三章 苺タルト

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三章 苺タルト

 目を開けるとベッドに横になって私を抱きしめている通政さんと目が合う。 「よかった。……さっきはやり過ぎた。大丈夫か?」  彼が動くと甘い香水の匂いがして頭が急に冴え渡る。 「いや! 離してください」 「嫌だ」  彼の腕の中で力をこめられてビクともしない。 「やっ! 離して!」  腕を引き剥がそうと力一杯押し返す。 「椿」 「離して!」   ずっと暴れ続ける私に観念したのか、解放される。すぐに起き上がると彼から距離を取った。 「出て行ってください」 「椿」  落ち着いた声で名を呼ぶ彼に怒りが込み上げてくる。 「早く!」  通政さんは何かを言いかけたが、諦めて家を出て行った。  戸の閉まる音が無慈悲に部屋中に響く。私は膝から崩れ落ちた。膝から痛みが上がってくるがすぐにどうでも良くなった。 「……っ、ヒクッ、通政さんのバカぁ……っ、ヒック……」  隣に聞こえないように声を押し殺しながら涙をシャツの袖で拭う。動く度に髪についた通政さんの香りと女性の香水が混ざり合った香りがする。  その匂いがまた違った香水のような、いい香りだった。  悔しくて、それを振り払うかのように服を脱ぎながら浴室に向かう。蛇口を目一杯ひねり、数時間前に乾かしたばかりの髪をシャワーで濡らす。 「うぅう……、うあぁ……」  時折混じる嗚咽。シャワーの湯より冷たい雫が頬を伝った。  すぐそこにラグがあるのに床に座り込んで、カーテンの間の隙間が明るくなるのを見ていた。静けさの中から小鳥の囀りが聞こえてくる。  何度洗ったかわからない髪はキシキシになっていた。  スマホの着信音が鳴る。しばらく無視していたがうるさい。重い身体を押し上げてベッドサイドに向かう。 「はい……」 『椿? 大丈夫?』  久しぶりに聞いた母の声に涙がぶり返しそうになる。心配させてはいけないと、スマホのマイクの部分を押さえてから小さく深呼吸する。 「大丈夫。寝起きだったからさ」 『あらそう。起こしちゃってごめんね。将暉{まさき}が椿に明日の親子参観に来てほしいって言ってるんだけど、来れる? 無理そうなら全然いいんだけど』 『代わって代わって!』 『ちょっと待ちなさい』  電話の遠くから弟の声が聞こえる。そういえばお盆にも帰れていないからお正月ぶりかもしれない。  実家はここから電車で一時間程のところだ。近めだからいつでも会えるという安心からか、逆にあまり帰っていなかったことに気付く。幸い今日と明日は休みだ。 「今から行くよ。そっちで一泊してもいい?」 『こっちは大丈夫よ。将暉が喜ぶわあ』 『なんて! なんて!』 『お姉ちゃん今日来るって、お泊まりしてくれるって』 『やったぁ!』  電話口で喜んでくれる声に自然と笑みが溢れ、穏やかな気持ちになる。 「それじゃあ準備して行くね」 『わかったわ』 『いつ着くの!』 『もう、静かにしなさい! 来てくれるから』 「ふふっ。じゃあ切るね」 『はいはーい』  久しぶりに聞いた家族の声は温かな感情を呼び覚ましてくれる気がした。再び立ち上がり、カーテンを開ける。 「まぶしっ」  今の私には明るすぎた。半分だけカーテンを閉めると、柔らかに差し込む光の中で一泊分の荷造りを始める。大きめのショルダーバッグに服を入れていく度に気持ちが軽くなっていく。  ここにいたくなかったのかもしれない。  私は逃げるようにして家を出た。
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