆け巡った。
忘れられていたら、不義理のお詫びだけ告げて立ち去ろう。
縁遠くなったのはひとえに私の事情なのだから。
もしも覚えていてくれたら、それでもやはりまずは不義理をお詫びしなくては。
例え覚えていてくれたとしても、もうあの頃のようにあの温かいアフタヌーンティーにお呼ばれすることはないかもしれない。
それでも、戦いのような六年間を必死に生き抜いてきた私にとって、このお館と時計台の音、そして心優しい住人たちとの思い出は色褪せることはないだろうから。
じっとカメラを見つめていると、がちゃり、と音がして玄関の扉が開いた。
「夏音さん」
インターフォンから返答があると思い込んでいたから、驚いてしまってすぐに返事ができなかった。
あの頃よりも更に白くなった髪を緩やかに結い上げ、あの頃と同じレトロな織りのワンピースを着た佐智子さんが扉の向こうから姿を現し、私を見て微笑んだ。
「佐智子さん、ご無沙汰しております。ご挨拶もせず何年も姿を見せないことになってしまってすみませんでした」
早口でお詫びを言いながら深々と頭を下げる。
佐智子さんが門扉を開く音がした。
「顔を上げてちょうだい。いいのよ、気にしなくて。
夏音さんが、今日という日にここに来てくれて、私、本当に嬉しく思っているのだから」
佐智子さんの言葉に顔をあげると、彼女は喜びとも悲しみともとれる複雑な笑みで私を見つめていた。
「佐智子さん…?」
彼女の言った「今日という日」という言葉が妙に引っかかった。
「今日」一体何があるのだろう。私が忘れているだけで、今日は何か私とこのお館の住人との大切な思い出の日だっただろうか。
記憶を手繰り寄せても何も浮かばず、ただ困惑して佐智子さんの次の言葉を待つ。
「今朝、撫子にお迎えがきたの」
何の前触れもなく、佐智子さんが言った。
「お迎え?」
鸚鵡返しに訊き返したけど、それには答えず、佐智子さんは私の手を引いて玄関をくぐった。
広いエントランスにつづら折りの階段、開かれた扉の奥のテーブルには、初めてここに来たときと同じように、三段重ねのアフタヌーンティーセットが置かれていた。
「どうぞ上がって頂戴」
佐智子さんに促され、靴を脱いでスリッパを履く。あの頃と同じふかふかの感触が懐かしくて涙が出そうになった。
エントランスを抜けると、二階にある階段室から顕さんが下りてきた。
彼もすっかり白髪になり、あの頃より一回り小さくなったように見えた。
「顕さん、ご無沙汰しております」
頭を下げると、顕さんも佐智子さんと同じく「顔を上げて下さい」と言った。
顔を上げてもう一度リビングを見る。
アフタヌーンティーが用意されたテーブルは無人だ。
撫子ちゃんはどうしたのだろう。
「夏音さんが今日来てくれたのは、きっと撫子が呼んだのだろうね」
顕さんが、佐智子さんと同じ喜びとも悲しみともつかぬ笑顔で言う。
「撫子ちゃんは、どこに?」
「撫子が招いてくれたのだから、あの子の部屋へ行こう」
私の質問には答えず、顕さんはつづら折りの階段を上り、更に上階へと続く階段室の扉を開けて階段を上っていった。
佐智子さんが私の背中をそっと押して、中へ進むよう促してくれる。
しん、と静まり返った階段室へ足を踏み入れ、顕さんの後を追う。
三階の絵画や彫刻が飾られた部屋の前を通り過ぎ、ずっと上がらせてもらえなかった四階の撫子ちゃんの部屋へ続く階段に初めて足を乗せた。
四階へ上がると、ピンク色の可愛い扉が目に入った。
「ここで撫子が待っているよ」
顕さんが扉に手をかけて私に言う。
ゆっくりと開かれた扉の向こうに見えたのは、春の園かと見紛うほど沢山の色とりどりのお花と、その真ん中に置かれた真っ白な棺の中に横たわる撫子ちゃんの姿だった。
「撫子が天国へ帰る日に夏音さんが来てくれたのは、撫子がお迎えに行ってくれたからなのだろうね」
色とりどりのお花の中で眠る撫子ちゃんは、最後に会ったときと全く同じ幼い顔立ちをしていて、彼女だけ時が止まっていたみたいだ。
うっすらと微笑んでいるような撫子ちゃんを見つめていると、あの幼き頃の懐かしい日々が甦ってきた。
お稽古の帰りに見上げた時計台。
公園でピクニックをする人たち。
お館の扉を開いてくれた佐智子さん。
佐智子さんの着ていたクラシカルなワンピースの柄。
柔らかい空気を纏った顕さん。
そしてずっと微笑みを絶やさない撫子ちゃん。
『ボーン』という時計台の音で我に返る。
ああ、この空間は、ずっとあの頃のまま何も変わらず全て同じままに在るのだ。撫子ちゃんという天使が、この場所の時を止めているのだ。
佐智子さんも顕さんも、見た目はあの頃よりお年を召したけれど、話し方も表情もあの頃のままなのはきっと、撫子ちゃんが時を止めた天使だったからなのだ。
お花畑みたいな部屋で眠る撫子ちゃんの頬は艶々と輝いていて、桜桃のような唇は今にも開いて「かのんさん」と私の名を呼んでくれそうで、なのに一向に目を覚まさない撫子ちゃんは、やっぱり『天使』なのだろう。
だって、顕さんも佐智子さんも、ふたりの間に眠る撫子ちゃんを愛おしそうに微笑みながら見つめているその姿は、幸福な家族の肖像そのものだったから。
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