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序章 星犯す天
冬の空気はきんと冷たく澄んでいて、月のない夜空に散る星々は殊更よく見えた。
年端もいかない少年は、日課を果たすため今夜も中庭に下りていた。白い息を吐きながら、静かに夜空を見上げて、星をよく観察した。
ここ数年は国に小さな乱れが多発していたが、まだ抑えきれている。少し星が乱れているのは見慣れたもので、このまましばらくは大きな変事もなく国は続くだろう。
少年が正面に顔を戻す前に、最後にもう一度空を眺め渡したときだった。東の空に妖しい光が煌めくのが目に留まった。
「あの鎮星……」
少年は年齢にそぐわない堅い口調と厳しい面持ちで目を細める。そして、黄色の砂が敷かれた地面にしゃがみ込み、右手の人差し指と中指立ててつくった刀印で何やら図を描き始めた。
方形の中に円、その縁々に十二支や二十八宿を描き、中央には北斗七星を置く。これだけなら六壬式盤を模したものだが、少年は北斗七星の周りに今夜見た星を配置していく。最後に「急々如律令」と唱えて、描き上げた図に気を送った。
すると、中央に描いた星が動き出す。少年はその東方を注視していた。東の井宿に入った鎮星が留まっていたかと思うと、通常の星回りとは逆方向に動き、やがて卿伴星に最接近した。
「鎮星が卿伴星を犯すとは……。御父上はご存じなのだろうか」
「余がどうかしたか?」
少年が振り返ると、縁側に父が立っている。いつもながらに気配も足音もなく、少年は声を掛けられるまで父の存在に全く気付いていなかった。
「政務はもうよろしいのですか」
近頃は特に忙しそうにしているのを少年はよく目にしていた。ただでさえ多忙な身である父に卜占の結果を話すのは憚られる。少年は当たり障りのない、しかし本心からの心配の言葉を口にした。
「余にできるのはこの守られた中央御殿で御上として政を取り仕切ることのみ。我慢を強いている民や戦陣で戦い続ける四家のことを思えば、このくらいの役目果たせなくてなんとする」
「これは過ぎたことを申しました。失礼しました」
「良い。余の身を案じてくれたのであろう。司よ、そなたはほんに優しい子だ」
父は柔らかに微笑み、縁側を下りて司の隣に並んだ。そして地面を一瞥する。
「そなたも視たのだな」
司は悲しい瞳を父に向けた。
「御父上はご存じだったのですね。……ならばご自身の命数もまた……」
父は夜空を見上げた。その視線の先には鎮星がある。
「鎮星が卿伴星を犯すは天子に喪事・大喪あり。敵が侵攻し、国は乱れ、多くの民が去ぬ。……半年後、余は死ぬのであろうな」
父はつと司へと視線を下ろすと、儚げな笑みを浮かべた。
「こればかりは仕方ない。そのような星の下に生まれてきた、それだけのことだ」
月明かりがないせいで、闇夜は深い。その笑顔も相まって、司はいまにも父が消えてしまいそうだと恐怖した。このときばかりは司はただの六歳の少年だった。
「何故、そのようにおっしゃるのですか。天曹地府祭はされないのですか。司は、御父上にもっと生きていてほしいのに……!」
天曹地府祭を執り行えば、天の神々に延命長寿を請い願うことができる。徳高い父ならば願いを聞いてもらえるかもしれないと司は唯一の可能性を口にしたのだが、父はきっぱりと否定した。
「天曹地府祭は、しない。これ以上、四家に負担をかけたくはないのだ」
そして、父は身を翻して司の手をとった。足取りはゆっくりなのに、握る手の力は強い。この決定は覆させないという父の断固とした思いが伝わってきて、司は口をつぐんだ。
父は優しく、あたたかく司に微笑みかけた。
「余はそなたのような息子を持てて幸せ者だな」
それは紛れもない父親の顔で、司は泣きたくなる気持ちをぐっとこらえて息子らしく努めて明るく応えた。
「司も、父が御父上で幸せです」
そして時は流れ、司の日課は全く機能しなくなった。星が見えなくなったからだ。
以来、太陽が姿をのぞかせることはなく、空は常に厚い雲に覆われ、雨が断続的に降るようになった。
鎮星が卿伴星を犯す、ひと月前のことだった。
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