第一話 崩壊の雨音

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第一話 崩壊の雨音

 最後に太陽を見たのはいつだったか。厚い雲が空を覆うこと、ひと月以上。断続的に降る雨だったが、今日はいつものような小雨ではなく、地を打ち付けるような強い雨脚だった。 「あかり、大丈夫?」  雨の音にかき消されそうなほど小さな声だったが、その凛とした澄んだ声ははっきりと呼びかけられた少女の耳に届いた。  雨に濡れたせいか、それともひと月にも及ぶ戦いのせいか、やけに袂や袴の裾が重く感じられる。それでもあかりは気丈に振舞う。疲れや絶望に近い感情を振り払うように、強く頭を振った。巫女のように後ろで束ねた髪は長く、赤い毛先と滴が視界の端に飛び散った。 「私は大丈夫だよ」  言葉の通り、大きな丸い瞳は赤くきらめいている。希望を信じている、力強い眼差しだ。 「でも、あかりは水、苦手だし……」 「心配してくれてありがとう。こんなときでも結月(ゆづき)は優しいね」  あかりがふっと表情を和らげ微笑むと、相手の青年は虚を突かれたように目を丸くした。そうしていると変化に乏しい端正な顔もいくらか幼くなり、愛嬌さえあるように感じられる。  白皙(はくせき)の肌、目にかかる前髪、長いまつ毛に、通った鼻梁、薄い唇、細い顎。纏う雰囲気は憂いを帯びて、儚げで、いっそ艶っぽい。うなじで結った綺麗な青い髪は肩から垂らしているが胸下まであり、それもまた女性のような繊細な美しさを醸していた。しかし、一見すると線は細いが、日頃の訓練や稽古もあって体格は男性的だ。あかりより一歳年上なだけだが、男女の差というべきか、あかりが軽く見上げるほどに身長もあった。  青い瞳は、普段は凪いだ湖面のように穏やかで、月光を灯したように優しい。不器用な彼の言動以上に心の内をよく表すその瞳が、あかりは大好きだった。  今だって優しい色は変わらない。あかりを心底から心配しているのが、言葉以上に伝わってきた。  結月の思いを無下にするのは、本意ではない。できることなら今すぐ雨のしのげるところへ駆け込み、雨の滴を払いたかった。……こんな戦いなど早く終わらせて、温かい部屋で、幼なじみ四人でおしゃべりしたかった。  迫りくる殺気に、甘い空想さえ打ち砕かれる。 「来た!」  結月も同時に気づいたようだ。特に表情を変えずに、あかりに頷き返した。 「式神使いが二人に、式神が二体」  右の袂から十数枚の霊符を取り出して、結月は前方をひたと見つめた。 「除災与楽(じょさいよらく)身上護神(しんじょうごしん)急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」  結月の静かな声に呼応して、左手に握る霊符のうちの二枚が青く発光した。光と符が空気に溶けるようにして消える。  直後、殺気が姿となって現れた。 「見つけた! あの赤と青の袴……。間違いない、四家(よんけ)朱咲(すざく)青柳(せいりゅう)だ!」 「子どもだが、油断はできない。……行け、飛燕(ひえん)!」  男の号令によって式神が突っ込んでくる。あとに続くように、もうひとりの男の式神である狼も襲い掛かる。  燕はあかりを標的にした。  狼の方は結月に向かっていったようだ。視界の端で青の光が閃くのだけがわかった。  眼前から目を逸らさず、あかりはさっと宙に右手を滑らせた。瞬きの間もなく、その手に赤い光の粒子をまとった霊剣が現れる。粒子の霞の合間に白銀の刃がきらりと覗く。 「青柳、白古(びゃっこ)、朱咲、玄舞(げんぶ)空陳(くうちん)南寿(なんじゅ)北斗(ほくと)三体(さんたい)玉女(ぎょくじょ)」  九字に合わせて、足を引きずるように九歩、地面を踏みしめる。同時に、四縦五横に剣を振った。赤い光が弾け飛び、あかりの周囲でふわりふわりと舞い踊る。  洗練された動きに隙はなく、謡うように九字を唱え、しなやかに舞う姿は神楽のようであって、鬼気迫る空気をまとい力強く霊剣を斬るように払う姿は剣舞のようでもあった。 「急々如律令!」  目の前に迫る燕に向かって、霊剣を袈裟懸けに斬り下ろした。  瞬間、燕は白い和紙に変じてしまった。  飛燕を使役していた男が、焦ったように懐から小さな和紙を取り出そうとしたが、その前にあかりは男に向かって駆けて行く。速度を上昇させながら、即座に人を気絶させる遠当法(とおあてほう)を唱える。 「安足遠(あんたりをん)即滅息(そくめつそく)平離乎平離(びらりやびらり)即滅名(そくめつめい)斬斬鬼命(ざんざんきめい)斬鬼精(ざんきせい)斬足火温(ざんだりひをん)志緩式神(しかんしきじん)新雲(あたらうん)遠是蘇(をんぜそ)斬斬平離(ざんざんびらり)阿吽(あうん)絶命(ぜつめい)即絶(そくぜつ)(うん)斬斬足(ざんざんだり)」  あっという間に間合いに入れると、最後の一言とともに剣を振り払った。 「斬足反(ざんだりはん)!」  男は驚いた表情のまま、後ろに倒れこんだ。あかりの霊剣は邪気を払っただけなので、男に刀傷はない。むしろ心なしか穏やかな顔で気を失っていた。雨ざらしというのも気の毒に思えたので、霊剣を消したあかりは手近な軒下に男を引きずって運んでおいた。すると、決着がついた結月も気絶した男を肩で支えてやってきた。 「あかり、怪我はない?」 「うん。結月も大丈夫そうだね」  結月はそっと男を横たえると、背後を振り返った。あかりもそちらを見ると、白い虎が猛速度でやってくるところだった。  虎はあかりたちの傍まで駆け寄ると、白い光に包まれた。光が収まると、虎は消え、代わりに白い青年が立っていた。 「そいつら陰の国の式神使いだろ。なんで介抱してやってんだよ」  呆れと苛立ちの混じった声で、青年は吐き捨てる。前線にいたであろう彼は興奮状態のままで、機嫌が悪い。白い瞳は眼光鋭く、そこに普段の親しみやすさは見られない。幼なじみでなければ萎縮してしまっていただろう。  雨に濡れた白い髪は常のはね放題のくせっ毛も鳴りを潜め、肩につく長さだったものが僅かに伸びている。髪、目、上衣から袴まで白一色の彼の数少ない色は、着崩したためにはだけている胸元の薄橙色と、ハーフアップに髪を結う鈴付きの組紐の赤、青、白、黒だけだった。 「(あき)。どうしてここにいるの?」 「前線は? (すばる)もまだそっちにいる?」  秋―秋之介(あきのすけ)―の疑問には答えずに、あかりと結月(ゆづき)は矢継ぎ早に質問した。  もしや戦いに決着がついたのだろうか。でなければ、強力な四家のうちの一家である彼が中央の前線から離れられるとは思えない。  期待をにじませる二人の視線から逃れるように、秋之介はふいっと目を逸らした。  その仕草だけで、秋之介が何を言わずとも状況を悟ってしまった。 「……ここらは最悪捨て置くしかねえ。中央に戻って、新しい御上(おかみ)の身を守るようにって命令だ」 「新しい、御上様……?」  命令された内容に理解が追いつかない。しかし、徐々にその意味が分かってくるにつれ、血の気が引いた。ふらついた体をとっさに支えたのは隣にいた結月だった。彼はすでに現状を理解しているようだった。 「……崩御、されたんだね?」  結月の確認に秋之介は静かに頷いた。髪紐の小鈴が揺れたが、強くなる雨に鈴音は聞こえない。 「新しい御上はまだ七歳になったばっかりだ。中央もバタバタしてるけど、前線はそれどころじゃねえ。今は昴たち玄舞家(げんぶけ)が結界を張って持ちこたえてるが、時間の問題だ。早いとこ決着をつけねえと……」 「わかった。とにかく急いで戻ろう」  あかりは言うや否や、中央に向かって駆け出した。結月と秋之介もすぐさま後を追いかける。  鬼門である(うしとら)の方角から三体通(さんたいどおり)を下り、朱咲通(すざくどおり)を西に進むと中央御殿が見えてきた。一応、形だけは保っている御上の屋敷に安堵したのも束の間、目の前に飛び込んできたのは凄惨な光景だった。  この陽の国で陰陽術が使えるのは、あかりの生家・朱咲家、結月の生家・青柳家(せいりゅうけ)、秋之介の生家・白古家(びゃっこけ)、昴の生家・玄舞家、そして御上の生家・黄麟家(きりんけ)の五家しかない。  黄麟家は卜占(ぼくせん)を専門とするため戦いには不向きで、戦時には一般人と変わらない。残る四家である霊剣と言霊をのせた祝詞(のりと)を専門とする朱咲家と霊符の使い手である青柳家は戦いに有利だが、神憑(かみがか)りを応用して憑依させた力でかろうじて戦える白古家と呪術的医療・結界術の守護系に特化した玄舞家は前者の二家ほど戦いに強くはない。それでも今回は総動員で戦地に赴いていて、現状の厳しさを嫌というほど物語っていた。  故に、道の端々に倒れる人や妖、半妖はほとんどが顔見知りだった。 「あかり様……! お戻りになられたのですね」  声を辿って下に目を向ければ、あかりが小さいときから世話になっている家臣の一人だった。 「(たけ)さん……!」  思わず駆け寄って、膝をつく。ぬかるみなんてどうでもよかった。それよりも彼の傷の具合の方が大事だ。竹の右腕は青紫色に膿んでいた。 「ひどい傷! どうしてこんな……」  あかりがきつく下唇をかむと、竹は傷を負っていない左腕を持ち上げ、あかりの頬を撫でた。その力はそっと優しいというよりも、どうしようもなく弱々しいものだった。 「竹さ……」 「姫様、傷にはどうか触らずに。これは呪詛(じゅそ)です」  なんとなくわかってはいたが、言葉にして突きつけられると深い絶望が目の前を覆った。 「で、でも、昴なら治せるかもしれない。だからっ……」  言葉を失うあかりの背後に足音が響いた。その人物はあかりの肩に手を置くと、首を振った。 「ごめんね、あかりちゃん。竹彦(たけひこ)さんは助けられない」  はっと顔を上げると、黒髪の少年と目があった。  本来はふわふわとしたくせ毛をそのままに、左肩にかかる髪だけ伸ばし三つ編みに編んでいる。しかし、この雨のせいで少年の髪はぺたりと濡れそぼっていた。そのせいか、いつもにこにこと温和な彼を遠く感じてしまう。黒い瞳を無情にも冷たいと思ってしまったのは、気のせいだと思いたかった。  外見こそあかりと同じくらいだが、彼は四人の幼なじみのなかでも最年長だ。加えて玄舞家(げんぶけ)きっての腕の持ち主といわれ、医療にも多く携わっている。救える者から優先して治療を施すというのは、彼にとって至極当然の考えで、あかりも冷静に考えられたなら概ね同意できただろう。しかし、このときばかりはそうもいかなかった。 「なんで⁉(すばる)の力があれば助けられるでしょ?」 「呪詛を解呪するにしても返すにしても見合わないからだよ。……竹彦(たけひこ)さんよりよっぽど救える命はあるんだ」  真っ黒な瞳を竹彦に向け、昴は「……わかってください」と呟いた。謝らないのは、昴の矜持でもあり誠意でもあったからだろう。竹彦にもそれは伝わったようで穏やかに微笑んだ。 「さあ、姫様、行ってください。わたしは最期にあかり様にお目にかかれて幸せでした」 「最期なんかじゃ……!」 「あかりちゃん」  滅多に耳にしない昴の厳しい声音に、あかりは動きを止めた。昴はあかりの耳元に口を寄せると、ともすれば雨音にのまれてしまいそうなほど小さな声で囁く。 「竹彦さんの思いを無駄にしちゃだめだ。君に苦しみ死ぬ様を見せたくない彼の気持ちをくんであげて」  あかりはもう一度、竹彦を見ると、うなだれて立ち上がった。  昴は袂から薬包紙を取り出して、竹に手渡した。 「僕にできるのはこれだけです。……苦しむことなく逝けるでしょう」 「ご温情感謝いたします、昴様。あかり様を、どうかよろしくお願いいたします」  昴はしっかり頷くと立ち上がり、あかりの手を引いた。あかりは振り向きざま、最後にもう一度だけ竹彦を見た。 「……竹さん。大好きだよ。……いままで、ありがとう」  小さな小さな呟きは雨に紛れて届かなかったかもしれない。しかし、竹彦は慈愛に満ちた眼差しで、あかりを目に焼き付けるようにじっと見つめていた。  仲間の倒れる玄舞大路(げんぶおおじ)を悲痛な思いで駆け抜け、中央御殿の真下までやって来た。そこでは今まさに激しい戦いが繰り広げられていた。  あかりたちの姿を目に留めるなり、四方八方から式神が襲い掛かってくる。  一瞬で白虎に変化した秋之介(あきのすけ)が前足を振るって鋭い爪で式神を切り裂いた。それとほぼ同時に、昴が結界を張るべく九字を唱え、禹歩(うほ)を踏む。 「青柳(せいりゅう)白古(びゃっこ)朱咲(すざく)、玄舞、空陳(くうちん)南寿(なんじゅ)北斗(ほくと)三体(さんたい)玉女(ぎょくじょ)」  結界が展開され、あかりたちを避けるように、雨が遮られた。さながら立方体の箱に閉じ込められたといったところか。 「なんかさっきより増えてねえ?」  虎姿のままでも、秋之介がうんざりしているのがわかった。 「でも、あかりちゃんとゆづくんが戻ってきてくれたし。ここは二人の力に期待するしかないよね」  軽い口調とは裏腹に、昴の顔は強張っている。  結月(ゆづき)も緊張した面持ちで霊符を構えた。 「……いつもの作戦?」 「それがいいだろうね。あかりちゃんの術が一番効率いいし」 「うーっし。そんじゃ、やりますか」  結月(ゆづき)たちの視線を一斉に受けて、あかりは一度まぶたを閉じる。次に目を開いたときには、まるで別人のようなあかりの姿があるのみだった。普段の天真爛漫さは影を潜め、先ほどの悲しみも打ち払った彼女はまさに鬼神が乗り移ったような神妙で威厳ある空気をまとっていた。  あかりが宙に右手を払ったのを合図に、皆もそろって動き出す。三人の動く気配を感じながら、あかりは呼び出した霊剣を構えた。 (今日の旺方(おうせい)(ごん)の方向だから、西)  まずは西に向かって旺気を吸い、十二回歯を叩いて鳴らしながら、心の中で無事の邪気払い成功を祈念した。次に、西に背を向けて勧請呪(かんじょうじゅ)を唱える。 「天地の父母たる六甲六旬十二時神(りっこうろくじゅんじゅうにじしん)青柳(せいりゅう)蓬星(ほうせい)天上玉女(てんじょうぎょくじょ)六戊(ろくぼ)・ 蔵形之神(ぞうぎょうのかみ)、我が母神たる朱咲(すざく)に願い奉る」  あまねく神々に声が、祈りが届くように、一心に奏上する。  朱咲家の一族は言霊を操る能力に長けている。そのため、ただの祝詞も朱咲の者が謡うことで絶大な威力を持つようになる。  あかりの祈りの声に呼応するように、霊剣のまとう赤い光の粒子が輝きを増した。  そこでようやく、あかりが動き始める。結界内を円を描くように、禹歩(うほ)の足運びで一巡りしていく。 「玉女、白古(びゃっこ)、朱咲、勾陳(こうちん)玄舞(げんぶ)六合(りくごう)、六甲、六神(りくじん)、十二時神に乗り、我を喜ぶ者は(さいわい)し、我を(にく)む者は(つみ)せらる。百邪鬼賊、我に当う(むか)者は亡び、千万人中、我を見る者は喜ぶ」  二周目からは霊剣も振った。しなやかに踊るように、猛々しく斬りつけるように、ひとつひとつの動作に気をこめていく。 「今日の禹歩、上は天罡(てんこう)に応じ、玉女傍らに侍り、下は不祥を()く。万精を厭伏(えんぷく)し、向かう所(わざわい)無く、治す所の病は()え、攻むる所のものは開き、撃つ所のものは破し、求むる所のものは得、願う所のものは()る。帝王・大臣・二千石の長吏、我を見て愛すること赤子の如し。今日、玉女大臣、我に随いて進まんことを請う」  ぴたりと踏み出した位置に戻ってくると、次に東、南、西、北へ順に体を向けながら、各方位神の勧請を願う。 「東方諸神、功曹・太衝・天罡・青帝・甲乙(こうおつ)大神。南方諸神、太乙・勝先・小吉・赤帝・丙丁(へいてい)大神。西方諸神、伝送・従魁・白帝・庚申(こうしん)大神。北方諸神、登明(とうみょう)・神后・大吉・黒帝・壬癸(じんき)大神にも願い奉る」  儀式も半ばに差し掛かったころ、(すばる)の強力な結界を潜り抜けて狐の式神があかりに突進してきた。祝詞奏上に集中しているあかりはそれには気づかない。 「ちっ、逃した!」  秋之介(あきのすけ)の舌打ちに反応して、結月(ゆづき)は振り返ることなく霊符を背後に放った。 「雷火焼炎(らいかしょうえん)急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」  狐に張り付いた霊符が青い光を放つと同時に、真っ赤な炎が燃えあがる。狐は白い和紙に戻り、端から炎にのまれて、やがて完全な灰になった。 「悪かった」 「いい。それより、前見て」  きりなく式神が迫りくる。ほとんどが昴の結界に追い返されているが、ときおり放たれる強力な式神は結界を潜り抜けてしまう。あかりの儀式を邪魔させないよう、結月たちは必死に防衛する。  その甲斐あって、あかりの儀式は滞りなく進み、|乾坤二儀交泰の呪文に入っていくところだった。再び円を描き、舞い踊る。 「乾尊燿霊、坤順内営、二儀交泰、六合利貞、配天享地、永寧粛清、応感玄黄、上衣下裳、震離艮巽、虎歩龍翔、今日行算、玉女侍傍、追吾者死、捕吾者亡、牽牛織女、化成江河、急々如律令」  次いで玉女を勧請する呪文を唱える。 「艮上玉女、速来護我、無令邪鬼侵我。敵人莫見我。見者以為束柴。独開我門而閉他人門」  疲労が祟り重たい身体も、雨に濡れて冷え切った指先やつま先も気力だけで動かし続ける。声が震えないように、己を𠮟咤した。 (朱咲様、どうかお力を……!)  結界中にあかりの歌声が響き渡った。 「天神の母、玉女。南地の母、朱咲。我を護り、我を(たす)けよ。我に(つか)えて行き、某郷里に至れ。杳杳冥冥、我を見、声を聞く者はなく、その(こころ)()る鬼神なし。我を喜ぶ者は福し、我を悪む者は殃せらる。百邪鬼賊、我に当う者は亡び、千万人中、我を見る者は喜ぶ」  唱え終わった直後、目を焼くような閃光が霊剣からあふれ出た。光の奔流が結界内を赤く染め上げる。  襲い来る式神が怯んだように動きを止めるのを、結月たちは見逃さなかった。隙をついて、次々と無力化していく。  あかりは結界の中央で霊剣を宙に突き出し、四縦五横の九字を切りながら、禹歩を踏んだ。 「青柳、白古、朱咲、玄舞、空陳(くうちん)南寿(なんじゅ)北斗(ほくと)三体(さんたい)、玉女」  最後に気の全てを霊剣と言霊に注ぎこみ、大喝一声、「急々如律令!」と唱え、周囲を斬りはらうようにして剣を振りぬいた。あかりを中心に赤い光の輪が拡がっていく。  波紋を描くように、近いところにいた式神から消滅していく。式神使いたちもばたばたと気絶して倒れていった。  ある程度ことの成り行きを見守っていたあかりだったが、ふっと膝から力が抜けた。 「あかり!」  結月が真っ先に駆け寄ってきた。人間姿に戻った秋之介と昴も身を翻す。どうやら邪気は一掃できたらしい。 「よく頑張ったな」 「これで形勢が逆転したかも。あかりちゃんのおかげだよ」 「ううん。三人が、護ってくれた、から」  あかりが乱れる呼吸の合間に途切れ途切れ言う。四人は顔を見合わせて微笑んだ。 (これで、戦いは終わるはず……)  静寂を支配するのは雨の音だけだ。戦いの気配は全く感じられなかった。 「帰ろ……」 「いや、待て」  あかりの言葉を、秋之介(あきのすけ)が短く制した。秋之介の目は南の方をじっと見つめている。その方角にはあかりの屋敷や朱咲家(すざくけ)が管轄する町がある。途端に背筋に冷たいものが走った。 「秋……?」  不安になってたまらず呼びかけるが、秋之介は返事をしない。代わりに徐々に目を見開いて、独り言のような呟きをもらした。 「……悲鳴。なんて言ってる? 南朱湖(なんしゅこ)、が……溢れ? まさか!」  立たない膝を恨めしく思いながら、あかりは膝行して秋之介ににじり寄った。 「え、ねえ、うそだよね……? 湖が溢れたなんて。だって、そんなことになったら、朱咲の地の人々は、お父様とお母様は……」  最悪おぼれ死んでしまう、とは続けられなかった。  朱咲の守護を受ける者は、陰陽五行説に基づく火の加護を得られるが、相克(そうこく)である水には弱い。それは朱咲の守護を強く受ける者ほど顕著だ。町人より分家、分家より本家。あかりの父は婿入りした天狐の妖であり、本家の血を色濃く継ぐのはむしろ母の方だった。あかりもそうだが、本家当主の資格を持つ者あるいは持っていた者は往々にして水や雨が大嫌いで、泳げない。 「お、母様……っ」  自身が水に弱いことも忘れて、あかりは残る気力でなんとか立ち上がり、屋敷を目指して走り出した。 「今行っちゃだめ……!」  伸ばした結月(ゆづき)の左手をすり抜けて、あかりは一心不乱に駆けた。 「あんのバカ! どこにあんな体力残ってたんだよ!」 「とにかく連れ戻さないと!」  三人があかりに追いすがろうとすると、町屋の陰からしぶとく残っていた式神使いが走り出てきた。 「こんなときに……!」  結月が柄にもなく苛立った声をあげる。そうこうしているうちに数体の式神に周囲を取り囲まれた。 「わんさわんさと、しつけえ……なっ!」  変化の時間すら惜しい秋之介は懐から小刀を取り出して、鞘から振りぬきさざま相手に斬りかかった。  ぐるりと円を描かれていて、突破口は見当たらない。あかりを追うには全ての式神と式神使いを倒すしかないようだった。 「青柳護神(せいりゅうごしん)雷火焼炎(らいかしょうえん)恐鬼怨雷(きょうきえんらい)急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」  宙に散る霊符が真っ青な光であたりを照らす。その一撃で、式神の半分は消えた。 「……邪魔しないで」  結月は残り半分の式神を冷たい瞳で睨みつけた。  一方あかりは、朱咲大路(すざくおおじ)を下り続けていた。  左手に広がる青柳(せいりゅう)の守護する土地がなんだか騒がしいが、今のあかりに構う余裕はない。  脚の感覚はとうに消え、重いも疲れたももはやわからない。自分の脚かも定かでなく、ただ走っているということだけが確かなことだった。  慣れ親しんだ朱咲大路は屋敷に近づけば近づくほど、見たこともない場所へと様変わりしていた。床が水浸しになるのはまだましで、入り口の木戸が半壊していたり家屋自体傾いていたりも珍しくない。 (それにしても、町民が見当たらない)  避難しているのならいいのだが。そこまで考えて、気づいてしまった。陰の国の手が最も及ばなかったのは中央から離れたところ。南の地でいうところの、朱咲家の屋敷であったこと。そして屋敷の裏手に広がるのが件の南朱湖(なんしゅこ)だということに……。  当代当主のあかりの母は、屋敷に避難させた町民を守るため、そこに残っていたのだ。  最悪の想像があかりの脳裏を過った。 「朱咲、様っ! どうか、どうか、愛すべき南の地の民を、お護り、ください……っ」  あえぎあえぎ、それだけを祈る。  私の言霊に力があるというのなら、願いを聞き届けてください、と。  やっとの思いで朱咲門に到着した。  あかりの願いも空しく、門の向こうには茶色の海が広がっていた。  ほとんど放心状態で、門の敷居をまたぐ。じゃぶ、という水の重たい音がした。足首まで水に浸かる。恐ろしくなるくらい屋敷周辺にひと気はなく、音といえば雨が水面を打ち付ける音とあかりが水をかき分ける音しかなかった。 屋敷にたどりつくころには水かさがあかりの胸下まで迫っていた。水に対する恐怖心から、本能的に呼吸が浅くなる。しかし眼前の光景は、あかりにそれ以上の恐怖を与えた。 「何も……ない……」  二日前、最後にここを出たときは確かに存在した屋敷がそこにはなかった。よろよろと足を踏み出すと、何かにつまずいた。掴まるものは何もなく、泳ぐこともできないあかりは頭から水中に突っ込んだ。 (やっ……‼ 苦しいっ!)  濁った水中でもがきながら、目にしたのは水底に残された土台となる木枠だった。あかりの記憶では、ここは玄関にあたる場所だった。 「はっ……! げほ、ごほっ‼」  死に物狂いで水面に顔を出し、肺いっぱいに空気を取り込んだ。目尻に熱い雫が溜まった。 「誰か……誰か、いないの……?」  屋敷の傍まで来ても、人っ子ひとり見当たらない。  左右に慎重に目を走らせながら、あかりはゆっくり水中を進んだ。いよいよ顎まで水に沈もうかというときに南朱湖だったところにたどり着いた。 「……」  瞬間、呼吸が止まった。  湖の奥に色が見えたからだ。赤、黒、白、薄橙……。 「い、いやあああああっ‼」  偶然近くを漂っていた『それ』を見てしまった。苦悶を浮かべた表情のまま、あかりを見つめるその人は近所の駄菓子屋のおばあさんだった。通りを駆けるあかりを目にする度に、あかりの大好物の金平糖をくれた優しい兎の妖だった。  半狂乱で顔を振り上げると、地平線の彼方では人が水面を覆っていた。手前になるほど人がはけている。そこにあかりは見慣れた赤を見つけた。 「おかあ、さま……」  吸い寄せられるようにその身に手を伸ばす。途中でがくんと足が水中をかいた。驚きに目に映る光景がスローモーションのように見える。 (式神の符……⁉)  一瞬しか見えなかったが、母の側には式神用の符が浮いていた。おぼれかけながら、手探りで符を掴もうとしたが上手くいかない。次第に意識すら曖昧になっていく。 (みんな、こんなふうに苦しかったのかな……)  伸ばした右手、その袂から両親にもらったお守りが滑り出る。ぼやける視界でとらえられたのは赤い物が離れていくということだけ。 (……せっかく、帰れると思ったのに。ごめんね、結月(ゆづき)(あき)(すばる)……)  大事な幼なじみの名前をぼんやりと思い浮かべたところで、あかりの意識は水にとけ消えた。  式神使いと式神を倒すのに、そう時間はかからなかった。  しかし予想外の出来事に、三人は足止めを食らっていた。 「くっそ! 南朱湖(なんしゅこ)だけじゃなく、東青川(とうせいがわ)も氾濫かよ……!」  あかりの後を追おうと朱咲大路(すざくおおじ)を駆け出してすぐに、左手に広がる東の地が騒がしいことに気づいた。避難してきた町民が結月(ゆづき)たちに知らせてくれたのは、東青川が氾濫したということ、被害状況は未だ確認できていないということだった。 「降雨による被害だとは考えにくいね……」  (すばる)が顎に手を添えて考え込む。 「人為的な感じもするよな。陰の国は式神使いの集団だし」  秋之介(あきのすけ)と昴がぽつぽつと話している間、結月は町人から大体の話を聞いていた。 「ここらはまだ救いようがありますがね。相生(そうじょう)(すい)ですし、当主様もご健在ですし」  町人はあかりがいないことに気づいているためか、言いにくそうに少し声を潜めた。 「南の地は……ひどい有様だそうで……」  結月はひとつ頷くと、焦れたように切り出した。 「……市太郎(いちたろう)さん、迂回路はわかる?」  市太郎は結月の心情を慮って、素直に質問に答えた。 「朱咲大路はもう使えません。ちっと遠回りになるが西奥の白古通(びゃっこどおり)ならまだなんとか……」 「ありがとう、市太郎さん。あかりを見つけたらすぐに戻るから。父にもそう伝えておいてください」  結月は軽く頭を下げると、教えられたとおり白古通に向かって駆け出した。途中から話を聞いていた秋之介と昴も同じく駆け出す。  北斗通(ほくとどおり)を西に突き進み、白古通に至る。さらに白古通を下って、玉女通(ぎょくじょどおり)に入った。西の地と南の地の境で、秋之介がほんの僅かに歩を緩めた。 「……あかりの、叫び声」 「急ごう」  駆けに駆けて、ようやく南朱湖の西端に出た。三人は朱咲門、次いで屋敷の方向を眺めて言葉を失った。  屋敷があった場所には何もなく、南の地の民が島のように浮いていた。  あまりに惨い光景に、しばらく立ち尽くしてしまう。 「さっきの叫び声は、これを見て……」 「っ! あかりちゃん! いる⁉」  一番に声を張り上げたのは昴だった。我にかえった結月と秋之介もあかりの名を呼ぶ。  滝のような雨に打たれながら水中を進んでいくと、水深が徐々に増すことがわかって、結月はぞっとした。秋之介と昴も同様に感じたようで、その声に焦りがにじむ。 「お願いだから、おぼれてるなよ……!」 「秋、縁起でもないこと言わないで!」  常の穏やかさはなく、当り散らすように結月が叫ぶ。秋之介の言葉に腹がたったのも事実だろうが、己の不甲斐なさに苛立ちを感じているような思いつめた顔をしていた。 「こんなときにけんかしないの。ちょっと僕、水中見てみるから」  玄舞(げんぶ)(すい)を司るため、昴は泳ぎが得意だ。濁った水に臆することなく、水中に潜った。水底を泳ぎ進めて、数分後、昴が浮上した。その手には赤い何かが握られている。 「おぼれてはいないみたい。ただ、もっとまずいことになったかも」  結月と秋之介の側に戻ってくると、拾ったものを二人に見せた。 「これ、あかりのお守り……⁉」  赤地に金糸、銀糸の鳳凰の刺繍が施されたお守りは、あかりが両親に作ってもらったといって初任務のときから大事にしていたものだった。  一度失くしたことがあったが、そのときはあかりたちのなかでちょっとした事件にもなった。以来あかりは、絶対になくさないと誓っていた。それくらい彼女にとって大事なもののはずだ。  それが持ち主なくして、水中に沈んでいた。  嫌な予感がする。そして、その予感を裏付けるように二枚の符が流れてきた。 「これって、ゆづのじゃないよな」  結月(ゆづき)はそれらをつかみ取ると、破れないようそっと開いた。 「なんて書いてあるの?」  符には明るくない昴が、結月の手元を覗き込む。その手元は小刻みに震えていた。 「……まず、こっち」  そう言って結月が指し示したのはしわしわで今にも破れそうな小さい和紙だ。ほとんどの字は水ににじんでいるが、かろうじて『水神』だけが読み取れた。 「水神の霊威を借りようとしたみたい」  (すばる)はその一言でぴんときたようだった。 「やっぱり、南朱湖(なんしゅこ)東青川(とうせいがわ)の氾濫は雨のせいだけじゃなかったんだね」 「ともすれば、この雨自体も陰の国が引き起こした現象かもしれない」  それだけいうと、結月はもう一枚の符を示した。こちらは水に濡れてまだそんなに経っていないのか、容易に字が読み取れる。 「『天狐』なんとかって書いてあるな」  秋之介(あきのすけ)が読み上げるのへ、結月は頷いた。 「この符はまだ完成してない……というか、失敗した残骸。……こんなふうに捨て置くなんて、普通はありえないけど」 「失敗? 式神使いの集団が珍しいこともあるんだな」 「……これ……」  消え入りそうな声で、結月が呟く。雨の音にかき消されてよく聞き取れなかった秋之介が「うん?」と聞き返した。  結月はいっこうに顔を上げないまま、ただただ左手に持つ符を見つめた。 「これ、あかりを使役しようとして、失敗したみたい……」  秋之介と昴がそろって目を見開く。最初に声を上げたのは秋之介の方だった。 「使役って。あいつは天狐と朱咲(すざく)の血を引く人間の半妖だ。そんなことできるのか?」  昴は沈黙して、何かを考えているようだった。やがて考え考え推察を述べる。 「……だから結果的に失敗したんじゃないかな。相手もあかりちゃんを使役できるか賭けだった、とか」  昴の意見を結月は肯定した。 「そう。天狐の力は下せたみたいだけど、最後は抵抗されたみたい。……だけど……」 「ここにあかりちゃんがいない」  昴が結月の言葉を引き継いだ。 「……連れ去られたね」  昴の言葉を最後に、三人は黙りこくった。雨の音がいやに耳につく。  どれくらいの時間、そうしていただろうか。結月がおもむろに呟いた。 「……必ず、救い出すから。だから待ってて、あかり……」  まだあかりの温度を感じられる符の表面を優しく撫でる。  聞こえるはずのない結月の声が届いたかのように、秋之介は決意を胸に刻むように眼前の景色を食い入るようにじっと見つめ、昴は手中のお守りを決してなくさないように固く握りしめた。
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