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四章 草履
「そば茶を淹れますけど、通政さんも飲みますか?」
「いや、俺はほうじ茶にする。湯だけ多めに作っておいてくれないか?」
「わかりました」
湯沸し器に二人分の水を入れてスイッチ押す。待っている間にほうじ茶のパックを箱から取り出して湯のみに入れる。以前は紅茶派だったが、通政さんが美味しそうに飲んでいるのを見ていると自然とお茶を飲むようになっていた。
私の湯呑みだけ茶渋が着いてしまっているのを見つけて苦笑いする。普段、私が作業をしながらだらだらとお茶を飲んでいるからだろう。彼はいつだって綺麗に飲み干してすぐにキッチンに持っていく。食器を洗う時の姿勢さえも綺麗だった。
「すごいよなぁ」
「なにがすごいんだ」
背後から声を掛けられてビクッと肩が跳ねる。
「いえ、あっすいません」
通政さんが湯呑みにお湯を入れていく。お湯ができていたらしい。
「二つともほうじ茶になっているが?」
「同じもの飲みたいなーなんて……」
恥ずかしくて目を逸らしてしまう。
「言ってくれたら俺がそば茶にしたのに」
「通政さんが飲みたいものが一緒に飲みたいというか……」
引かれてしまっただろうか。
彼の顔が近づいて来て、くちびるに柔らかいものが触れる。チュッとリップ音が部屋に響く。
「ありがとう」
通政さんはお盆にお茶を二つ乗せてリビングへ行く。彼の見せた穏やかに笑みに連れられる様に私もキッチンを出た。
彼の背中を見ながら歩いていると、彼が立ち止まった。一向に動かない。
「どうしました」
彼の身体の後ろから首をひょこっと出して彼の視線の方を見る。そこには拳ほどの小さな黒い穴が宙に浮いてあった。穴の奥は何も見えない、ひたすら真っ暗だった。淵は紫の炎のようなものに囲まれている。
「なに、あれ」
「俺がここに来た時にもあれが見えていた」
「ってことは、あそこに入れば元の時代に戻れるんですか」
「わからないがそれしかないだろう」
「えっ、ちょっ……」
通政さんはお盆を置いて、すり足で一歩ずつ穴に近づいていく。穴は動かず、淵の炎が穴の周囲を周り続ける。スーッと床と靴下が擦れる音を聞きながら部屋の隅で固唾を呑んで見守る。
彼の指先が炎に触れる寸前の所で思わず声を出してしまった。
「待って!」
彼は足を止めた。顔は前を向いたままで、後ろにいる私が答えるのを待っている。
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