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SUN FLOWER
分厚い灰色雲の間から青空がようやくのぞいたかと思ったのもつかの間、雨が激しく振りだした。
それはアスファルトをあっという間に真っ黒に染めたかと思うと、排水溝に不気味な叫び声をあげさせる。
交差点に植えられた向日葵達がしなり、オレンジの塊が一斉に項垂れた。
「嫌な天気──」
ふいに私の背後からそんな声が聞こえた。
振り返ると真っ白なシャツを着た少年が立っている。
「折角の夏が消えてしまうね──」
彼は真っ暗な空を見上げてそう呟いた。
「え?」
思わず私は彼の顔を見る。
「だって夏は──お日様を追っかけて過ごすものじゃない?」
少年は私に指を突きつけて言った。
「……お日さま」
思わず私も空を見上げる。
大陽の影は分厚い雲に阻まれて全く見ることはできなかった。
「私もお日さまをずっと追っかけたかったのに」
ポツリと私も呟いた。
「君はどうしてここへ来たの?」
少年はどこか懐かしい響きをはらんだ声で私に言った。
「え?」
私は彼を見た。
そして妙な違和感を覚えた。
彼は十代の少年に見えていたはずだった。
ところが今は腰が曲がりそうな年齢の老人に見える。目の下には深く皺が刻まれ、頬も落ち窪んで垂れ下がっていた。
さっきの少年とは別人なんだろうか?
急に入れ代わったとか?
思わずじっと見つめる私に構わず、
「それで──君はどうするの?」
「は?」
「このまま先に進むの?」
少年は先に見える十字架のような建物を指差した。
「えぇ……たぶん」
私は曖昧に頷いた。全くわからないが、そこへ行かなくてはいけないような気がしたのだ。
「そう」
少年は素っ気なく答える
「ねぇ。あそこには何があるの?」
私は彼に質問をした。
「あそこ? 何かあるといえばあるし、何もないといえばないかな──」
少年の横顔がまた、老人のそれに見えて私は目をこすった。
改めて少年を見ると輪郭が二重に歪んでみえる。
「僕もそこへ行くから一緒に行く?」
私たちは手にした傘を並べて歩き出した。
雨は先程よりも和らぎ、糸のように細い滴となって傘を濡らす。
「さて、ここまで来たら大丈夫。ここの番人の監視はないから」
立ち止まる少年に私も足を止める。
「ん?」
「悪いこと言わない。引き返した方がいい」
少年の顔に影が落ちた。
「ねぇ。早く! 時間はないよ! 咲良」
少年は鞭のように鋭くピシリ! と言い放った。
──?
私はその奇妙な豹変ぶりに違和感を感じた。愛情に満ちたこの口調。私の名前のこの呼び方……。
この目の前にいる少年は──ひょっとして!
「あなたは──」
私の手から透明傘が地面に落ちる。
「そう、やっと気がついた?」
少年は照れたように微笑んだ。
「久しぶりにだね。元気だった? も変か」
肩をすくめる少年の姿がまた滲み、青年の姿に変わる。
「……やっぱり!?」
私は悲鳴のような声をあげた。
「……士朗さん!」
ボロボロと私の瞼から大粒の涙が流れ落ちる。
「わかった? じゃあ早く、雨が降っているうちにここから出て。
君はまだ、ここへは来てはいけない人なんだ。だって、これから先に君が進む道はまだまだ続いているんだから──」
「……雨上がりのにおいがするわ」
突如、水のような地面の土のような、まぜこぜになった大気のにおいが私の鼻をついた。
「だから時間がないっていってるだろ? 雨が上がりきったらここから出られなくなる。さぁ、早く!」
彼は──建物の真反対にある光の渦に向かって私の背中をグイグイと押した。
「待って! ねぇ、私があなたと出会ったってことはここは、あの世?」
「そうだよ。でも正確にはまだ狭間だ。だから僕は君に会いに来た」
「……どういうこと?」
今日から二十年前に目の前の彼、かつての私の恋人の士朗は交通事故で亡くなっていた。
ちょうどデートから帰ってきた翌日、アルバイト帰りの彼を私は待っていたんだっけ。
雨の──そう。ちょうどこんな夏の夜だった。
「ねぇ── 私を迎えに来てくれたんじゃないの?」
「いいや」
「私、ずっと次にあなたと会うときはもう離れないって決めていたの。一人で戻るのはイヤよ。そっちに連れていって──」
「君には待っている人がいるだろう? 言ったろ? まだ君がこっちへ来るには早すぎるんだ」
穏やかに彼は生前のように私に語りかけた。
「やだ! もう生きていくのは疲れたの。あなたと一緒にいたい。もう一人ぼっちはいや!」
「大丈夫。ずっと僕は君と一緒にいるから。それにちゃんと見てごらん。いつも君の回りには君を見てくれている人が沢山いるよ。
昔、言ったろ? 君は、お日さまなんだ──沢山のひまわりが君を追っかけてぐるぐると頭を巡らしているんだぜ……」
そう言うとそっと彼は光の中へ私の背中を押した。
わかっている。
大事な子どもが私を待っている。仕事で私を待っていてくれる人もいる。
まだまだ、私は生きなくちゃいけないんだって。やることが沢山あるんだって分かってる。
でも──。
私は誰かを照らすお日さまよりも、あなたを追いかける向日葵でいたかった。お日さまをひたすら夢中で追っかける向日葵に──なりたかったの。
私が振り向くと、急に黄色い光のお日さまのような彼に包まれた──ような気がした。
◆◇◆◇◆
ピッピッピッ──。
規則正しい電子音。
白い天井と消毒の臭い。
重い瞼をあげた私の耳に知らない男の声が聞こえた。
「聞こえますか? 咲良さん」
鋭いブレーキ音と雨で滑るタイヤのゴムが焼ける臭い、身体にぶつかってきた重たい鉄の感覚が甦る。
あぁ──私。
彼の事故の現場に献花に行って──。
あそこで死にかけたんだ。
だから彼に逢えたのか。
あの向日葵が咲く交差点で──やっと逢えたんだ。
「ママ! ママ大丈夫?」
心配そうにのぞきこむ、私にそっくりな顔立ちの息子の茶色い瞳とぶつかった。
「──うん。大丈夫よ」
「いたくない?」
事故にあった母を気遣って息子は、抱きつきたいのを我慢してモジモジしながら母の髪を撫でた。
「痛くない。おいで──」
子犬のように飛びついてくる息子の柔らかい頬の感触にまた涙が流れる。
この子を置いていこうなんて、私はなんでそんなことを思ってしまったんだろう。
「やっぱり痛いの?」
「ううん」
さっきバタバタとやって来た主治医の説明によると奇跡的に打撲と脳震盪程度の怪我で済んだらしい。
我ながらなんとも丈夫な身体である。
「はい、これ」
退院してもいいですよ、と言われてノロノロと荷物を片付けていると息子が後ろ手に持っていたものを私に差し出した。
「お誕生日おめでとう」
それは彼が色紙で手作りした花束だった。
「いつも僕のために色々ありがとう。元気でいてね、ママ──事故とかもうあわないでね」
「……うん」
私はやはり向日葵よりも、この子を照らすお日さまでいよう──手作りの歪んだ向日葵の花束と息子を両手いっぱいに抱きしめながら、そう思った。
〈Fin〉
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